左右の肩を 板に押し当て 脇の縫い目をぴしりと伸ばして 熱い鉄を 押し当てる 左脇 右脇 明日私の肉体を包むシャツ しわ一つない 前身ごろ 後ろ身ごろ これを羽織れば 最近出てきたおなかも ペタンとなりそう 猫背だって シャキッと伸びそう ああうれしい 草むしりに加えて アイロンだって 癖になりそう
昔むかし ねんねこに包まれて 母に負われるのが 何よりも好きだった 真っ暗で温かい あらゆる音が 真綿でくるんだように ほの白く 暗がりに灯った そこは小さな宇宙だった でもまどろみの奥底に あらがえない 波の音でもなく 鼓動でもない 母も私もそこにくくりつけられて 巨大な力で引かれる感覚 あれはなんだったのだろう 地球が回る音? 秒速463メートルの 風の音だったのだろうか
つい「すみません」と言っている この一言で理不尽も いったんは影をひそめる そんな便利な言葉 癖になって 互いにむしばんでいる 相手は肥大した足で 荒れ野をこしらえ 私は霧の中で足をくじく しょっぱなのあやまち 裏返しに置かれたカードを 表向きにして 問う勇気を持たなかった
街灯が灯る瞬間を見た 瞬きすると また灯る瞬間が見える 瞬間と瞬間の間に とてつもないところへつながる 入り口の気配 軽い興味で中をのぞいて 後ずさり 中は針の孔よりも狭くて 入れそうにないから 肥大した頭たちは つべこべ言わずに 去りゆく秒を数える 頭数にでもなればいいかと あきらめれば チリリ チリリーン 先回りした風鈴が 時の道すがら 鳴り続けている
私を休みたいとき 服を脱ぐように肉体を脱ぎ捨てて 旅に出る 黙って人の胸の隅を間借りして 今日はうらやましい人の 今日は憎らしい人の 今日は寂しそうな人の その人が遠目に眺める 私は抜け殻 本物はここにいるよと 鼓膜を内側からノックして はっとその人の視線がそれたら それが旅を終えるとき
西日のまぶしい 浜辺に座って 缶ビールとつまみをあけた 不意の風に舞い上がる用なしのレジ袋 砂に足をとられながら 追うこともせず眺める からめとられた波の舌先 色だけ似せた空っぽのおごり 太陽が眠るところと呼ばれる島に運ばれて 少年に拾われた これは何をするものなの? 物を運ぶための袋だよ 何から作るの? 石油からね それはどこにあるの? 地面の下から染み出すの 水みたいだね 赤黒い粘り気のあるね それがどうしてこれに?」 どうしてだろうね 自分で作ったことないの? ないね
言うことを聞かせたい人は 言うことを聞かない人が怖いのか 大きな足音をさせてやってくる 言うことを聞かせたい人は 自分の言うことが不安なのか ゆっくりとしゃべらない 言うことを聞かせたい人の 言うことを聞きたくない私は どうしたらいいのだろう 考えて思いついた一つ 何度でも聞きますと言って ICレコーダーをオンにするのはどうだろか
地面に手をかざす 手のひらをくすぐる細い草 連日の雨のあとの五月晴れ また生えてきた 不死身のオデュッセウスのひげ つまんでむしり取る 根がぼろぼろと土をくつろげ 小さな生き物のすみかを壊す お隣さんからもらった除草剤は やっぱり使わずに返そうと思う 草の生えるところに 古い英雄は また生まれてくるだろうから
さっきまで 知恵の輪をもてあましていた 友たちのことを考えながら 始まりも終わりもない 輪の数の分の 堂々めぐりのつながり ガチャガチャというだけで 全く解けない 「切ってしまえ」と強がって もしも一か所切ったら 二つが離れ もう一か所切ったら 五つが離れる それで静かになった胸の内に きっと生じる ずれた切り口の 引っかかり ささくれのような痛み だからそのまま ぬくい手あかが冷めないうちに ハンカチにくるんで ポケットにしまった
前向きじゃないと 人は多くそう言うけれど 前には濃い霧がたちこめていて どこを見ればいいのか分からない 180度体の向きを変えれば 景色はなんて鮮明なのだろう 遠くにフォーカスすると 石を欠いて獲物に投げつけている人間が 土をこねて器を作っている人間が 薄い水晶体を透かして 小さな泡のように浮かんで見える 毛様筋をゆるめると 人間は大きくなり ひしめき合って 互いの場所を奪い奪われ 殺し殺され そんなすべてをなかったことにする 火と黒煙に 目が開けていられず それでも指でまぶ
杖を握る手首に、ねんざのような痛みを感じていた。腰は砂袋を巻きつけたように重かった。引きずる足は、ほぼ意識から切り離されていた。二足歩行とは、なんて不安定な移動手段だろうと思う。 バスターミナルの一番乗り場には、〝さざんか公園行〟のバスが止まっていた。時刻表を見た。 「ばあちゃん、これに乗ったんやね」恵美が4時の列の32の数字を指して言った。「あれ、でもこれ、さざんか公園行〟じゃないよ」 32が丸で囲んである。それは市内巡回バスの印だった。 〝さざんか公園行〟と市内巡
「ばあちゃん、まだもどらないのよ」 母のしおれた声が耳に触れた。 「もう少し待ってみたら?」と恵美は言った。 「ちょっと遅すぎるわ。何かあったのかも……」 母は、起こりうる最悪の事態を推測して、自ら不安に陥っていくようなところがあった。 「ねえ、恵美ちゃん。今からその男の人のマンションに行ってみようと思うの」 時計を見ると4時半を回っている。もう少しでバイトが終わる。 「バイト終わったら、あたしが行ってみようか?」と恵美は言った。一人でそんなことをする勇気はなかった。母
次のフラダンスのレッスン日に、容子は朝から義母に付き添うことにした。その日も義母は、黄色いハイビスカスのムームー姿だった。目をつむりたくなるようなまぶしさの中に、花々のすき間からのぞいた葉の色が、影のように優しかった。 「ほれ、遠慮せんと、あたしの腕につかまり」 義母は腕を突き出した。拒んでばかりもよくないと思い、容子は腕に手をかけたけれど、体重をかけないように気をつけるのは、一人で歩くよりも骨が折れた。 バス停まで来て、容子はバッグからハンカチを出した。百メートルほど
いつもの通り三人で夕食を済ませ、義母が自分の部屋に引っ込むと、恵美が妙な話を始めた。昼時に、義母が高齢の男性とマンションに入っていくところを見たと言う。 「中よさそうだったよ」 恵美がこちらの顔色をうかがうのが分かった。 「人違いでしょ」とは言ったものの、容子の胸中は穏やかではなかった。 「黄色の花柄のムームーよ。ばあちゃん以外いないよ」恵美がスマホを脇へ置いた。「彼氏だったりして」 「まさか」 容子は苦笑した。 「でもさ、一人ぽっちだったら、ばあちゃんみたいな明るい人
恵美が駅地下の駐輪場に自転車を止めて、バスターミナルで待っていると、祖母が乗ったバスが着いた。金髪の頭と黄色のムームーで、すぐに祖母だと分かる。一緒に歩くときは、恥ずかしくて、他人のふりをしたくなるが、遠めに捜す場合は、目印になってよい。 乗客が次々に降りてくる。そして祖母が降りてきた。ガラガラ抽選機から落ちてきた当たりの玉みたいだった。祖母は辺りをきょろきょろと見回してから、横断歩道のほうへ歩いて行った。数人の歩行者が、信号が変わるのを待っていた。祖母がそこに加わると、
「お母さん、そろそろ時間ですよ。行きましょうか」 容子は鏡をのぞきこんでいる義母に声をかけた。 「はいよ」 義母は白いバッグを斜めがけにして、スカートのすそをひるがえす。すたすたと歩く八十をとうに過ぎた義母の後ろ姿を見ていると、50そこそこで杖に頼る自分の体が恨めしくなる。白いエナメルのパンプスをはいた義母は、まだ靴もはいていない洋子の前で、ドンと玄関扉を閉めて外へ出てしまった。逆向きに脱いでいた靴をやっとこさそろえて、手すりを持ちながら靴をはき、杖を取って玄関を出ると、