見出し画像

③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(1)

祈祷というのは、理に凝り固まることは宜しくない。なぜならば、その顕が現れることに大切なことは、「信」であるからである。この章の2頁で理の考察に引用した『聖愚問答鈔』(真蹟なし)の文章に「されば法華経に来て信ぜしかば、永不ようふ成仏の名をけず って、華光如来となり。嬰児えいじに乳をふくむるに、の味をしらずといへども、自然にその身を生長す。医師が病者に薬を与うるに、病者、薬の根源をしらずといへども、服すれば任運にんうんと病ゆ」とあるが、あれこれ理の理解よりも法華経功徳を授与いただくことに必要なことは、「信じること」が先に来なければならないのことを念頭におかれたい。合掌礼拝


🔸木剣とは何か?

我々、日蓮宗法華で祈祷の際に、修法師が用いる数々の法具を修法要具と呼び、その1つに木剣がある。この木剣とは何なのか?そんな疑問を持たれている人も少なくは無いのではないか。文字は読んで字の如く、「木の剣」という事であるのだが、この形は、先にも述べた通り、中国で唐の時代に使われていた両刃の唐剣の剣先に似せた形が由来になっている。
まず木剣を用いるようになった経緯は、正中山流では元々、天台の加持杖と真言の金剛杵などが相融されて次第に剣形のようになり、身延積善坊流では霊木とされる桃、勝軍木、イチイ、などの「小枝」を用いて、天台の加持杖に似た「呪楊枝」を「楊枝木剣」と称し修法に用いられていた。これも利剣として剣形型になり、中山、身延の両山がその剣身に曼荼羅を写し法華経の要句や諸天善神の名を書き入れた。後代には、一偏首題を書写したものも生まれる。
また次の章で詳しく述べるが、「真体法剣」「真体木剣」「神体木剣」と言う同じくこれも木剣であるが、修法の真髄たる信念に関わるとても大切な木剣がある。
曼荼羅御本尊が書かれた物を数珠でぶっ叩いているから謗法だと言う事を言っているものがいるが、そうはならない確かな事がある。これについても、次の④章で述べることとする。

木剣=現在、日蓮宗法華で100日の荒行を終えた修法師だけが加持祈祷に用いる事が許されている。
曼荼羅御本尊を書写しても消えてしまうが大事なことは文字のそれではない。


この木剣には、「元品の無明を切る大利剣 生死の長夜を照らす大燈明」と書写する。「元品の」という意味は、元々、元からある、元から続いている、根本のという事で、そこから続いている無明、「無明むみょう」というのは、一言で言うと「愚かさ」である。
釈尊は、法華経で最高真実を説くとしたが、その場に集まった者たちの中に、釈尊の教えを信じず、聞こうともせずに、自分はもう悟りを得ているという増上慢のものたちがいて、去って行ってしまったと言う話しがある。これを五千帰去と言い、妙法蓮華経の方便品第二に説かれている。この者たちは、釈尊が誰もが仏になれると言う妙法の教えを説こうとしたが、仏になろうとしない、求めない、疑いの念を抱いて去っていった者たちを釈尊は「愚かな者たち」であるとみた。仏、如来の教えを「疑って信じない」この事が「愚か」さであり、素直さ賢さがあれば、仏の教え、法を「信じること」ができるのであるが、人の愚かさとはこの無明があると様々な愚行を成してしまうものだが、それゆえに迷いや苦しみを背負ってしまうばかりか、連鎖して抜け出せなくなってしまう。よって苦しみの元となっている「大因縁を切る」と言うことを、仏、如来が真実の法をもって導いてくださり、法華経功徳が利剣となると言うが法華修法なのである。

【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(2)へつづく。
🔸 元品の無明を切る大利剣

合掌礼拝


これまでの記事

①【日蓮宗のご祈祷の事】
🔸日蓮宗法華の修法意義とその起因

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(1)
🔸日蓮宗の木剣加持修法の正当性

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(2)
🔸 日蓮宗で広く使われているお札の形と木剣の関係性

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(3)
🔸 日蓮大聖人の祈り。仏教で行う祈りは、仏法の道理でもある。

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(4)
🔸 普段から数珠を用いてご本尊、仏、法、僧の三宝の印相を僧侶に関わらなく檀信徒も示している。

②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(5)
🔸木剣修法の九字について