ロダン「考える人」

長い1日、あるいは短い1日、人によって様々な1日をお過ごしかと思います。

ふと思い出した事があったので記します。

人生を変えた一冊って何ですか?
人生が変わった、というのは厳密ではないものの、その質問に対して相応しい答えは、私にとって一つしかありません。
池田晶子著「14歳からの哲学」
これです。
これ以外ありえないです。

きっかけは父で、読んでみろと押し付けられたのが著書との出会いです。
父のことは昔から好きではなく、人の話を聞かずに頭から否定したり怒鳴ったりすぐ怒ったり話をぶった切ってきて酒癖が悪くて、ともかく挙げだしたらキリがないくらい嫌な相手なのですが、その本を私に押し付けた事にだけは感謝しています。

できれば別の出会いであって欲しかったと本当に思うほどの本なのですが、これがどんな本かと言うと、哲学の本です。
私が中学1年生、13歳の時に初めて出会った哲学書がこれ。
子供が読んでも分かる、優しい語り口の本です。
書いてあることは全く優しくなく、優しく厳しい事を言ってくる感じなのですが、それでも読みやすいと思います。
思考を停止する事を許さない本です。
言われるがまま流されるがまま、なんとなく生きていく事を許さない本なのです。
考える事をやめるな、と訴えてくる本です。

その本を読む前、私は無垢で愚かな少女でした。
でも読んだ後、私は間違いなく、「考える人」になりました。
少女から人になりました。
無垢で愚かだったところから、考えるようになりました。
何故学校の校庭に、考える人の銅像が立っているのか、今になってやっと分かったような気がするんですよね。

先生たちがその理由を知らなくても。
きっと子供たちに「考える人」になって欲しかったんだと思います。

無邪気で無垢で愚かで真っさらな私たちが、考える人に成ってくれることを願って、立てられていたのかなと。

未だに愚かであることに変わりは無いですが、愚かだからこそ、考え続けて人であり続ける事が大事なのかなという気がしています。

人は考える葦である、という言葉も、なるほどなという気がします。
考えなかったら無力な葦なのです。川の流れに逆らえない密集した葦。
考えたって変わらないような気もしなくも無いですが、少なくとも、考える事を放棄した時点で人でなくなる事は確かです。

とはいえ。
折々で考えなしな行動を取ってしまうこともあり、葦に戻ってしまうのですが、人になれる瞬間もやはり在るのです。その瞬間を得られているのは、間違いなく池田晶子氏のおかげであり、著書のおかげであるのです。

13歳というまだ青い時期に、人に成る手段を得られたからこそ良かったのかなとも思います。
あの本に出会ったのが今だったらどうなっていたんでしょうね。
きっと今より生きるのは楽だったでしょう。
当時より以前が生きるのが楽だったかというと微妙ではあったのですが、今よりは楽だったでしょう。

でも不思議な事に、あの本に出会って良かったと思います。
生きるのが大変になったけど、じゃあ手放したいかと言われるとイイエと言うでしょう。
人に成るというのは、大変な割に魅力的なのだろうと思います。不思議ですね。
楽な方が絶対良いのにな、とも思うので、矛盾した感情を抱えています。

生きにくいものの、私はこれからも「考える人」になり続けるでしょう。
そう在ろうと心がけ、時々葦にもなりつつ生きていくでしょう。

どうか誰かが、「考える人」になって、一緒に生きる苦しみを味わって、人生をめいっぱい噛み締めて楽しんでくれたらいいなと思います。

ままならない日々に乾杯!

精一杯の強がりより。


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