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かいのこ汁が食べたい。

秋が近づくにつれりんご農家は忙しくなります。ちょうど今は「つがる」の収穫時期。仕事の比率が高まるにつれ家事育児への余裕が減っていくので、ふと出会う1人時間であれこれ考え事をして現実逃避してしまいます。

たとえば料理。

早朝から畑に行ってしまうので、ならば味噌汁の下煮でも……と冷蔵庫をのぞく。いただきものの夏野菜がギュウギュウと並ぶ。
冬瓜とかぼちゃ、厚揚げの味噌汁!ツルムラサキも入れたいところだけど、これはもう食べてしまった……。

※ここらでちょっと補足。これは鹿児島出身信州(安曇野)在住の現りんご農家が「郷土料理」ってなんだろう?と思い出にひたりながら考える日記です。

冬瓜の味噌煮


私(農園の妻の方)は鹿児島の出身。鹿児島というと黒豚!とかキビナゴ!とかなんというか、あっぱれ!な感じの食材が連想されがちだけれど、とりあえず私が帰省したら実家で食べたいのは冬瓜の味噌煮。冬瓜って好きなのだけれど、なぜかこの辺(安曇野)ではあまりお目にかからない。流行りもあるのだろうか。今使っている冬瓜は埼玉県産だった。口にするものはできる限り近場のもので揃えたいところだけれど、冬瓜ばかりは見かけるとつい買ってしまう。
冬瓜の味噌煮。冬瓜と豚肉、厚揚げを入れて、あればニンジンやいんげんも入れる。豚肉は高級じゃなくていいから美味しいもので。お酒もしっかり使ってきび砂糖と味噌で味を整える。彩りでとうもろこしを散らすのは私のアレンジ。

冬瓜は大きさがあるから、最初に包丁を入れるタイミングをよく考える、冷蔵庫の具合とよく相談する。煮物で使って、そのあとはゴロっとしたベーコンを入れた洋風のスープに、余裕があればきんぴらもいいし、やっぱり定番の味噌汁にもいい。大人だけだったら火鍋風の夏の鍋に入れたら絶品だった。……ただし、そんな愛しの冬瓜も我が家の幼児にはまったく人気がない。まぁそもそも「煮物が好き!」なんていう幼児は稀ですね。

かぼちゃゴロゴロ、祖母の味噌汁


私は鹿児島市の育ちだけれど、よくひとりで遊びにいった祖母の家は現在の南九州市にあった。高い山こそないけれど、そして冬の気候の違いはあるけれど、里山のまとう空気感がどこか今住んでいる安曇野にどこか似ている。

祖母宅で冬瓜の煮物を食べた記憶はないのだけれど、やっぱり食べ物の記憶はいくつもあるものだから不思議。母の味噌汁とは違う味わい、そして祖母の味噌汁は具がゴロっとはいっているのがよかった。

実家の味噌汁のかぼちゃは薄切り。油揚げも細切り。祖母の味噌汁はかぼちゃがしっかりと入っていて厚揚げ入り。当たり前だけど味噌汁は作り手によって違うものだと知る。

お盆の時期にひとり祖母宅へ押しかけていることも多かったせいか、8月になると、ふと味噌汁を作りながらかいのこ汁のことを思い出す。お盆の時期、祖母は決まってかいのこ汁を作った。

かいのこ汁、具材に特徴はあるけれど、一番の特徴は大豆が入っていること。これがものすごく贅沢な味わいになる。そしてなんだかわからない歯触りのいい食材(芋茎、それがトイモガラだったのか?本当にそうだったのか?記憶違いか?)が入っていて、あとは祖母のアレンジ、庭でとれた夏野菜がしっかり入っていた。

ああ作りたいなぁと思いつつ、大豆を前の晩から浸しておくだけの心のゆとりが最近もてない。大豆を浸水させたところで子どもたちには不評なんだろうな……と思うとなかなか気が進まない。もう少しゆとりが出てからのお楽しみということだろうか。少なくとも、「これは母の思い出の味だから!」とゴリ押しする気にはちょっとなれない。

郷土料理の本

読み物として時々眺めるのが、千葉しのぶ著・燦燦舎刊の『鹿児島の心を伝えるレシピ集 はじめての郷土料理』。イラストはさめしまことえさん。
(ちなみに、私の車にはさめしまことえさん作の「I 🖤 桜島」のステッカーが貼ってある。これは前の車にも貼っていたし、桜島に行った時には必ず買ってスペアを用意してある。)

眺めているだけでおもしろい。ああ、これは郷土食だと聞いたことがあるけど馴染みがないぞ、というものがあったり、逆にあれ?これは郷土料理ルーツなのか?という発見があったり。
「がね」という言い方はしたことがなかったし、おそらく母のつくる「お芋の天ぷら」はもう少し薄味な気がするのだけれど、さつまいもを使ってしっかり目の味付けをしてあげるかき揚げは私も時々つくる。かき揚げ!というとさつまいも(これははずせない!)と野菜と何かタンパク源を入れて……と考える自分がいる。

ひとり暮らしをしている頃に、帰省しなかったお正月、適当なレシピを見ながら雑煮を作ったことがあるけれどなにか違う。そうか海老出汁の雑煮に慣れていたんだ……ということに気づくのは後になってからのこと。そんなことをホロホロと思い出して楽しくなる本です。
ちなみに「かいのこ汁」もちゃんと載っています。

かいのことは、「粥の子」で「子」とは小さなおかずのこと。お盆に食べる「お粥」の「小さなおかず」が語源のようです。肉魚は使わず大豆と野菜や芋がたっぷり入っています。だしも昆布でとる精進料理です。

あれ、祖母のかいのこ汁は昆布で出汁をとっていたのだろうか……。干し椎茸は入っていなかった気がするし、油揚げはやっぱり厚揚げだったし、里芋入ってたっけな……。料理ってどんどん変わっていきますね。もちろん記憶も自由に書き換えられていきます。

食の思い出は無秩序に……

これは確実に、私のひねくれた性分ゆえだと思うのだけれど「食育」という言葉があんまり好きじゃない。なんでだろう、食べること、「おいしい」という感覚は自分で決めさせてよ!という反発か、そもそも教えられるという感覚への拒否反応か……。

自慢じゃないけれど20年近く実家ではほぼ料理をしてこなかった自分が、ふと夜に味噌汁を作りながら郷土料理のことを考えたりする。鹿児島の味を思い出に持つ私が、信州っ子の我が家の子どもたちに作る料理は何料理なのだろうか。その子どもたちがいつか懐かしい!と思う料理を、今私がしているのだろうか。

個人的にはそういう答えのない(問いもないけれど)感覚に陥ることができるのが料理とか食の醍醐味であって、そういうのは教えられるものじゃなくて……と思っている。あ、その地盤を築くための食育なのかしら?
そろそろ味噌汁の下煮がいい具合になりそうです。

食への使命感?農家って伝統を担うもの?


ここからはちょっと農家らしく農家サイドの話。ちょっと前に農業系の集いで、最後にアンケートに答えていたら「?」となったことがあった。
実務系の問いから興味関心まで項目があって、あるところから急に「伝統食に興味はありますか?」「どうしたら守っていけると思いますか?」「農家として伝統食文化が……」みたいな流れになっていて、最終的に伝統食の紹介やら農家の取り組みとして伝統食の料理教室を開催して……というくだりへ。

うーん、そういうふうに正面から来られると農家だからといって伝統食って個人的には興味ないんですよねと言いたくなってしまう、、、というか農家はそういう「ふるさとの味を守ります!そのための作物を作ります!」的な使命感を持ってなきゃいけないの?と違和感でいっぱいになる経験でした。これは、きっとひねくれ性分のせいだとして。たしかに伝統食を「守らなきゃ!守りたい!」サイドからしたら農家ってすごく相性がいいんですよね……。作物をつくっているし、作り続けられる環境は維持していきたいわけで。それが昔は暮らしとか文化とか密接な関係だったわけで。でも必ずしも今はそうじゃない。

個人的にはそういうモチベーションでりんごを作ってはおりません。シンプルに美味しいりんごを、と思って作っております。そのあとの解釈は手にした人が自由にすればいい。当園のりんごを手にした人が、なんらかの思い出とか経験とかをよりたくさんできるような+αの「とっかかり」をつくる工夫はしていきたいけれど、そこまで。

でも、ふとした瞬間に「伝統食」とか「郷土料理」に思いを馳せることができればやっぱりそれはいいよな……。べつにそんな大それたものじゃなくて、思い出の味ってのは理屈抜きにいいものだし。

こういうとりとめもない考えごとをするのに料理は最適です。
味噌汁の下煮、完成◎


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