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わたしはあの日、


気が付いていたら書いていた。

詩、とはっきりは言えない。
詩のようなもの、でいい。
日記だと思ってもらっても構わない。

「わたしはあの日、」

様々なあの日の記憶が蘇ってくる。
わたし自身のあの日。

しかし、全てのあの日は「わたしだけ」の日々ではなく、必ず誰かが、何かが共に在った。

はっきりとした言葉にはならない、できない、何か、何者か。

無理やり葬ったものでもあり、傍観してきたものでもあり、置き去りにしてきたものでもある、わたしのあの日。

絶望に蝕まれていった日、救いを見出した日、虚無感に苛まれた日、鮮やかな夢を見た日。

遠い彼方に見える地平線と呼ばれるものに繋がる虹を追い求めるように、希望を繋げてきた日々。希望という幻を見据えてきた日々。

置き去りにされ、置き去りにしてきた。それは意図せずに、ひっそりと静かに、ゆっくりと時間をかけて、気が付いたらできあがっていた。

しかしそれもまた、自分事だけではなく、今だけの話でもない。人間という歴史全体も、おそらくそうして繰り返されてきている。

自分という単一とはかけ離れたもの、人間という生き物全体に対する疑問、葛藤、絶望、問答、肯定、否定。

単一の記憶が連鎖を呼び起こし、単一同士が統一、分裂、一致しながら歴史の連鎖を紡ぎつつける。

わたしはあの日、

わたしはその日、

こんなにも皮肉で滑稽な世界だとしても、わたしはまだ、この世界で生きていくことを選んでいる。

わたし自身が、それを選んでいる。

わたし自身が、まだ捨てきれないでいる。

置き去りにされてきたもの、そうできあがってしまったもの。

原因を探り、根本を見つめ、できることならば、許し合い続けながら、生きながらえたい。

手放してきたもの。放ってきたもの。
淋しさ、侘しさ、虚しさ。

それら全てを月夜の晩に、希望という名のやさしい揺り籠に寝かせたい。

わたしの選択が間違いでないことを、これからもずっと祈り続けていきたい。

そうやって生きている。
きっとこれはわたしだけじゃない。

どこかの誰かもそうじゃないかとも思っている。

演劇企画ニガヨモギ 制作
「わたしはあの日、」

近日情報公開します。
ぜひ、見届けてやってください。

演劇企画ニガヨモギ
にがいよもぎ