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俯瞰したら、毒親人生でも楽しいじゃないか!


 「メタる」
サッカー漫画「ブルーロック」で主人公が「メタビジョン」という言葉を使っている。(いい年こいてもアニメは好きです)
なので本屋さんで「メタ思考」というタイトルを見かけた時、すぐに目に止まった。
 カバーのそでに書かれている著者の紹介を読む。
“澤円 元マイクロソフト業務執行役員”
あー…。IT系のー、優秀系のー、大学出のー、ビジネス系のー…。という思考になり、私と縁遠い種類の人が書いた本だな。うん。
と思いそっと本棚に戻した。

 その翌日、私が受講している中村淳彦さんが講師を務める「悪魔の傾聴ライティング講座」内で1年記念イベントが開催されると発表があった。
 そのイベントがまさかの「メタ思考」著者の澤円さんと中村淳彦さんとの対談を無料で聞けるというものだった。

 同じ本屋にまた足を運ぶ。
電子で買うことも増えたが、やっぱり紙媒体が気持ちいい。
ライティング講座内で紹介された本は紙媒体で買いに行く。
 夫と一緒に目次を眺める。
夫は一気に引き込まれていた。
男が惹かれる要素が多数あるらしい。
 私も最初に想像していた、カタカナが並ぶような本ではなさそうだったので躊躇なく購入した。


澤円さん著作
「メタ思考 頭のいい人の思考法を身につける」

 本を読み、私の場合に置き換えてみる。
あれこれと頭に浮かんでくる。
面白かっただけではなく、勇気をもらったというか。
すごく“自分ごと”な内容だったのだ。
きっとこれは澤円さんの策略にハマってしまったのだろう(笑)

 ためになったとか学びになったとか言ったらキラキラのポエマーなのかもしれないが、やっぱり知らない世界を知ると「うわぁ〜」とか「ほぇ〜」って思う私なのだ。



「会社の中にいる自分=自分の人生。にする必要はない」

 私は1人目の子出産後から外来看護師になったのだが、そこから看護師という仕事が嫌になってきていた。
“私の人生これでいいのか。でも育児のこと考えると前みたいにバリバリ病棟で働ける自信はないし…。いや、そもそもバリバリ働きたいのか私?なんで看護師のバリバリ病棟がいいと私は思っているのだ?ああ、きっとカッコいい自分像に酔っていたのではないだろうか”
こんな自分探しみたいな、迷宮みたいな状態だった。
まあ、現状に不満を垂れているだけだった。
 「人生の7割は仕事なんだから、自分にピッタリあった、常に最高に楽しい職業につかないと、私の人生はつまらなくなってしまう!」
なんて無意識化の価値観があったのだろう。
一生懸命に自分のアイデンティティを発揮できる場所を探していた。
だから苦しかったのかあ。
あるわけないもの。
看護師という職業に全てを賭ける思考だったから、しんどかったのだ。

 私は私自身を矛盾した人間だと思っています。
それは"みっともないこと"だと思っていました。
そう思っていたのは、一貫性のある人こそ優秀である。という基準のようなものがあったから。
何かの本に「一貫性がなければならない」と書かれていたり、「あの人一貫性がないからダメだよね」ってよく言う職場の上司がいたので、きっとそういう思考に至っていたのだろう。
 家庭内、仕事中、毒父毒祖母、バスケクラブ、ライティング講座。その場面場面で、私はかなり違う私になっているな。と常々思っていた。
看護師の転職を何度かしているが、その場所その場所でも違う自分だった。    
それがなんだか、いけない事のように感じていた。
他人や自分を騙している行為なのではないだろうか、と。
 だがナース服を着た瞬間、私は看護師の田淵になるのだ。
その切り替えができないと、私はドラマの"ナースのお仕事"バリにミスを連発するような看護師だった。
新人の時、ミスを指摘されない日はなかった。
元々抜けている部分があったが、看護師としてそれは致命的な欠点だった。
たった1つの点滴ミスで、患者さんの心臓が止まってしまうことだってあるからだ。
生き残るために、私は毎朝「ナース服に袖を通した瞬間別の私になるのだ」と自分を洗脳した。
それが現在まで続いている。
その洗脳によって救われたこともあれば、周りの同僚と馴染むのに時間がかかる要因になったこともあった。
 一概に正解・不正解とは言えないのだが、この著者の言葉を聞いて、私は安心したのだ。
私のあの新人の時の行為は、他人や自分を騙していたのではない。
普段の本来の自分とかけ離れていたというわけでもない。
ただの私の分身の一部だった。ってだけだ。
看護師という職種に、自分の人生を丸ごと預けたり同一化しようとするから、しんどかっただけだ。
この仕事をしている時は、自分のこの部分を使おう。
この部署に移動になったのなら、自分のこの部分を使おう。で良いのだ。
自分の一部分を使ってあの時私は仕事していただけなんだ。と腹落ちできた。


「成功体験にこだわらない」

これはまさしく、中村淳彦さんがいい例ではないだろうか。
「東京貧困女子」が爆発的に売れているが、その他にも「中年婚活」や「毒親」といったテーマに手を広げている。
私だったらあれだけ売れたら、しがみついてしまっていると思う。
成功体験にいつまでも浸っていてはいけないのだ。
 そして私に圧倒的に欠けているもの。
それは柔軟性だ。アップデートだ。
世の流れ、自分の流れ。より早く気がつけるか。修正できるか。
中村淳彦さんはこれをやり続けていたのだろうな。
過去の自分を捨てれるか、壊せるか。
これは私が心底嫌う“老害”にならないための必須項目だろう。



「全てを捨てて転職・起業じゃなくていい。ピボットでいい」

 1年前に悪魔の傾聴ライティング講座に入ったことは、私にとって、初めてのピボットだった。
看護師という枠から全く外れた世界を少し覗いてみた。
そこは、幸運なことに私と同じようにピボットしている人達ばかりだった。
専門の人しかいなかったら、私はとっくに看護師の世界へ逃げ戻っていただろう。
 私は1年経ってやっとメタ化できたのかもしれない。
今自分がやっている行動が、今後の残りの人生において自分を自由にすること・楽しみへと繋がる橋を作りかけている可能性があることに気がついた。
悠々、のらりくらりとやってしまっていた部分が自分にあった気がする。
もっと新しい視界が開き、より早く自覚しより早く動けたら、私はもっとこれからの景色を楽しめるかもしれない。


「個の時代の到来」

 私にとって嬉しく、勇気をもらえる言葉だった。
だって私はおかしかったり、異質な面があると思っているから。
 昭和の協調こそが正義。の時代だったら、家族と良い関係を結べない、親に反論ばかりして好きに生きている私は批判の対象だっただろうし、理解してくれる人も少なく、きっと一人寂しく生きていただろうから。
最近着信拒否した毒祖母は、今頃スキップしながら私の悪口を親戚中に言っていることだろう。
個の時代が到来していなかったら、その悪口を聞いた親戚中から私は罵られていた。
 何より、他意見を認めない協調すべき文化によって、自分で自分の首を絞め続けていただろう。
それに気がつかず「周りに合わせられない自分がいけないんだ」「親の言う事を聞き入れられない自分が悪いんだ」「家族を第一にできない自分は薄情なんだ」「お金を多く稼げない自分には価値がない」と考えるようになり、自分を偽る人生を送っていただろうから。

「みんなの共通の問題だと意識させることで、“自分ごと”の思考にする」

 以前働いていた病院での出来事を思い出した。
中途採用で来た看護師が「以前私が働いていた病院では、この処置は看護師がやっていた。それをここでもやるべきだ」と提案した。
でも長年そこで働く人は、これ以上業務が増えるのは困る。業務を回せなくなるから厳しい。と否定的な反応だった。
それに対して彼女は怒った。
「なんで、たったこれだけをやるのがイヤなの!?」と怒っていた。
でもたったこれだけと言うのなら、何故やる必要があるのか?その処置を看護師でやることでのメリットは?患者さんのへのメリットは?彼女はメリットを言っていなかった。
感情的になり、ムキになってしまったように見えた。
多分、彼女は患者さんのメリットはたいして考えていなかったのではないだろうか?
 看護師は結構カッコつける人が多い気がする。(自分もそうでした…)
自分の部署ではこういう状態の患者をみているとか、こういう処置までやってると、声高々に言う人がいる。マウントだ。
 以前、大勢の看護師が集まるセミナーに参加した。
質問の時間になった時、「この病院の急性期を担っている外科病棟の〇〇です」と言う自己紹介をしている人がいた。
"急性期"とか"手術室"とか、そういう言葉はカッコいいのだ。
 私も救急病棟で働き始めた時、ここで働けている自分カッコいいに入ってしまった。
いやぁ、恥ずかしすぎる…。
でもそれは勘違いであるとハッキリ言える。
重症な状態の患者さんを見ることが出来るのは、看護師が常に複数いて、ベテランの頼れる看護師先輩がいて、医療器具もすぐ手に届く位置にあって、“救急病棟”という文字がピッチに出たら医師はヒヤッとしてすぐ電話に出てくれるからだ。
環境が整ってるから冷静に仕事ができる。
それに最初から患者の身体の状態が悪いと分かっていたら心構えができる。
逆に一般病棟で「安定している」と医師がカルテに書いてあるのを見て、看護師は安心してしまう。そして全く心構えのない時に限って、心臓が止まっていた。なんて珍しくもない。
冷静に仕事ができる環境ってだけだ。
決して、自分自身の能力が高いから冷静な判断ができている訳ではないのだ。
 話を戻します。
きっと怒っていた彼女は、"ここまでの処置が出来る私カッコいい"とか、"前職の病院ではやっていたのに。ここはレベルが低い"とかそういう気持ちもあったのではないだろうか。
 ただ、本当に患者さん・医療者のメリットが実は彼女の頭の中にあったとしよう。
その議題をみんなの共通の課題になるように抽象化できていれば、現状維持バイアスが強い長年勤めている看護師達の思考を変えることができたかもしれない。
つまり周りの人間を"自分ごと化"にさせることができていたのなら。
それができていたら、話し合いになっていたかもしれない。
なにより、あんな最悪な雰囲気にならなかったのにな。



 私の書く記事を“自分ごと化”する視点とは、どういうことなのだろう?と疑問が湧いた。

よく分からない。
 中村淳彦さんで考えてみた。
「中年婚活」の本は、中年男性にとって自分ごと。婚活に悩む人にとって自分ごと。中年童貞をどうにかしたいと悩む人にとって自分ごと。今の自分を変えたいと思っている人にとって自分ごと。自分の身内を心配している人にとって自分ごと。
 「悪魔の傾聴」の本では、ライター・編集の人にとって自分ごと。医療・介護業界の人にとって自分ごと。人相手の仕事をしている人にとって自分ごと。人の話しが聞けないおじさんにとって自分ごと。コミュニケーション不足を感じている人にとって自分ごと。
まだまだ私の気がついてない視点はあるだろう。


 では、私の主に書いている「毒親」についてはどうだ?
私は世の流れや読む人に委ねていると言いますか…。
ただ当てずっぽうに、自分が思いついたことを書いているだけな気がするのだ。
ビジネスとかそういうものの感覚は持ち合わせていないから、その視点はなしにする。
ただ、自分が書く記事を読むであろう人、自分ごとになり得る人とはどういう人達だろう。と妄想してみる。
折角、考えるきっかけができた。その妄想から熟考してみよう。

 「毒親」という記事が自分ごとになり得る人は?
毒親で過去苦しんだ人、今も苦しんでいる人、毒親になりたくないという意思を持っている親、教育にならお金を惜しまない親(子を豊かにしたい親)ってところだろうか。
親に囚われ狭い世界で生きている人、自分の人生を取り戻したい人もそうではないだろうか。
または狭い世界だと気づいてすらおらず、自分の人生を歩んでいない人。
親が死んだ後に、自分の人生を歩んでいないことに気がついたとする。
一度しかない人生なのだ。何年、何十年も無駄にしている場合ではない。私は毒親との2時間ですら惜しい。
馬鹿げだことをしている余裕なんてないはずなんだ。
 自分の親・パートナー・子どもといった"家族との関係"、"人との関係"というものは、自分が気持ちよく死ぬための一つの理由だ。
豊に生き、気持ち良く死ぬための。
気持ち良く死ぬための準備だ。

 それなら、逆も然りだ。
親に対してこじらせ過ぎの人。
自分の認識を少し変えたり、価値観の違いを認めたり、ほんの一歩歩み寄れば修復可能な位置にいるのに、それに気が付かないのは、もっともっと勿体無いと思う。
 私のような、親を拒絶している奴が何を言うのか。と思うかもしれないが…。
私は毒親が!老害が!と高々に言ってはいるが、親を捨てることが正義だとはちっとも思っていない。
ただ“私にとっての幸せがそれだった”というだけ。
人にすすめる気もなければ、人に言われてやることでもないと思う。
犯罪級の私の親を見てもし、自分の親は違うと気がつけたり、私の親のような奴を見て非難してくれるような親ならば、それはあなたを心の底では本当の意味で大事にしている可能性だってある。
見えていないものに気がつけるかもしれない。
それはとても幸せで豊かだと思う。
 私も何度も何度も何度も、考え直した。
私が親を理解していないだけかもしれない。
親が口下手なだけなのかもしれない。
私が親の心子知らずなだけで、自分が親の立場になったら苦労も分かるし愛情も分かるかもしれない。
一瞬、私は実は大事にされているのかもしれない。と思った事なんて何度だってある。
ただ、30年生きてきて、人生の半分以上の時間をかけ、親の行動や発言について熟考し続けた結果、私の人生において父と祖母を自分の一部に入れない。と決めた。
かなりの時間をかけた。かかった。
だから、若い人達は特に、自分の視野がまだ狭いだけではないか?その時の勢いではないか?と熟考して欲しい。
勿論一発NGな親もいるが。
 軽い指標やモノサシのような感覚で、私の文章を眺めてくれたらいい。

 私の親みたいなヤバイ奴がいる。って話は全く縁のない人からしたら新鮮でエンタメにも近いかもしれない。
でもそこから、人間の本質的な部分まで考えていく人がきっといる。
ヤバーい。で終わらず、人間にはこういう側面がある。
自分にもあるかもしれない。
自分の身近な人は?自分の信頼している人や尊敬している人は?本当にその人達は自分が幸せに生きる上での貴重な人達なのか?疑うようで失礼かもしれないが、他人にのめり込んだ先は自滅だから。

必ず死ぬんです。私も私の愛する人も。あなたも、あなたの愛する人も。
それを意識下に置くことは残酷なのかもしれませんが、私はそうやって生きています。私の身近な人達、ゴメンナサイ。


 澤円さんの書かれた本を要約・分かりやすい表現に変えて書いた。という気は微塵もありません。
そういうことは、頭の良い人や得意な人がやってくれます。
 澤円さんが書かれていた内容、伝えたかった内容とズレが生じている可能性だって十分あります。(可能性ではなく、あります。と断言していいかも)
ただ単に、この本を読みながら私の頭の中に浮かんだ言葉や、過去の出来事をすり合わせをしたってところです。

 知らなかった視点、認識できていなかった視点。
なにより、これだけ腹落ちさせてくれる本を読んだのは久しぶりでした。
 ビジネスとしてではなく、私の今している行動や活動(?)について俯瞰することにより、もう一歩深く潜り込めた気がするのです。
俯瞰することで、気持ちが楽になった。
幸運にも、毒親で育ったから今の私なのだ。と。
破茶滅茶な私の人生の半分。後ろを振り返ると毒とトゲだらけの情けない道の景色。そうなのに私は今、自分の人生を楽しいものと捉えることができている。
俯瞰できたから、こうやって文章にできたのだと思います。








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