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バツ9結婚10回の人生、何故こんな事になったのか?

私は去年末に還暦を迎えた。

自分は気持ち的にはまだ40歳代のつもりで、まだまだ仕事もスポーツだって人には負けないつもりでいた。

がしかし、50歳ぐらいから親子参加の運動会とかで走って見ると、気持ちだけが先に走ってしまい足が空回り、仕舞いには大胆にコケてしまう始末だ。

あと感受性が昔より強くなっているような気がする。

映画やドラマで、子供が死んでしまったシーンや親が死んでしまったシーンになると、100%の確率で涙が溢れて来る。下手すると昔のドラマ水戸黄門で号泣した事がある。

そんな私だが、これまで何故か10回も結婚している。

自分でも何故こんな事になったのか、研究と言うか振り返って見ることにした。

まず初婚だが、20歳の時に遡る。
当時私は早くも事業を個人事業主としてスタートした時期だった。

個人事業主と言っても、中型トラックを一台ローンで買って運転手しながら自分で荷物を探して運ぶ仕事だ。

初婚の出会いは、良く使うガソリンスタンドにアルバイトしていた同年代(20歳)の子が、毎日お弁当を作ってくれたのがきっかけで、付き合うようになり結婚に至った。
要は逆告白だった。

子供もすぐ授かり、偶然にも私と同じ誕生日に出生し、20才違いの娘ができた。

仕事で帰れず、子供の顔も成長過程もあまり見ることができない事になるが、母親一人で幼い子供を育てている環境を考えると、当時は若くて、子供なんか放っておいても育つだろうと考えていたが、今思うと両親が居ないと子供ってまともに育たないと言う事も分かった。

結果、トラックの荷物を追いかけて、全国を横断していたので、住まいである九州の鹿児島にはなかなか帰れず、相手の両親から離婚を進められてしまった。バツ1である。

そうこうしているうちに、トラックの事業は過積載で何回も検挙され、運転免許を取り消されてしまった。その事を受け、仕方なしに一人でマンションを借り先輩の金融系の事務所に就職した。

借りたマンションのとなりが病院で、マンションと病院の間が20〜30センチぐらいしかない程。病院とマンション共に七階建て。

私の部屋は病院寄りの角部屋5階。病院は4階から上は看護師寮となっていたようだ。

ある日私は一人で洗濯物をベランダに干していると、病院側のすぐ隣で、同じく洗濯物を干す女性がいた。

ほんの5メーターもなかったと思う。しかも衝立も無い。

最初は会釈程度だったけど、だんだん気になって来て、色々質問もした。奄美大島から来た事や、同級生で同じ歳である事など。

そしてとうとう、スパイダーマンのごとく、彼女の部屋へ侵入に成功。そんなことを経て2回目の結婚に至ります。

そして晴れて運転免許も取り消し期間が過ぎ、子供ができた事を期に、免許を取得、免許経歴と取得条件が合ったので大型免許も取得出来た。23歳の頃である。

当時高額収入であった大型トラック運転手で生計を立てようと、彼女は子育てで看護師を辞めることを余儀なくされたので、就職する運送会社を見つけ、その会社に近いところに住まいを借りて一緒に住んだ。

大型トラック運転手として働くようになり、朝に弁当持って出勤し、夜には帰って来ると言う日々を送っていた。

しかし、日帰り仕事の運行を選んで毎日帰れる仕事をしても、なかなか給料が上がらない。そこで妻と相談して、中距離輸送に切り替えた。

それはどう言う事かと言うと、今まで鹿児島〜福岡〜鹿児島だったのを、鹿児島〜福岡〜大阪〜福岡〜鹿児島にしてもらった。

大阪には営業所があって宿泊施設もある。そのような運行にすると3日に一度帰れる。そして一日休むと言うのがルールだったが、私は翌日に出発する運行に変え、人の倍稼げるようになった。

たまには大阪から福岡方面に下らず、関東方面の荷物を選び運んだ事で給料が爆上がりした。妻には電話で事前に言うと、気にせず頑張って!と応援して励ましてくれた。

すると調子に乗って、一ヶ月とか帰らない時もあった。

だんだん妻の鬱憤も限界に来た頃、私は覚せい剤に手を出してしまう。

最初は眠気が取れると言う事で興味本意からではあったが、使用すると何日も寝ずに仕事ができた。
がしかし、そう言う日々も長く続かず、会社の社長に見つかってしまい解雇されてしまった。

警察には通報はされなかったが、妻と子供と路頭に迷った末に知り合いの塗装会社が関東にあり、そこへ来ないか?との誘いもあり家族ごと関東へ引越す事となった。

その塗装会社は塗装技術が上がってくると給料も上がり、現場を任されるようになり、一人親方、いわゆる個人事業主へ独立もできる。そのかわりその会社からの仕事しかしてはいけないルールがあった。

私は直ぐに頭角を表し、一人親方として現場を任されるようになった。その時2人目の子供がお腹の中にいた。

気になる覚せい剤の方だが、新宿のヤクザと知り合いになり譲ってもらい、たまにやるくらいで、仕事休みの前日にやるぐらいだった。全然いつでも止めれる状態ではあった。

そんなある日、覚せい剤を売買したりしていたせいか、出入りしていたヤクザの組事務所にたまたまいた時、警察の家宅捜査が入ってしまう。家宅捜査は組事務所に頻繁にあり捕まるような違法な物とか置いていないと聞いていたが、なんと覚せい剤が電話のコンセントの中に入っているのを刑事が発見する。当然私の物では無いのだが、覚せい剤の所持として逮捕されてしまう。

逮捕は初めてでは無いし慣れていたので、完全黙秘で釈放されるも、後にその時に提出した尿から覚せい剤の反応が出てしまい、再び逮捕されてしまう。

その時、割愛してあるが、空港でカバンの中から覚せい剤が見つかった事件で執行猶予中と言う事もあって、合計で懲役3年6ヶ月の実刑を喰らってしまった。覚せい剤もこの時点で止める事ができた。

長女は4歳。お腹の中に2人目がいる状態で刑務所に送られるとなると、そんなに長く妻が待ってくれるとは思わない為に離婚を切り出した。

それでも出所まで待っていると言う事で受刑中に面会や手紙を定期的にした。

晴れて出所して妻の元に帰ると、ある日、小学生になる長女が、テレビコマーシャルで熱海の旅館ホテルを宣伝しているシーンを見ながら大はしゃぎで、

「パパ!ここ、◯◯おじちゃんと行って、めっちゃ楽しかったよ!」

と自慢げに言った。
妻は私以上に固まっていた。

問い詰めて事情を聞き、やはり3年半は待てないよなぁ。と私から離婚を確定させた。それが2度目の離婚である。

2回目からは早かった。
結婚ってただの書類提出にすぎなく、嫌になったらいつでも離婚届を出せば成立すると言う感覚しかなくなった。

3回目、4回目といずれも2、3年の結婚生活で終わるものもあれば、5回目、6回目は俗に言う偽装結婚が続く。

外人が1回、もう一人は東京拘置所で女子受刑者と拘置所内で手紙をやり取りする中で盛り上がってしまって、当時は刑が確定すると三等身までしか通信許可(面会、手紙)が出ない規則になっていた為、手紙を続けたい為に結婚すると言うバカげた事をした。知り合ったきっかけは雑誌の投稿欄からだった。

お互い仮釈放で出所して、初顔合わせとなるのだが、そんなもの続く訳がない。

女子刑務所から出所した者で、スレンダーで綺麗な人見たことない。逮捕前の写真を何枚か送られて来ていたので、安心していたらとんでもない。人違い?と言うぐらい太っていた。色々あって速攻離婚した。

7回目の結婚は看護師以来、久々の私からのアプローチだったのだが、焦らしていたら酔った勢いで襲われた。

銀座の嬢だが、高級クラブ内で気に入ってたので指名したり、同伴やアフターを繰り返していた。金も相当使った。当時はヤクザを辞めて仕事を探す為に社長連中と銀座の高級クラブをハシゴしたりしていて、その社長の売り掛けで飲んでいたり、マスコミが私からヤクザ組織の情報を得る為に接待で飲ませてくれていた。要するに仕事もしないで銀座の高級クラブに入り浸りだった。

そんな中に出会った嬢がアフターに行こうと誘われ、銀座の並木通りを2人で歩いていると、彼女が突然タクシーを停めて私の身体を押すようにタクシーに乗せられ、彼女が

「第一ホテルへ!」

と運転手に言う。
その時初めて自分が情けなくなり、彼女にハジをかかせてしまった。早く口説いておけばこんなシチュエーションはなかったのではないかと思った。それが7回目の結婚。

それから改心し無職だったので、私が出来る仕事は何か無いかと考えた時に大型免許と牽引免許があったので、求人雑誌でトレーラーで海上コンテナを運ぶ仕事、要するにトレーラーの運転手に応募して採用された。

7回目の妻、銀座の嬢とは結局、長男、長女、次女の3人が産まれた。その為、嬢はお腹が目立たなくなるまで銀座に通って、私はトレーラーの運転手をやり続けた。

ところが3人の幼い子供がいるので銀座に出るのは無理で、私の給料だけで生活する事になる。
育てる為にはもっと稼がなきゃいけないと、私は起業をする事にした。運送会社だ。

当初事務所を借りて株式会社登記をし、新車のトレーラーベッドを10台、台車(トレーラーの後の部分)を10台、駐車場などを揃え、新規で一般貨物自動車運送事業の免許を取得するのに4、5ヶ月と予想をしていたが、予想以上に許可が遅れ10ヶ月掛かってしまった。

稼働して自分の手元にお金が入るのは更に2ヶ月掛かるので、一年間は投資して貰った金や借金をして生活費に回していた。

がしかし、運送屋を開業するまでに妻から離婚を切り出してきた。自分でも青天の霹靂だった。

理由も聞くまでもなく、泣きじゃくる嬢に承諾する旨を告げた。多分半年ぐらいで開業して生活は楽になると私が宣言したのに、半年を過ぎても何の動きが無いから、諦めたのだと思う。これで7回目の離婚である。

このトレーラー運転手を辞めて、自ら運送会社を開業するまでをブログで記録して毎日アップしていた。何故か毎回PVが15,000もある有名ブロガーになった。

その読者の中に8回目の結婚相手がいるのはこの頃は知る由も無い。

離婚した私は、当時町田市の自宅を出て、車と寝具、着替えを積んで、車中泊のホームレスとなった。

開業した運送会社の社員には、離婚してホームレスとは言えないので、社長然としていた。退職時間になると先に会社を出て車で暫く過ごし、近くのシャワー付きの簡易宿泊所や仮眠室に寝るようにして、朝になるとスーツ着て社員より早く出社と言う具合だ。

そんな事も長く続けられないし、なんせ会社の前にあるタワーマンションに住みたい衝動にかられていた。空きが出たと不動産屋から連絡も来ていた。

開業して軌道に乗った頃だったので、出資者から報奨金も約束されていたし、これまで一回もこの会社から給与や役員報酬も貰ってないので、支払われる前に賃貸マンションの契約も憚れたが、これを逃すとタワマンに二度と住めるチャンスを逃すと思った。

その事を仲良くなったブログの読者で、わざわざ新卒で大型免許と牽引免許を取って来て、私が練習させて、違う運送会社に紹介した女性運転手に相談していた。

すると、その女性運転手が見兼ねて背中を押してくれ、しかも少し足りない入居費を貸してくれた。

それで晴れてタワマンに入居した。
車も要らないから売った。
入居した時は寝具と着替えしか無いので、レインボーブリッジや東京湾の夜景が眩しかった。カーテンないので、それを見ながら寝袋で寝る生活がしばらく続いた。

女性運転手もたまに来て料理を作ってくれたり、差し入れをしてくれた。

そして事件が起こる。
ある日突然、出資者の運送会社から社長や専務が押し掛けて来て、私が会社の金を横領したと言う。
言われたのが経費で飲み食いが多いとの事で、私はその日から自宅待機となった。

後でわかった事が、開業した運送会社で専務取締役にした私が他者からヘッドハンティングした男が、出資者に運行がキツすぎる、社長(私)は会社の金を使い込んでいると有ること無いこと上申しに行ったらしい。

しかも出資者の息子が運送会社をやりたいと言い始めたと聞いて、最初から運送会社をやらせる為に私を利用した旨を後に聞くことになる。

そんなこんなで、一円も貰えないままカーテンも家具も無いタワマンで悔しい思いをしながら鬱と戦って行く事になった。悔しくてたまらなかった。

ある日コンビニに弁当を買いに行った時、求人のフリーペーパーがあったので持って帰った。いよいよ家賃が払えなくなる3ヶ月目。何か仕事しないと、しかもすぐお金にならないと食べていけない。

するとフリーペーパーに新車トラック陸送の仕事が大手自動車会社から出ていた。しかも即給システムと言って一日働いた半金を先にその日に貰えるシステムだ。

これだ!と思いすぐ応募した。
採用され登録後に翌日から仕事に参加した。一日15,000円から20,000円ぐらい。なので、一日に現金が7、8千円は引き出せる。

言っても一日中仕事してるから、朝飯無しで行って、昼メシを外食して、晩メシはスーパーやコンビニで買った。2、3千円しか使わない。切り詰めれば家賃払える計算になる。助かった。

そのうち残業があったりして、余裕も出来て来たからカーテンや家具も月々増えていった。

気になる女運転手も時間があればタワマンで会っていった。ある日、子供が出来たと打ち明けられる。同時に親に挨拶するよう促された。厳格な公務員の両親に挨拶に行った時は緊張した。

8回目の結婚となった。
同時にタワマンで結婚生活が始まった。
ここから私の快進撃が始まるのだが、長くなるので割愛するが、結果陸送会社や運送会社を起業して品川駅近くと川崎の2カ所に会社を持ち、年商6億にまで成長した。

8回目の結婚が一番長かったと思う。7年ほどだったと思う。でも結婚て身内とか言うけど、結局は赤の他人同士。兄弟姉妹や親子関係には負ける。血の繋がりが無い。なのでスレ違いが多い。それは当たり前だとわかっていても、コイツ俺の事ちっとも分かってくれない、と思ってしまう。

8回目の妻は特に喧嘩すると、自分が悪くても絶対謝らない。長期戦になる。だって私より27歳年下の妻だ。たまには話が合わない事もあるだろう。

喧嘩してお互い一歩も引かず、私は離婚届を区役所から貰ってきて署名捺印して渡して、いつでも出していいと言って渡してあった。

ある日喧嘩をして、売り言葉に買い言葉で離婚届を区役所に出した。これが8回目の離婚になる。

受理されて、離婚受理証明を見せたら泣き崩れ、やっと誤ったぐらい。婚姻関係を元に戻すのに3日かかったが、なので9回目の結婚となる。

そうです同じ女性と2度結婚した訳だ。

でも喧嘩ばかり、束縛ばかりの生活に、コロナに感染したこともあって、これが別れるチャンスと思い、家出して弁護士に任せる事にし、9回目の離婚が成立した。

結婚生活で7年の内、最後の3年は嫉妬、束縛、そして喧嘩が絶えなかった。洗脳されてビクビクした生活をしていた。もう思い出すだけで恐怖で、これをPTSDと呼ぶのだろう。

離婚が成立した頃、前から気になっていた私の会社の法務部と言うか、社内に行政書士事務所を構えた女性の先生と仲良くなり、21歳差でしたが結婚を前提に付き合っていたある日、15年振りに警察に逮捕されてしまう。

逮捕された経緯や内容は現在も係争中である為詳しくは書けないが、そんな事も関係無く彼女は留置所に婚姻届を差し入れてきた。

もう還暦が目の前の時期にだ。
これを獄中結婚と言うらしいが、接見禁止で弁護士しか面会できない私に、弁護士を通して婚姻届を差入れしてきた。これで10回目の結婚になる。
少し躊躇したが、無罪を主張しているので、いつ出れるか分かんないし、東京から離れた鹿児島まで連れて来られた。こんな私でいいのか。

弁護士も東京から週に一回面会に来てくれる。
弁護士費用まで彼女が出してくれ、結果はまだだが、とりあえず完全黙秘で1年8ヶ月拘禁されていて、ようやく保釈で出れた。

拘置所の外は雨、保釈の許可出たのが何故か月曜日の夕方。
金曜日の昼には地裁で許可でてたが、検察が高裁に準抗告して抗議したらしく、高裁から棄却されてようやく釈放となった。土日挟んでしまった。

突然の金曜日に1年8ヶ月振りに接見禁止が解けて、彼女いや妻が面会に来た。久々に顔を見た。妻が面会で、保釈許可なったからと言う事。保釈金550万円を納付した事を話し、今日でも出れるかもとの事だったが待てど暮らせど迎えに来ない。その間、妻は鹿児島に土日延泊して月曜日になった。検察が準抗告してるとは頭に来た。

今でも忘れない、夕暮れの土砂降りの中、拘置所からポンッと出され、傘をさした妻が一人立っていた。涙が出た。

凄く痩せ細っていて心配した。抱きしめたかったが何故か照れ臭くて出来なかった。お互い他人行儀だった。

この人は私の最後の人。10回目にしてようやく伴侶を見つけたと思う。でも紆余曲折があったから出会えたと思うし、こなタイミングで出会う運命だったと思う。

良く妻が、20歳代に会えば良かったね。と言うが、私が20歳の時は生まれてないし、逆に妻が20歳の時は私はバリバリのヤクザだったので出会う事は皆無。

回想しても、タイミングが出会いに関係していて、必ず、自分を待っている誰かが居ると言う事がわかる。


#創作大賞 #エッセイ部門


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