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いつもは忘れてるけど、いつでも鮮明に思い出せてしまう

「もう24年も?」

もう24年も前のことなのか。
それが今の気持ち。
いつもはすっかり忘れているけれど、当時のことは天気も情景も気持ちもすぐに思い出すことができる。
あの時、誕生日を目前に控えた3歳だった娘も、当時のことを聞くと
「テントのところでずっと待っていた」「お父さんの履いていたズボンはビリビリだった」と、情景を思い出す。


夫は、エンデューロという、オートバイで山の中を何十キロという距離を走り、速さを競うレースに参戦していた。
お世話になっているバイク屋さんの社長やそこに集まる仲間たちとチームで参加していた。

山の中を走るので、大会は地方で行われることが多かった。
ハイエースの荷台にバイクを乗せて、前日から会場入りする。
夜は仲間たちと火を囲んで過ごし、バイクを下ろした荷台に寝具を敷き、車中泊をしてレースに参加していた。

夫や仲間達の応援やサポートのため子供を連れて、夫のレースにはいつもついて行った。


5月20日

大会当日。
勢いよくスタートをしたのを見届けた。

山の中を走るので、どんなに早くても1時間近く戻ってこないので、
ピットに戻り、ゆっくりコーヒータイムをとっていた。

レースの様子を観に行っていた後輩が、真っ青な顔で何か叫びながら走ってきた。

ただならぬ様子に、ピットにいたみんなが立ち上がって、もう一度確認した。
後輩から出た言葉は、確かに夫の名前だ。
「倒れている、動かなくて。早く、一緒に来て。」と。
なにがなんだか分からなかったが、私は走りだしていた。
子供は、ピットにいる他の選手の奥さん達に「ちょっと見てて」と、走りながら頼んだ。

後輩に聞いたところ、目撃者はいないがおそらく立木に激突したのではないかということだった。


後輩と私が現場に向かう後ろから、救急車も来ていた。
夫はあおむけに倒れて、意識ははっきりしないがしきりに右手で左腕をさがしている。
救急車に一緒に同乗した。
一般の病院では対処できないと判断され、3次救急の病院に搬送された。

救急外来で、検査や処置が行われている。
待合室で待つように言われたきり、中でなにが行われているのか分からない。
待っている間、救急車に乗る前に左腕を探すしぐさをしていたことが気になった。

ようやく呼ばれた診察室で、
医師から「原因についてはもう少し検査が必要だが、今現在左腕は動かない。神経の損傷かもしれず、将来的にも動かすことはできないかもしれません」
「肺にもかなりのダメージがあり、血液が胸に貯まっているため処置をしています」と、告げられ夫はそのままICUへ入室した。
その時点で分かっていたのは、肺挫傷と左腕の麻痺があることだった。

意識は戻るのか?腕が動かなくなってしまったら仕事は?毎日の生活は?と、混乱し悲しいのか辛いのか自分の感情も分からないまま、とにかく泣いていた。
子供は3歳、家も半年前に建てたばかりだった。

一緒にレースに参加していた友人やバイク屋さん夫婦も、みな落ち込んでいた。
バイク屋さんの奥さんが「命はあるんだから」と、泣きながら言った。
最悪な状況の中で、何かに救いを求めていたのかもしれない。
混乱した状態で、「命はある、命は助かった」と思い込まなければ、不安に押しつぶされそうな自分を奮い立たせることができなかった。
どん底の中で、これからいろいろな問題に向き合わなければならない。
自分の気持ちをなんとか持ちこたえるには、その一言が救いだった。

意識も戻り、肺の状態が落ち着いて、ICUから一般病棟にようやく移ることになった。
その時に、バイク屋さんの奥さんから、
「5月20日は、命が助かった日だからいい日だよ。私の誕生日なんだから」って、笑い泣きしながら話していた。
そう、偶然にもバイク屋の奥さんの誕生日だった。

自分たちの住む街の病院へ転院し、さらに詳しい検査をした結果、
左腕神経叢引き抜き損傷で、腕の神経が首のあたりから全て引き抜かれて切れてしまっていた。
左腕が動かすために神経移行術という手術を行った。
肘を曲げることはできるが、それ以外の腕や手の動きはできない。
左腕全体の麻痺が残っている。

左腕麻痺と鬼嫁

手術後、退院当初から、麻痺の生活に慣れるために私は一切、夫の身の回りの手伝いをしなかった。
本人が生活の中で工夫して自分にあった方法を見つけるしかないと、変なところで私のスパルタ?鬼嫁?の魂に火がついた。
厳しさこそ本当の優しさという、謎の放置リハビリ開始。

夫の職場に私がついていくわけにもいかないし。
私がいないと何もできない人になっては困る。
友人達は、いなくなった時のことは、その時に考えたらいいのにと言っていたが、困るのは夫だろう。
自分のことは自分でするしかないと、夫も頼っては来なかった。

そんなスパルタのおかげか、本人の努力か(本人の努力に決まっている)、翌年には、右手だけでバイクに乗ることができるようになった。

左手でハンドルを握ったり、支えたりできないどころか、腕が動かないのでぷらぷらしてしまう。
本人専用のバンドで、ハンドルに左手を固定するようにしている。
バンドは、装具を見ながら夫の手や指をみて、バイク屋さんの奥さんが作ってくれた。

友人達も麻痺があるからと夫に遠慮することなく、練習に誘い、一緒にバイクに乗っている。

感謝しかない。

仲間たちの支えもあり、バイク仲間とともに2019年にはメキシコで開催されたBAJA1000というレースにも参戦し完走した。


今では、麻痺があることも忘れるくらい普通に生活しているので、普段はこのことをすっかり忘れてしまう。
でも、5月20日は、夫の「命が助かった日」だと、思い出すと、
あの時の気持ちとともに仲間達の顔や夫の倒れた様子、娘をピットにおいていった時の言葉にできない気持ちなど、さまざまな感情が溢れてくる。
私たちにとって忘れられない日だ。



🍀この記事はクロサキナオさんの企画参加記事です🍀

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