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「最愛の夫。②」/ショートストーリー

「早く、入院させてください。」
夫の主治医からきつい調子で言われた。
「ええ。でも。流行り病のこともありますし。」
「だからですよ。もうすぐ、ベットが埋まってしまいます。」
「ですけど、先生。たとえ、入院してもそれほど変わりますか?」
主治医は、黙ってしまった。

入院したとしても、夫の余命はそんなに長くなったりしないはず。
肝硬変の夫。
末期だ。
弱いのにお酒がやめられない夫。
65歳で死んでしまうってやはり早死にかしらね。

夫が私の職場に研修にひと月ほど来ていたのが、私と夫の出会いである。
わたしは夫の頭の良さと性格の穏やかさに惹かれた。
夫はわたしの明るさに惹かれたと言っていた。
夫は知らない人はいないだろうという有名大学卒だった。
だが、性格的には穏やか過ぎて人見知りが激しかった。
わたしと真逆の超内向。
だから、惹かれあったのかもしれない。

わたしたちはもちろん結婚した。
わたしは家に入って欲しいと言う夫の言う通りに会社を辞めた。
まだ、入社して2年だったので辞めてもなにも惜しくはなかった。
それより、夫との結婚生活の方がわたしには大切だった。
結婚生活は順風満帆と言えた。
30代で家も買ったし、夫は順調に昇進していった。
それが夫の実力なのか、それとも学歴のせいだったのか。
ふたりの間には残念ながら子供が出来なかった。
もし。
子供がいたら違ったのかしら。


私たちの幸せな結婚生活の歯車が狂い始めたのは、夫が50代に入ってすぐ。
上司の不興を買ったらしい。
その上司はかなり会社に影響がある人だった。
上司は社長の息子なのだから。
あとから、わたしが昔の伝手で聞いた話では夫が出た大学に入りたかったもののまるで実力がなく、無名の私立大出身であり、夫に激しく嫉妬していたという、まるで嘘としか思えないことが原因だったらしい。

夫は出世コースから外されて、なんと「お客様相談室」という部署に転属されてしまった。
ひどく内向的な夫にはとても務まる職場ではなかった。
「お客様相談室」という名前ではあるが毎日一日中、クレームとしてかかってくる電話やメールに対応しなければならない。
配属されるとほとんどの人間が鬱になって会社を辞めていくという部署だ。
夫は半年も過ぎると本当に変わってしまった。

夫の私に対する暴力が始まったのである。
最初は口だけであったが、そのうち殴る蹴るになった。
わたしは何度も死んでしまうと感じたことだろう。
きっと。離婚するとか、家を出るとかすれば良かったと思われるだろうが。
私には残念なことに戻る場所がなかった。
父一人娘一人のわたしは結婚してしばらくして父が亡くなった。
わたしの幸せをみて安心したように父は逝ってしまった。
頼れる親戚縁者はいなかった。
子供がいないから、そのような繋がりもなかった。
いや、子供がいたらきっと違っていたと思う。
ずっと専業主婦のわたしはひとりで生きていくという術を知らなかった。
甘いと言えば甘いのかもしれない。

絶望に満ちた日々。
そんなある日。
夫が飲めないビールを飲んでいた。
すぐに酔った夫はなんと昔の夫に戻っていた。
優しく穏やかな夫。
わたしに今までのことを頭を床にこするぐらいに謝った。
わたしは涙が出るぐらい嬉しかった。
夫がわたしの夫が戻ってきたと。

ところが、お酒が切れると夫はまた暴力をふるい始めた。
元の夫に戻るのは、お酒を飲んでいるときだけなのだ。
それ以来、夫にわたしはお酒を飲ませている。
お酒を飲んで暴力をふるうという話は聞いたことがあるが、私のところでは逆なのだ。
結果、夫は肝硬変になった。

わたしは夫を愛しているのかしら。
それとも、単なる打算なのかしら。
でも、お酒を飲んで優しい夫のことは愛しているの。

最愛の夫なの。



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