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②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(1)

[他宗のお方にお詫び]
我が日蓮宗、法華門下の木剣加持修法に対して、邪道と悪口雑言を受けている事実があり、その事に対しての正論を法華経を始め、日蓮大聖人のご遺文中、また我が日蓮宗、法華門下の祈祷の史実に基づき、対論を述べたまでのものですので、ご容赦いただきたくお願いを申し上げます。
日蓮大聖人は、弟子後世の者へ摂受を最もとするようご文章を残されています。よって今、現代に他宗を折伏する意図はございませんので悪しからずご理解をお願い申し上げます。


日蓮大聖人ご遺文引用には、昭和定本、一巻、二巻に収録されたものを主にし、教義的なことの重要なことには、真蹟の現存、または曽て現存したものから引用とした。総体的な理の判断には、真蹟の現存、真偽に関わらなくあくまでも理の考察のために引用した。祈祷というのは、理に凝り固まることは宜しくない。なぜならば、その顕が現れることに大切なことは、「信」であるからである。


②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(1)

🔸日蓮宗の木剣加持修法の正当性

我が宗が木剣等の加持祈祷を行う際の認識として最も重要なことは、日蓮宗の祈祷は亡国では無いという事である。日蓮大聖人ご遺文の『開目抄』には、

「今真言の愚者等、印・真言のあるをたのみて、真言宗は法華経にすぐれたりとをもひ、慈覚大師等の真言勝れたりとをほせられぬれば、なんどをもえるはいうにかいなき事なり。」

『開目抄』定本番号98/祖寿51/文永9(1272)/著作地=佐渡 塚原/真蹟= 真蹟曽存(身延山)

真言の祈祷は、依経を光明真言・般若心経を用いており、法華経の教相を用いもせず印やら真言だのとこれがあたかも勝れていると思い込んで頼っているため、法華経を依経としない祈りであるから、あくまでも日蓮大聖人は亡国と責められたのである。
また『守護国家論』には、

「釈迦・多宝・十方の諸仏・普賢菩薩等は、我等われらが善知識なり。もしこの義に依らば、我等もまた宿善は、善財・常啼じょうたい班足はんそく等にもすぐれたり。かれ権経ごんきようの知識に値い、我等は実経じつきようの知識に値えばなり。彼は権経の菩薩に値い、我等は実経の仏・菩薩に値い奉ればなり。涅槃経に云く、「法に依りて人に依らざれ、智に依りて識に依らざれ」と〈已上〉。「法に依る」と云うは、法華・涅槃の常住の法なり。「人に依らざれ」とは、法華・涅槃に依らざる人なり。たとい仏・菩薩たりといえども、法華・涅槃に依らざる仏・菩薩は善知識にあらず。いわんや、法華・涅槃に依らざる論師・訳者・人師においてをや。「智に依る」とは仏に依り、「識に依らざれ」とは等覚已下いげなり。」

『守護国家論』定本番号15/祖寿38/正元元年(1259)/著作地=鎌倉/真蹟= 真蹟曽存(身延山)


大聖人は立正安国論や開目抄、撰時抄、など他の御遺文にも度々涅槃経の「法に依りて人に依らざれ」を引用されて法華経に依らない信仰は謗法とご指摘された。
日蓮宗のご祈祷、修法は、法華経とお題目を読誦し、ご本尊へ祈りを捧げることを根本としているのであるから、決して真言の祈祷、修法とは同じではないゆえ亡国とはまず成り得ないのだ。

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(2)へつづく
🔸 日蓮宗で広く使われているお札の形と木剣の関係性


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🔸日蓮宗の木剣加持修法の正当性