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隣のネズミ-3

7月、旦那の担当する巨額の融資がうまくいき、賞与とは別の報奨金が出たというので、ご馳走でも食べに行こうか、ということになった。あれ以来私は坂田さんを出来るだけ避けるようになった。けれど、意識とは別に、坂田さんと何らかの波長もとい生活リズムが合うらしく、近所のスーパーやマンションの度々出先でバッタリ会った。その頃はようやく新型ウイルスの流行による自粛ムードも収まりつつあり、せっかく満を持して久しぶりの外食だったが、今度は帰宅のタイミングが坂田さんとばったり合ってしまった。

「ああ、こんばんは」

「コンニチハ」

 坂田さんに屈託のない主人は、坂田さんを認めるなり、ほろ酔いのいい気分で挨拶をした。初対面の時と違い、息子が主人に続いたため、私もそれに倣わずにはいかない。

「ああ、こんばんは。今日は家族でお出かけだったの?良いわね」

 坂田さんには、どうやら「面倒見の良いおばさん」という自宅マンションの「顔」を意識しているらしかった。公園で会ったときのように気まずそうな様子は微塵も見せない、初対面時の笑顔だった。

「ええ、そうです」

 と、調子の良い主人は、聞かれてもいないようなことをいろいろと坂田さんに話し始めた。息子は食べ盛りで、外食となると予想以上の高額になるので、上ロースは○皿までと決めている、とか。

「まあ、そうなの。ぼく、我慢できて偉いね」

 以前は「ぼく」呼ばわりの坂田さんを無視したが、今日は機嫌が良かったこともあり、息子は

「うん」

と、頷いた。

 後でつぶやきアプリを見てみると、彼女は「お子ちゃんとのせっかくの外食で、わざわざ金額制限するのに行く意味あるのかな?お金溜めてから来れば良いのにって思う」と書き込みしていて、ムッとした。意味のない数字と自分に言い聞かせつつも、数十のイイネに、イライラする。

 風呂から上がってから、旦那の「感じの良い人だね」という発言に思わず八つ当たりしそうになったけど、ぐっと耐えた。彼女はただ、自分に子どもがいないから、私達家族に嫉妬しているだけ。寂しい人なんだ、可哀想な人なんだ。別に実害があるわけでは無いんだから。

 

 夏休みにちょっとした騒ぎがあった。マンションにネズミが出たという。乳児がいる家の宅で、夜間モニタリングカメラを付けていたらしいのだが、キッチンにあるクラッカーの箱を漁っている姿が撮れていた、というのだ。住宅の管理会社が駆除を依頼し、自治会合でも報告があった。夏休み中は、息子が療育代わりの放課後等デイサービスの時間が変わるため、それに合わせて在宅ワークの申請をしていた。夏休み中は給食がなく、家事は大変になるが、その反面時間の都合が付きやすくなるので、子供会では面倒だと敬遠されがちの自治会合の代表を請け負った。

 その頃、私は今の半分くらい、坂田さんが嫌いだった。

 腹黒なのに、園芸が趣味で、スーパーが併設されている大型工具屋で植え替え用の鉢を探している坂田さんと鉢合わせたことが気に入らなかった。私も、簡単なロベリアから始めてみようと言うと、いろいろ教えてあげる、と、言ってきたことも気に入らなかった。ウンベラータのことを「ウンベちゃん」と言うのも、何かに媚びているような気がして気に入らなかったたし、にも関わらず、「子どもは旦那に見てもらっている」と言っただけで、つぶやきアプリで「旦那に媚びている」と言われたときは、本当に気に入らなかった。

 私が坂田さんを嫌いなように、坂田さんも私が嫌いのようだが、それぞれが違うポイントで、似たような感情を抱いていることに、嫌悪感が止まらない。坂田さんと自分が似た者同士かも知れないとは、考えるにも怖気が立った。

 自治会合に出席する代表を月毎に変える子供会サークルとは違い、坂田さんは、通期のお茶の会代表だった。だから、私は集会室に行けば必ず坂田さんに会わなければならなくなるけど、彼女は他の人の目がある時、我を出すことはほとんど無かった。毒気が強いのはつぶやきアプリの時のみ。現実の坂田さんは、マンション内では、稀に我が出るとは言え、露骨に朗らかな態度を崩すことはほとんど無かったため、私は坂田さんが嫌いでも、彼女と顔を合わせることまで厭わなかった。いや、半ば意地になっていたのかも知れない。

 彼女みたいな可哀想な人に、侮られてたまるか、と。

 

  その日の自治会合はあいにくの雨だった。室内のため天気は関係ないようでいて、共用スペースでは、いつもは気にならないカビのようなにおいがたつのが苦手だった。

 坂田さんは、最近カラオケ会件自治会会計の、正田(しょうだ)・ひろ子さんという人と仲が良いらしい。マンションで見かけるとき、彼女と一緒であることが多かった。私は正田さんのことを良く知らなかったが、子供会には事情通のママさんがいて、彼女は今五十代半ばで、一昨年まで子供会にいたと言っていた。

「退会されたんですか?」と聞くと

「息子ちゃんと娘ちゃんがいたけど、どっちも卒業して家出ちゃったからって。二人が小さい頃離婚して、一人で育てるのはしんどいっていうのが口癖みたいになっている時があったから、子どもと関係ない別の事したくなったんじゃないかな」

 坂田さんには子どもがいないのに、正田さんとは気が合うなんて、不思議だと思っていた。

 その夏に一人、子供会には新規入会者がいた。両親ともに入会することは珍しくないが、彼こと高瀬博之(たかせ・ひろゆき)は、父親一人で子供会に入った。

 マンションの花火大会で子どもを連れてきた彼は、自己紹介を求められると、

「シングルファザーなんです」

と、にこやかに堂々と言った。

「言った方がいろいろと気遣ってもらえますから」

 (偏見かもしれないが)男性らしからぬしたたかさに好感を抱いた。

 高瀬さんが、自治会合に出席してみたい、というので、連れて行った。彼には十歳の息子と七歳の娘がいて、ユリアという娘の方を、会合に連れて来ていた。

「引っ越して早々、ネズミ騒ぎで嫌にならない?」

とドアを開けながら聞くと、高瀬さんは鷹揚に頷き

「僕は食品会社に勤めているんですけど、確かに虫と違ってネズミはやばいですね」

「ええ、それじゃあ虫は問題にならないの?」

「衛生管理の面で、虫が浸入したり食品に入ることは、人の健康被害に直結しないけど、ネズミは問題です。感染症の流行でも、まずはじめに警戒されるし」

「へえ」

 集会室に入ると、坂田さんと正田さんが近づいて来て、私は身構えたが、どうやらユリアちゃんが目当てらしかった。

「わあ、かわいい。お嬢ちゃん、いくつ?」

 高瀬さんもユリアちゃんも人当たりが良く、朗らかな笑顔で二人に応じている。

 高瀬さん、馴染むのが早いわ。子供会では敬遠されがちの自治会合だし、シングルは大変そうだけど、高瀬さんが今後引き受けてくれたり、しないかなあ。私はそんな風に期待していた。

 それから幾月も経ってから振り返ると、坂田さんの嫌悪感は、高瀬さんが緩衝材となってくれたおかげで、一瞬だけ薄まったことがある。高瀬さんは、人の心の機微に敏感で、坂田さんの事を悪く言ったつもりもないのに、早々に、「苦手なんですか」と気付かれた。なんでも、彼女と話す時の私は、顔が怖いらしい。

「ん、んー。まあ少しだけ」

 聞きにくい事をズバリ聞くわりに、高瀬さんには人の毒気を抜く独特のオーラみたいなものがあった。

「水島さんみたいなシッカリしている人は、坂田さんみたいなお節介な人と合わないところも多いかも知れないけど、僕みたいな人間にとって、彼女のような人がありがたい時もあります。男親の限界というか、母親が誰に言われなくても当然のことが、僕にはスッポリと抜け落ちている事がありますから」

「へえ、そう・・・」

 押しつけがましさはあまり感じなかった。

 正田さんは、二人の子持ちでシングルということで、高瀬さんに親近感を抱いたらしく、トークアプリのアカウントを交換したいと言った。坂田さんもそれに倣った。

 坂田さんに子どもはいないが、友達にするのはどうやら子持ちが良いようだった。自分の話に説得力が増すような気がするからだろう、と私は思っている。

「え、ユリアちゃんって言うの」

 私は彼らの話にこそ入っていかなかったものの、聞き耳を立てていた。振り返ると、我ながら悪趣味だと思う。坂田さんは眉をひそめていた。子育てハックの耳年増になっても、小学校にごまんといるキラキラネームのたぐいには耐性が無いんだろう。

 その後、二回ほど自治会合の代表を引き受けてくれた高瀬さんだったが、中途で入った後輩の教育を任された、とかで、断るようになった。残念なことに子供会も辞めてしまった。これは、習い事の送迎が、忙しくなってしまったかららしい。

 

 坂田さんが辞めさせたようなものだと思っている。ユリアちゃんの名前を聞き、そして自治会合がお開きになって一時間もしないうちに、「将来苦労するのは子どもなのに、なんでわざわざキラキラネーム付けるのかなぁ?思いっきり平面顔の日本人なのに、外国人みたいな名前。似合わないよ!」とつぶやいていた。

 高瀬さんは、初秋の遠足で話した時、彼は娘の影響で女児向けアニメにはまり、今では娘よりも好きになった、と言っていた。その話に呼応するように、坂田さんのつぶやきには、「大人なのにかわいい女の子のアニメが好きって、気持ち悪いって思ってしまう。人それぞれだけど、性癖とか大丈夫かな?奥さんに逃げられてるんじゃ、子ども大丈夫かなって、心配(>_<)」

 高瀬さんより以前は、私らしき人物への愚痴がいろいろと投稿されていたから、ターゲットが高瀬さんに代わって安堵した気持ちが全く無いと言ったらウソになる。高瀬さんの包容力を誤解していた。子ども二人を一人で育てるくらいだもの。坂田さんは、つぶやきアプリと同じ事を面と向かっては言わないし、彼こそたとえこのアカウントの事を知っても、そういう事もあるって、受け流せるんじゃないかな。

 我ながら自分に都合よく考えすぎだ、と呆れる。今思えば、私は高瀬さんの方をもっと気遣うべきだった。

「シングルファザーだと言う方が気遣ってもらえる」と言っていた彼は、ほとんどシングルは大変だと告白していたようなものなのに、余計な心労の種を押し付けたようなものだ。

 子育ては大変だ。落ち着いて考えれば、SOSを訴える人のことばを誤解したりはしないのに、つい、自分は気遣われる側だと思い込んで、気遣いのタイミングを逃してしまう。

 それでいて、自分の仕事を認めてほしい、という承認欲求を持て余している。確かに、坂田さんのような人はありがたい、と言っていたのは高瀬さんだけど、それが本音のすべてとは限らないのに。

 

 この頃の私は、もう隠し立てすることなく、夫に坂田さんへの愚痴をぶちまけていた。

「なんとかならないのかな。坂田さんのあの『面倒見の良い私』みたいな自己イメージ。人の悩みを聞く器量なんかないんだから、放っておけば良いのに」

「うーん、そうだね」

「あなたの周りにはそういう人いないの?職場とか」

「結構気のイイひとばかりだからなあ」

「それ、あなたがそう思っているだけじゃないの?」

「そうかもなぁ」

 AIの方がまだマシな返事をする、という言葉が喉まで出かかり、口を噤んだ。代わりに深いため息を吐いた。

「負担になっているようなら、会合はだれか他の人にやってもらったら?子供会だって、絶対続けなくちゃいけないものじゃないんだし」

「え?うーん・・・」

 負担、ということばを頭の中で反芻してみた。負担、坂田さんが負担になっている?PTA活動も仕事も家事も、完璧じゃなくてもそこそこやっている私が、坂田さんみたいなつまんない人のために、自治会を辞める?どうして私が。

 と、考えて、ようやく私は、自分が意固地になっている事を自覚した。

「いや、負担ってほどでも無いけど」

「そうか、なら良いんだけど」

 なぜ、こんなに坂田さんが嫌なんだろう。つぶやきアプリを見るのを辞めれば良い。そうしたら、坂田さんについての印象は、「嫌な奴」から「ちょっとお節介」程度に薄まるだろう。もしくは、私も「坂田さんの愚痴専用アカウント」でも作って対抗してみる?なんだかシックリこない。こと坂田さんに対して、一週間も便秘のお腹のような、気持ち悪い考え方しか出来ないのは、何故だろう。

 



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