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③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(4)

🔸木剣の利剣発動のための行法とは?
法華経の精神から生まれた物を良いとされた日蓮大聖人のご見解とは?

前項で、曼荼羅御本尊やお題目を木剣ぼっけんに書写する事の必要性に関して少し書いたが、このNote版では、極力難しくならないように要点だけをなるべく掲載するように心がけたい。

先の話しでは、曼荼羅御本尊やお題目を心にる、感じる事が大切であることを述べたが、木剣修法を行って、その顕が示されるために必要な事はそれだけではない。

法の利剣としての発動をするための事をしなければならないのだ。物事には、人間も機械もそうだが、動くためには力、エネルギーが必要である。人であれば、食物。機械で言えば電気や燃料。
これらを手にするためには、人であれば食を手にするには職につき働かないといけないし、機械にはエネルギーや燃料の製造をしないといけない。剣は研がないとその用途を果たさない。
この木剣修法の利剣の力というものは、徳力である。しかしこの徳力が通力に転じることの真の威徳力を顕せるかは、我々僧侶が日頃から仏教の基本的な行い「八正道」は言うまでも無く、言うまでも無いと言うのは、八正道は基本的に釈尊が初期に説いた小乗の修行であるが、ただ小乗の教えだからといって、軽く見て蔑ろにできるものではない。仏教の基本とでもいうべき行いである。我々、大乗仏教は、釈尊が人生をかけられ教えを発展した完成形のものであり、この小乗仏教を超越した教えでもあるので、行って当たり前の事なのだ。行えないはずはないのである。

いまあえてこの「八正道」を見ると、

正見しょうけん=正しく四諦したい=苦諦・集諦・滅諦・道諦の道理を見る。物事を正しく見る事。    
正思惟しょうしゆい=正しく四諦の道理を思惟する。物事を正しく考える。
正語しょうご=妄語等を離れ正しい言葉を使う。
正業しょうごう=殺生等を離れ、正しい行いをする。
正命しょうみょう=身口意の三業を清浄にし、正しい生活を行う。
正精進しょうしょうじん=仏道修行に励む。
正念しょうねん=邪念をはらい正道を念ずる。
正定しょうじょう=清浄なる禅定(妙法の名題、南無妙法蓮華経のお題目を唱える)

八正道

これらを日頃から心がけて行い、六波羅蜜ろくはらみつ布施ふせ持戒じかい忍辱にんにく精進しょうじん禅定ぜんじょう智慧ちえ)の修行にも意識をもって行う。この六波羅蜜の修行というのは、大乗の菩薩ぼさつ涅槃ねはんのさとりを得るために修行しなければならないというものでもあるが、これも行うことを心がけることは、僧俗ともに大切なことであり、木剣修法成就じょうじゅのための徳力(発動エネルギー)は修法師にとって特に必要なことでもある。

「天台智者大師略法華経」百日荒行で加持咒文などと一緒に書写する。
多くを書写することで加持に大切な心、釈尊の慈悲を知る。

更に祈祷者の理懺自悔りざんじげ懺悔さんげ(次の④章でこの必要性を宣べる。)を先ず第一に果たす事をもっぱらとするものでもある。
荒行期間での開始から三十五日までを自行じぎょう(自らの修行)としており、その期間では理懺自悔・懺悔を行うが、三十五日を開けると、これをしなくても良いということにはならない。
では百ヶ日間、最初から最後の期間だけをすれば良いのかといえば、実はそう言うものでもない。
修法師(木剣修法をしなくなっても)は特に我々の今生での命が終えるその瞬間まで、この想いをもって日々過ごさなければならないのだ。

法華には法華懺法ほっけせんぼう(日蓮宗は天台宗の流れをくんでいる。)という懺悔の趣旨の法要が古来よりあるが、先師は常にこの懺法せんぼう(省みる事)を重んじて来られた。その先師が、行ってきたことが今に繋がっているのだが、どうもこうした事は、かっこが悪いという誤った認識をしていないだろうか?反省することなど無いとして、常に自負を掲げ日々を送っていないだろうか?こうした事の心を持ち、日々を過ごせば、誰でも慢心を抱くようにもなり、自分が偉くなったとばかりに錯覚して勘違いしながら生きる羽目となる。
こうした輩の心には、常に闘争心が煽られ、自分が他の誰よりも前に出ていないと気が済まなくなり、餓鬼や修羅におちいる。強引な折伏しゃくぶくを正義として摂受しょうじゅの心の大事(大慈)は、折伏と称して強引な強要をすることが慈悲であり摂受だと訳のわからない事を、自分都合で言うようになる。折伏とは、言うべきをいうことで相手を思って伝えることであり、相手の身になる事もせず、自分の考えだけを正義と称して押し付ける強要とは全く異なる。
そしてそれを日蓮大聖人がそうしたという不十分な見解で事の主張し、自らを顧みず、誤りに気が付かない顛倒てんどう衆生しゅじょう/生ける者となり、言動も荒々しく、謗法の者には乱暴な振る舞い、敬意を欠いても良いという、あたかも自分たちのする事は全て正しいと思い込んでしまう、狂ったような人と化す。こうもなってしまえば、たとえ何百日、何年、という期間を修行したり木剣を持った所で、何の顕も頂けない。だからと言って、修法師を辞めて日蓮宗の木剣修法に対して誹謗するような事が万が一にもあるとしたら、その時点で、いわゆる法器ほっき/ほうきではなくなってしまうと言える。法器でない者に威徳力を授かり、それを祈祷を受ける多くの人々に渡せれるわけが無いのだ。

もちろん人には個人の能力差によるものとなってしまうため、どうしても修法師という言葉で統括してしまうといけないが、たとえ未熟であっても、御本仏様、諸天善神様は、修法師の真の志したる心をしっかりと見通されている。よって年数とかの問題を気にすることもないが、普段からの心、志しの持ちよう、精進には十分気をつけたい。

法華三部経の開経『無量義経』の十功徳品の一句に、

未だ六波羅蜜ろくはらみつを修行することを得ずといえども、六波羅蜜自然じぜん在前ざいぜんせん

法華三部経 開経『無量義経』十功徳品

この文言を頂経偈ちょうきょうげ撰経せんきょうでの御経頂戴の儀)として唱えるが、どこか本心に修行をせずとも良いみたいな感覚がある人が多い気がすることもある。決して良いというものではないのだが、これは法華の功徳がいかに大いなるものかと言った事が、顕わされていることの文言なのだが、出家者と在家者との立場的な違いはあるので、出家者が修行をしなくても良いと言う意味では無いのだ。したがってこの文言を使って修行をしない事の言い訳にしてはいけない。  

日蓮大聖人は『観心本尊抄かんじんほんぞんしょう』に

釈尊の因行果徳いんぎょうかとく二法にほうは妙法蓮華経の五字に具足ぐそくす。我等われらの五字を受持じゅじすれば自然じねん因果いんがの功徳を譲り与えたも

『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』定本番号=118/祖寿=52/文永10(1273)/著作地=佐渡 一谷/真蹟=中山 法華経寺/写本=日高筆 京都本法寺藏/真蹟現存

とあるように日々しっかりとお題目を唱えて修行に精進する意識を持ち続ける事をお説きなされた。先の八正道や、六波羅蜜はもちろんのことであるが、我々法華経の信仰者は、法華経の修行、受持・読・誦・解説・書写と日蓮大聖人がお教えくださったお題目を常に唱えて、心に現す、身に示す行いを忘れてはいけない。そして法華経の修行だけで良いということにはならない事を心して日々修行に明け暮れないといけない。
お題目を唱えているからと言って、背徳の行いをしたり、何ん癖悪い行いをしたり、1回くらいとか背いたって良いという軽い気持ちを持つことさえも許されない。僧侶、修法師の持戒とは法器を真理の妙法と久遠御本仏、諸天善神に誓ったことであるのでそれを忘れないよう心の帯、襟をしっかりと正していくべきである。

水行すいぎょう」修法師の大切な行法。

我々人間の祈りという信仰には、それぞれ願い事を聞き届けて頂きたいという強い思いがあるが、それらに直結してくれるようなものを感じる時には、人々の関心や興味を強く引くものがあるものだ。
日蓮宗のご祈祷で扱う修法師の木剣もご本尊の世界、お題目の五字七字の我々の信仰の心をのせるためのものであり、今や僧俗共に信心を倍増せしめ、一念随喜いちねんずいきの信力を顕し感応道交かんのうどうきょうを感じ得るための媒体となる大慈(大事)なる法具である。

日蓮大聖人は、『四條金吾殿しじょうきんごどの御返事ごへんじ』に

なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ用いたもうべし。諸余怨敵しょよおんてき皆悉摧滅かいしつざいめつ金言きんげんむなしかるべからず。兵法剣形へいほうけんぎょう大事だいじの妙法よりいでたり。

『四條金吾殿御返事』定本番号=347/祖寿=58/弘安2(1279)/著作地=身延/真蹟=未見

このご遺文には真蹟の確認は未だ無いが、この文章からも理を考察する事ができるのでここに挙げた。
これによると法華経の精神から生まれた物、発想されたものであれば是を善しと言う考えは最もと理解する事ができるのだが、実際に『妙法蓮華経』に説かれる教主釈尊はどのようなお考えを示されるであろうかという事を法華経によって考えてみると、そもそも妙法という法は、遠い過去から常に充満しており、多くの仏たちがこれを説いてきた事が妙法蓮華経に説かれている。(方便品)
そして仏、如来がこれを説く心は、衆生を救うための大慈悲である。たとえ日蓮大聖人の後世に用いられたものであっても、木剣修法は法華の信仰から生まれたものであることは明白であるから、すなわち妙法から生まれたものであり、紛れもなく仏、如来の大慈悲に通じる法儀であると言うことが言える。
よって法華経の心に照らし合わせて考察しても、日蓮大聖人のお心にのぞまれるものでもあると言える。

そして何よりも木剣加持修法は、法華経の経文とお題目を誦し、日蓮大聖人が見出された観心の教えを基として祈りを行う尊い修法であるので、これを心得ておくべきである。
合掌礼拝

次回、④【木剣修法で音を出すは、ご本尊とお題目を叩くことに非ずの事】(1)
🔸木剣修法で放つ音とは何なのか?


これまでの記事、目次

①【日蓮宗のご祈祷の事】
🔸日蓮宗法華の修法意義とその起因

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(1)
🔸日蓮宗の木剣加持修法の正当性

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(2)
🔸 日蓮宗で広く使われているお札の形と木剣の関係性

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(3)
🔸 日蓮大聖人の祈り。仏教で行う祈りは、仏法の道理でもある。

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(4)
🔸 普段から数珠を用いてご本尊、仏、法、僧の三宝の印相を僧侶に関わらなく檀信徒も示している。

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(5)
🔸木剣修法の九字について

③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(1)
🔸木剣とは何か?

③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(2)
🔸 元品の無明を切る大利剣

③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(3)
🔸木剣に何故、曼荼羅御本尊やお題目を書写するのか?