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ナイチンゲールの恋人

池田瑛紗は、俗に言う変な人だった。

彼女は他人に興味を持つことはなく、話し方やオーラが限りない陰を感じさせる。

彼女とは、友人でも恋人でもない。

二人の間でしか理解できない不思議な関係だった。

冷たい風が僕の頬に容赦なく吹きつける。

僕たちの出会いは、ロマンチック要素が抜けた運命のようだった。

老夫婦が経営している古びた映画館。

週末に『フォレスト・ガンプ』を見るのが僕のルーティーンと化していた。

下町のレイトショーということもあって、基本的に客は僕一人だった。

席は決まって、後ろの方。

いつも通り映画館で『フォレスト・ガンプ』を見ていると、珍しく客が入ってきた。

その客は人がいないにも関わらず、わざわざ僕の隣に座る。

徐々に辺りは暗くなり、映画が始まった。

時間と映画だけが過ぎていく。

フォレストの初恋相手ジェニーが、何も言わずに彼の元を去っていくシーン。

「私、この女嫌い」

隣の客が、そう呟いた。

「なんで?」と僕は聞いた。

「さあ」と客が答えた。

やがてエンドロールが流れ、部屋が明るくなる。

隣には黒い髪を纏った肌の白い少女が座っていた。

大きい瞳の奥には限りない闇を感じた。

「あんた、いつも一人で来るの?」

「そうだよ」

「何が悲しくて週末に一人で映画を観てるのよ」

「それはお互い様じゃない?」

彼女は軽く笑った。

「そうね」

観賞後、僕たちは近くの喫茶店に場所を移した。

「ジェニーは最低な女だよ」、ストローを回しながら彼女は言う。

「色んな男と寝たり、クスリをやったり、裸でギターを弾いたり」

店内には、ゆったりとしたクラシック音楽が流れている。

僕はワインレッドのソファでもたれながら彼女の話に耳を傾けていた。

「君の意見は正しいよ」

「瑛紗」

「え?」

「池田瑛紗。私の名前」

「池田瑛紗」と僕は繰り返した。

「良い名前だね」

「私の誕生日がナイチンゲールの日なの。なのに瑛紗」

「君の親はかなり粋な人だね」

「変人なだけ。親は私に看護師になって欲しかったらしいけど」

「そうなんだ」

瑛紗との時間は心地よく、この日を境に僕たちはほぼ毎日、日が暮れるまで話をした。

他愛もない話や、映画の話、時には悩み事を話すこともあった。

池田瑛紗という人間は、知れば知るほど知りたくなる底なし沼のような人だった。

しかし彼女は自分のことを多くは語らなかった。

「私のことはいいの。大した人生じゃないから」

大した人生じゃない、それが彼女の口癖だった。

池田瑛紗は同い年の21歳で、東京にある藝術大学で絵を描いている。

僕が知っているのはこの程度だった。

彼女は偶に僕の家に来ては映画を観たり、本を漁ったり、ただ沈黙を味わったりしていた。

懐かしい夢を見た。

池田瑛紗は、俗に言う変な人だった。

「失礼だね」と彼女は微笑みながら言った。

「案外マトモな人間かもよ?」

「君に限って、それはないな」

僕は窓から見える星を数えながら、そう答えた。

二人の間に沈黙が流れる。

その沈黙を破ったのは、瑛紗だった。

「最初に会った日のこと、覚えてる?」

「もちろん。君がジェニーを嫌ってるって話」

「嫌いな理由、今なら分かる気がするの」と彼女は言った。

「私に似ているから嫌いなんだと思う。どんなに頑張っても上手くいかなくて、遠回りしたり、時には間違った方向へ進んでしまったり」

そこまで言うと、瑛紗は小さなカフェテーブルに頬杖をついた。

「でも一つ違うのは、私を映画にしても何一つ面白くないってところ」

再度沈黙が流れる。

やはり僕は彼女のことを何も知らないのだ。

いくら話をしても、いくら大きい瞳を見つめても、僕と瑛紗の間にある距離を縮めることはできない。

今日の星はやけに少ない気がする。

「好きな人がいたんだ」と僕は言った。

「他人に興味がなくて、いつも負のオーラを漂わせている。でもどこか魅力を感じるんだ。この表現が合っているか分からないけれど、海のような人だった」

「もう好きじゃないの?」

「好きだよ」と僕は答えた。

「好きだからこそ触れたくないんだ。コップに入った水に黒いインクを垂らす行為に似ている」

「意外と奥手なのね」と彼女は軽く笑った。

「そうなのかもしれない」

ふと、頬杖をつく瑛紗の白い腕が目に入った。

その腕は大理石のように滑らかで、生まれたての赤ん坊のように無垢だった。

「僕にとっては、史上最高のラブ・ストーリーだよ」

「史上最高のラブ・ストーリー」

「そう」と僕は答えた。

「足元にはどこまでも続く氷床が張られていて、空を見上げると息を呑むようなオーロラが広がっている。そんな神秘的な恋だよ」

「その人は、よっぽどクールなんだね」

瑛紗は僕を見つめながら、微笑んでいた。

その視線に僕は気づかないふりをした。

夜が明けてきた。

外から差し込む光に導かれて、僕は瑛紗の方を振り向いた。

小さなカフェテーブルに彼女の姿はなかった。

僕はポケットから皺の入ったマールボロを取り出して、火をつけた。

その間僕は瑛紗の白い腕を引っ張って抱き寄せるのを想像した。

あの白い腕や黒い髪は遠い思い出のように感じるにも関わらず、瑛紗が座っていた椅子にはまだ彼女の温もりが残っている気がした。

しかし、そんなことをあり得ない。

池田瑛紗は二年前に死んだのだ。

自殺、彼女に一番似合わない死因だった。

瑛紗は自宅のアパートで首を吊った。

僕に一文字の言葉も残さずに彼女は逝った。

葬式には行かなかった。

詳しく言えば、行けなかった。

池田瑛紗の葬式に行くには、僕はあまりにも彼女のことを知らなさすぎたのだ。

懐かしい夢からの目覚めは、少し気だるい。

今だに僕の頬には冷たい風が吹きつけている。

山の頂上で瑛紗は眠っていた。

彼女が眠っているには、あまりにも平凡な墓だ。

ここまで来るのにかなり苦労した。

瑛紗の母に高校時代の友人と偽り、多種多様な嘘を使い分けて、この場所を聞き出した。

彼女のためなら、出鱈目な嘘をついても罰が当たらない気がした。

「ここまで来るのに苦労したよ」

もちろん返事はない。

「初めて一緒に見た『フォレスト・ガンプ』が今夜テレビで放送するらしい。なんでも地上波で流すのは考えものだね」

もちろん、返事はない。

「懐かしい夢を見たんだ」

「君が僕の家で、ただぼんやりと時間を過ごす夢。あの頃の日常だった。でも一つ違うのは僕がほんの少し素直になれたことかな」

墓の前に一箱のマールボロを置く。

「随分陰湿な言い回しだったけど、君なら分かってくれるよね」

またも冷たい風が吹く。

今年は大寒波になるに違いない。

「君はジェニーが嫌いな理由が分かったって言ってたけど、僕はまだ君が死んだ理由が分からないよ。でもその日が来たら、君のことが分かるような気がするんだ」

ふと、空を見上げる。

北から流れ出した黒い雲は雨が降るのを予感させた。

僕は瑛紗の墓をしばらく見つめ、振り返り、歩き出した。

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