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演劇の主宰としての考察②

演劇に関わらず、どんな分野でも長い歴史の中で築き上げられて守られてきた文化や伝統がある。そこから新たな表現の開拓を模索することはそう簡単なことではない。

難しさという一番の点は、わたしの中では技術ややり方よりもまず、伝統を重んじてきた人へ、変化の理解を得ることである。今までうまくいっていたものや、築いてきたもの、守ってきたものへ別の視点の、新しいことを始めるのは誰だって不安を感じるものだし、中にはそれを伝統への裏切りと感じて自責の念にかられてしまう人もいるかもしれない。

理解を得るためには、魅力的な企画内容や利点を伝えることはもちろん必要だけれど、まずは文化を繋ぎ止める「残す」ことの重要性と自主性を伝えたい。それを模索させてほしい、とお願いすることだ。

それでも、伝統に反するからやりたくない、わからないから踏み出せない、という感情や意見ももちろん大切なもので、それは確かに忠実で、尊重されるべきものでもあると思う。その感情もわたしは全く否定したくはない。なぜならそれこそが、多様性だからだ。

ただひとつ、わたしは仲間やお客様、そして社会全体に対して期待していることがある。それは、新たな表現方法や伝達方法に挑戦したとしても、それをきっかけに原点や伝統を知りたいという人も生まれる、という期待と信頼感だ。

例えば「君の名は」という映画の中で、主人公が巫女として神事を行うシーンがあった。もしかしたらそれは、女性性を意識させるようなシーンだったのかもしれない。そのシーンに対してなんとなくエロスを感じた人からの疑問やクレーム発言を見かけた。

しかし、中にはそのシーンを見て、神事や宗教の文化について、その土地について、歴史について調べた人もいる。聖地巡礼などもそれに近いのだと思う。

何に焦点を向け、何をどのように受け取るか、そしてそれがどう繋がっていくのかは人それぞれだということを感じたし、それぞれの感情をわざわざ否定したくもないと思った。

世間ではすでに芸術の価値が今まで以上に下がり始めているこの状況では、あえて新しい方法を試す治験体となり、新たな治療法、普及を探っていく人間になるのも悪くはない、とわたしは思う。それが歴史を紡ぎ続けることへの実験体なのであれば、それを引き受ける人を否定することはできないのではないか。何度も言うが、もちろんそれは自分はさておき、仲間やお客様の命はできる限り、最大限守る方法を模索した前提で。

治療を続けても病状が悪化していき「痛い、辛い」と訴える患者に、医者が新しい薬を試してみましょうと提案しても、怖いから変えたくない、今の薬がいいと訴え続け、変えないことで良くなることは、奇跡でも起きない限りはなかなか難しいことなのではないだろうか。

新しい薬を試すのは確かに怖い。でもそれを試さずに痛みに耐えるだけ耐えて泣き寝入りして死んでいくのはわたし自身はごめんだ。もしその新しい薬がそんなに普及してないものだとしても、治る可能性があるのなら、また、それが医療の発展や継続になるのであれば、わたし個人は、治験体になることを選ぼう。だってそれはわたし自身のためになるものだから。ただのギャンブラー体質なのかもしれないが。笑

ただ本当に、これは他人に強制するものでは決してない。そう思えない人のことを、否定していいことには決してならない。

話は変わって、これはわたしの実体験からくるものなのだけど、わたしの病気は難病に指定されているもので、しかも医療界ではかなり珍しい症例だったらしく、治療の際に比較的新しい薬を投与され、症状と治療法とその経過などを学会で発表されたことがある。

先生から直接、学会で発表してもいいかと許可を取られ、そして学会が終わった後にその論文がすごく評価された、協力してくれてありがとう、と報告にもきてくれた。

その評価は先生の力だからわたしは感謝されるどころか心底尊敬と感謝を覚えたし、同時に、お医者さんは常に研究者であり、人類の未来の開拓者でもあるのだと感じた。

それはわたしひとりの病気ではなく、遠い未来をも見据えたら同じ病気になる人が現れるであろうという予測の元で研究をされ、そして常に複数の選択肢を探し続けて準備し続けている姿を間近で見た。

なによりも、お医者さんは、自分が諦めたら、探すことをやめたら患者が死ぬということを、その絶望感と無力感をなによりも知っている人たちなのだろう。自分の実体験を元にお医者さんの話をしてしまうことで、不快に感じる医療関係者の方がいたらとても申し訳ないと思う。ただ、わたしはそういう人たちによってここまで生かされてきた。

話を戻す。わたしたち、とまでは言わない。少なくともわたし個人にとっては、今必要なことは現状維持ではない。文化を残すこと、そのために対策を模索していき、ときには開拓していくことだ。

開拓した結果、ダイヤモンドが出たらきっとまた世間の印象は変わるだろうし、そもそも開拓すること自体にも、世界の理の中にすでに組み込まれているひとりとしての、歴史を繋ぎ止める役割は果たされるはずだ。

すべては繋がっていて、世界に生まれた時点で様々な分野とその中で生きている人間、生き物たちとの縁がすでに生まれている。その縁と歴史を、わたしたちはどうやって紡ぎ続けていけばいいか。少なからず、わたしたちヒトは、ひとりぼっちで生きていくには到底向いていない生き物なんだ。何かしらに関わっていたいと願ってしまう。

というわけで、無理やり話を締めくくることにするが、9月の公演は今までと全く違う作品の作り方を企画している。それを実現するために今、許可を申請したり、実現可能だとしても改めて関係者への理解を得る準備もしなくてはならない。新たなスタッフさんを探す必要も出てくる。

そのような事情から、本当に実現は不可能かもしれない。正直、悩みすぎて思考停止したり虚無感に襲われることもままある。完全に中止を決めれば楽になるかもな、とすら思うこともあるし、そもそもただでさえ、無知と無力感が有り余るほどにある。

ただ、まだやれることはあると期待したい。閉鎖の危機を迎えている村から出て、開拓者になる人をわたしは肯定したいし、わたしもできるならそうなりたい。伝統の村を捨てた人間だなんて思いたくないし、また、最後まで残り守り続ける人、これまで築き上げてきた人のことも決して無下にしてはいけない。尊敬の念を忘れないようにしたい。

様々な意見に傾ける耳も切り落とさないように残しながら、わたしは未開の地へ旅に出る準備をしている。本当ここまで書いといて、実現できなかったらごめんなさいなのだけど。