見出し画像

なぜ一天四海皆帰妙法がいつ迄たっても実現しないのか?

【なぜ一天四海皆帰妙法がいつ迄たっても実現しないのか?】
釈尊の、さとりには相反する2つを離れて、それらは別のものではないのだという。もし相反する2つのうち、片方の1つを取り上げ、これに執着すれば、例えそれが良いものであっても、例えそれが善であっても、例えそれが本門であっても、例えそれが正しいものであっても、誤ったものになると言う。
この世は、移り行く、移り変わると言う理に捉われてしまうと、この見方、考え方も誤りであり正しく見ているとはならない。片方に寄る、偏見ではなくどちらにも偏らなく実相を観ることが大切なのである。

簡単に言うと、この観法無くして、法華経の妙法真実の真理は観えてこない。エゴであってはならない。
よって法華経では差別なく法が説かれ成仏が保障されることを釈尊は信じろと主張された。信じる事に考えは深くいらない。無用。仏教は考え過ぎた。

人の生き方もまた同じである事を見出せる。
人が「我」に捉われる執着があれば、それは誤りが生まれ、苦しみを離れることができない。
また「我」は無く、離れたという思いに執着すれば、これもまた慢が生じ、修行をしても効果が得られなく、迷い苦しみとなる。

釈尊のさとりの法眼でもう少し具体的に何かを分析してみると、どれにでも当てはめることが可能だが、高祖の悲願がなぜ今もまだ達成しないのかをざっくり分析してみる。
鎌倉時代に上行応現の日蓮大聖人が、法華経、お題目の教えを示されて、これを弘められた。ここまではまだ良いとする。しかしその後が問題。法華経の本門だの迹門だのと本迹勝劣についての意見が分かれた。これはどの派によっても、お互い同じことが言える。そう。相反するうちのどちらかを取り上げる事によって、そこに執着が生じ、争いにしかならない。例えば、A,○○宗が正しいと言って、B,○○宗が間違っていると言ったら、争いしか起きない。この争いという要素は、負であり、悪であるという結果になる。
また、どんなに大義名分たる正義があっても、戦争を起こしたら、多くの命を巻き込み、それは悪にしかならない。
だから、釈尊は法華経の説法の機に至って、それまでの教えを捨ててただ一仏乗の教えのみをと説いたが、釈尊滅後、弟子たちは、釈尊のさとりをよく理解していなかったのか、教えが幾つも残り(方便を捨てずに残してしまった。)、仏教は日本に渡来してから現在に至るまで、どれが正しいのかとか優れているのかという論議も交わされ、結果、宗論などの論争も起き、仏教が幾つにも分かれてしまった結果として、仏教を信仰する者に迷いが生じ、釈尊の願いも虚しく全体の気持ちは定まらない。これが文頭に書いた釈尊のさとりの1つである観法の「さとりには相反する2つを離れて・・・」による結果と言える。

釈尊の本願(願い)もこれでは本末転倒という次第。日蓮大聖人ご入滅から741年が過ぎた今、どこまで一天四海皆帰妙法が達成したのかな?という問題には対して意識しない。
「そのうち」という夢見るような話で終わってしまう。まさに親の心、父母の心、子知らず。という状態。
よって、修行効果無しと同じように、法華経流布の効果は大して現在においても効果なし。平和が実現していない。
こうした愚かさに気が付かずいつ迄、こうした事を行うのか。よく考えた方が良い。意識を1つにすることが大事だが、それは無理だろう。よって釈尊の説かれた教えに帰る、帰法をもつ意識改革をしないとならない。

涅槃経の依法不依人は釈尊の遺言として古来からこれを説いてきたが、結局はそうはならなかった。これを意識して法や人に依ってしまう現象が起きてしまった。「不依人」を意識するとまた偏る。法に依るのも偏る。純粋に釈尊の真実の法に帰る「帰法」これを「さとる」ことです。
この語源も「皆帰妙法」であるが、我々の「一天四海 皆帰妙法」をまず意識を先として、すべて論争を捨て、釈尊の法に帰る。妙法に帰ろうとすると、また他宗間での論争が生じる。これをしては結局、偏ってしまうことになり達成しない。本化たる我々の懐の袋の内に妙法を隠し持ち、来たるべき時にそれを慎重に出す必要があるだろう。諸佛も皆、そうしてきたと法華経にあるが如くに。

いつまでも本迹にこだわりをもつ事を常に意識し、法を説く者には釈尊一代聖教と呼ばれた法華経の真髄の効果すら得られず、それを直道として説き与えることができない。
だって、説いている我々がこの愚行によってまとまらないんだからそう思われても仕方ないというようになってしまう。

大学で難しいことを研究するのに、園児がその研究室で研究の功を得ることがないのと同じように、園、小、中、高の順学もまた大事であり、無意味のものではない。末法では自らの体験が何よりも大事であるが、釈尊の教えの本来の意図する仏の心を見つめる必要がある。

あれこれ、片方に偏ることなく、我慢偏執の心なく、無心にお題目、ただ南無妙法蓮華経を唱えることの大事を日蓮大聖人は教えられた。
またあの当時には、教相判釈を示す必要があり、そのための手段を色々と講じられたという事をよく理解しないといけない。この理解とは、それをするための理解ではない。

南無妙法蓮華経 合掌礼拝 地涌の声より