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④【木剣修法で音を出すは、ご本尊とお題目を叩くことに非ずの事】(1)

🔸木剣修法で放つ音とは何なのか?数珠も曼荼羅である。
 木剣の数珠でご本尊を叩くと言ってはいけない理由。

その昔、運祐うんゆう阿闍梨あじゃりは、『祈祷指南書しなんしょ』に

古来よりかつの木を用ひもちいきたぞくに勝つは物に勝つと云ふいう意味にて勝の木を用ひたるものにて、楊枝ようじに数珠を合せてまじなたるに、現今の祈祷者は祈念の精神を忘れ音の良きを最上と心得る人 十中の九分九あり慎むべきものなり。

『祈祷指南書』

と教え、つまり古来より勝ノ木を用い、俗に物に勝つと云う意味にて勝ノ木を用いるべきを教え、当時の祈祷者は祈念の精神を忘れ音の良きを最上と心得る人が多く十中九分九厘ありと慎むべきものであると教示された。
時代の変化とともに様式変化が起こりうるのもこれも世の摂理ではあるが、見つめるべき事に目を向けることは大切なことではある。
この章のタイトル画に使用している写真に、木剣ぼっけんと木剣数珠、そして撰経せんきょうが写っているが、この撰経の上部に金蘭状の細長い入れ物の筒が挟まれている。これは楊枝ようじもり/ しゅである。

『総本山身延山久遠寺での修行時代に霊峰七面山へ唱題修行の砌』写真は当時16才法友と共に日中外出許可の日に、初の七面山日帰り修行。御神木楊枝を賜ったのはこの後の17才の時。


昔、まだ10代の頃だったが、日蓮宗総本山身延山久遠寺での修行時代に、布教部から大きな団扇太鼓を借りて身延山の西に位置する法華の龍神信仰で盛んな霊峰七面山へお題目修行に単独で行き、その際に七面山の御神木にお参りをした際、太鼓を叩いて読経をしていると、頭上から目の前に御神木の老木の枝が落ちてきた。この時、龍神である七面大明神様が『妙法蓮華経提婆達多品第十二』にある経文のごとくに

ふか罪福ざいふくそうたっして あまね十方じっぽうてらしたもう 微妙みみょうきよ法身ほっしん そうせること三十二さんじゅうに 八十種好しゅごうもって って法身ほっしん荘厳しょうごんせり 天人てんにん戴仰たいごう/頼って集まって来るするところ 龍神りゅうじんことごと恭敬くぎょうす 一切衆生のたぐい 宗奉しゅうぶせざる者なし また、聞いて菩提ぼだいじょうずること ただ、佛のみまさ証知しょうちしたもうべし れ大乗の教をひら/開いて 苦の衆生を度脱どだつ/救う意せん。
【意味】
この人には福徳があるとか罪業があるとかの姿(相)を差別なく超えて、仏はもれなく全てを慈悲によって照らした。この仏の不可思議な浄き法身という真実の姿は、三十二の姿があり、さらに八十種類の人々を幸せに導く徳で仏の真実の姿は飾られている。天の衆生すら全ての人々が崇め、頼りを求めて集まって来るように、龍神も駆け寄り、仏に敬いを示して礼拝した。そして仏の教えを聞いて、さとりを得て仏となり、この出来事を釈迦牟尼仏にしかわからず証人となった。そして仏となった龍女は、自ら釈迦牟尼仏に誓願を口にした。「私はこの大乗の教えを開いて(用いて)、苦しむ生きとし生ける者たちを救います。

『妙法蓮華経提婆達多品第十二』

この七面山に祀られる七面大明神は、法華経に登場する龍女であり、末法総鎮守まっぽうそうちんじゅ、末法の全ての人々を救う守り神であるとされた存在として法華の龍神信仰がなされている。
この写真に撰経とともに写っている楊枝守を用いてやがて法華修法の際に大乗の教えを開いて苦の衆生を度脱すると云われる末法総鎮守七面大明神様のお手伝いをし修行としなさいというお示しと丁重に拝受したという体験があった。修法要具というものは、御本仏、諸天善神より与えられる法具であることをどのような形でそれを手にしたとしても、この事に思いを馳せなければならない。感得ということは己の信念によるものであるが、尊い仏縁として法華経と御本仏、諸天善神と繋がっている事を信念の柱としなければならないのだ。こうしたことが信仰の体験である。

現代は楊枝守ではなく剣形けんぎょう木剣に、ご本尊またはお題目が書写されているものが主流となっているが、数珠と組み合わせて音を響かせるは、『祈祷故事略旨きとうこじりゃくし』に「戦の砲と剣との如し」として祈祷修法において最も重要であるとしている。修法加持に当って陰陽相撃して魔性を払い除くためで、即ち折伏しゃくぶくの「元品の無明を切る大利剣」であり、摂受しょうじゅの「生死の長い夜を照らし利生を与える大燈明」でもある。しかしこれらの根底には、ご本尊、お題目の功徳を木剣の御本尊、お題目から佛音という妙力として十方に響かせ「仏、諸天善神の音声」としているものである。

『秘伝書十軸』祈祷言上
修法師が祈祷の際に読み上げているものの雛形。これはあくまでも雛形(参考例)であるが、こうした文章からも何を読み上げるのか、その文の心(声)を知ることが先師に学び体得すべきことの鍵となっている。


前項でも述べたように、「名は物をめす徳あり、物は名に応ずるゆうあり。法華題名ほっけだいみょうの功徳もまたってくのごとし。」この文章からも考察した通り、名とか言葉には、それを成す力がある。この理を見誤ることの無いようにする理解が大切なのだが、久遠御本仏である本師釈迦牟尼仏と諸天善神からの大慈悲による救済の御声、仏音を感じること、感じようとする心が大事である。
そして何よりも、木剣と組み合わせて音を放っているもう一つの修法要具は、「木剣数珠」である。日蓮宗の数珠は、片方に房が3本あり、もう片方には房が2本繋がっている。

日蓮宗の数珠は、房三本を三宝に見立てている。房2本はこの世界に相対する存在を示す。
よって数珠は曼荼羅を示している意味がある。世界と4ヶ所に文字の表記があるが表示上の都合でありこれには意味はないが、内と外という境界を隔てた世界はある。

数珠を広げて3本房がついている方を上側にして輪にして置くと、三宝が表わされ、下にはこの世界の相対なるものの存在が示される。いわゆる、衆生に男女あり、陰陽あり、日向日陰あり、裏表ありと必ず相対存在があることを示している。輪の中に四天王あり、108個の数珠玉にて輪が形成され、その中に世界が示されている。
日蓮宗で扱う数珠は、曼荼羅御本尊を示したものである。
であるから、木剣と数珠が組み合って音を出すということは、曼荼羅本尊が曼荼羅本尊をもって音を生み出していることなので、何の問題もないのである。
水に水を入れれば水にしかならん。曼荼羅本尊と異なる物で音を出しているのでは無いのだ。
木剣の曼荼羅本尊と、数珠の曼荼羅本尊とで共振して妙音たる法音、仏の声を放っている事を知らない愚者の言いがかり、を(に)真に(魔を)受けてはならない。

であるから我が宗の門人は、決して木剣を数珠で”叩く”とは言ってはならない。
「叩く」と言っているうちは、まだ修法を体得していないことであり、理解ができないことは仕方のないことであろう。荒行堂は講習所ではない。よって手取り足取り教えてくれるという甘い場所ではないのだ。またこのことについても次の項で解説する。

しかしながらそうは言っても、今時代にはSNS等で日蓮宗木剣修法や祈祷の事で誹謗中傷をするような輩がいるかも知れないので、祈祷相伝の伝師にこうしたことを教えられる人材がいるのであれば、もれなく行僧に指南する必要性を感じている。全国の修法師会を通し今一度、修法とは木剣とは祈祷とは一体なんなのかという事をこれらの内容について見つめる必要が、日蓮宗木剣修法の正当性たる襟を正し全ての対策となるのではと思うのである。

「法音を放つ」「法音を出す」「法音を木剣から繰り出す」「音を出す」「佛音を出す」「佛音を響かせる。」「お題目を響かせる。」「音を放つ」「それらの佛音を魂に受け頂く」などなどと言うべきであり、「木剣を撃つ」とか「叩かせる。」とは言ってはならない。また「鳴らす」「鳴り響く」と言うのも文字の構成は、「鳥」の文字に属するものであるので、言葉の発祥が獣が鳴くという事に由来していることもあり、仏や諸天善神を、畜生に貶めていると悪意有る者の非難の的にもされやすい隙があるため、この「鳴らす」も相応しくはない。

木剣加持の共振が堂内に「響き渡る。」「行き渡る。」ということがせめてよいであろう。

『日蓮宗総本山 身延山久遠寺の大鐘楼』梵の音を放つ。寺院には音を放つ法具が多くあり総称として「梵音具ぼんのんぐ」という。釣鐘これも梵音具の1つである。


個人的には、「波動」という言葉を用いても良いと思うところである。それは梵鐘や鏧子の響きと同じで、梵鐘の波動は、宇宙創世のインフレーションに通じる波動であるという云われもある。波動には空間的条件が伴えば音を感じることのある性質を持つ。そこに音と言う真実の要素があっても目に見えぬ実相がある。天文学研究で人類が初めてブラックホールを映像として観測した事が話題となったが、これと同じく、我々の身体的能力の限界によって目に見えないものがあっても、単に捉えることのできないものが目の前につねにある事を信じなければならない。仏教が説く目に見えない実相は信と行いによってのみ、その姿を捉えることができる。

あくまでもご本尊、諸佛諸菩薩諸天善神、お題目が響き渡る境地を心得とすべきである。
であるから、もし万が一にも、何百日も荒行の修行をした経緯があり、修法師として活躍していたという人がいて、この木剣修法を「ご本尊を叩いている」とか「ご本尊をぶっ叩いている」などと誹謗しているような事があるのなら、その人は何も得ていないという事の無知を自ら証明してしまうような事なので、このことはどの様な時代であっても、修法師は心得ておかねばならないことであり、経験の浅い普通の修法師でさえ、この事を十分に理解をしているのである。

木剣修法で放つ音とは、仏、諸天善神の声、妙法の法音であるのだ。
よって木剣、ご本尊を「叩く」などとは決して言ってはならない。
木剣も数珠も曼荼羅御本尊なのだ。
ゆえに扱いは最大の敬意をもって、軽々しく音を出すべきでもない。
道の浅い修法師が九字の練習をする際には、マッサラな未開眼のものを用いるよう心がけるのが宜しい。

合掌礼拝

次の項では、④【木剣修法で音を出すは、ご本尊とお題目を叩くことに非ずの事】(2) 🔸木剣加持修法を行う際の境地について。
木剣加持修法は謗法などにはならない理由。


これまでの投稿記事

①【日蓮宗のご祈祷の事】
🔸日蓮宗法華の修法意義とその起因

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(1)
🔸日蓮宗の木剣加持修法の正当性

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(2)
🔸 日蓮宗で広く使われているお札の形と木剣の関係性

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(3)
🔸 日蓮大聖人の祈り。仏教で行う祈りは、仏法の道理でもある。

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(4)
🔸 普段から数珠を用いてご本尊、仏、法、僧の三宝の印相を僧侶に関わらなく檀信徒も示している。

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(5)
🔸木剣修法の九字について

③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(1)
🔸木剣とは何か?

③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(2)
🔸 元品の無明を切る大利剣

③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(3)
🔸木剣に何故、曼荼羅御本尊やお題目を書写するのか?

③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(4)
🔸木剣の利剣発動のための行法とは?
法華経の精神から生まれた物を良いとされた日蓮大聖人のご見解とは?