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雑記6 小股にちょこちょこと走る

 それほど回数が多い訳じゃなかったが、それでもたびたび緒方のライブに出掛けたし、緒方も私の演奏を聴きに来てくれた。緒方の音は相変わらず刃物のように鋭く、空間を切り裂くような音は客を圧倒したが、残念な事に圧倒されるべき客はいつもせいぜい四五人しかいなかった。がらがらの客席に向かって、それでも誠実に、力の限りに吹き続ける姿はなかなか泣けるものだった。

 そんなライブを何度聴いただろう、しかし不思議な事に一度として彼が同じ名前でステージに立つ事はなかった。毎度毎度、変な名前で、うん、時には口にするのも憚れるような下品な名前で彼は人前に現れた。ある日のライブで彼が名乗っていた「○○○○小林」という名前、私が笑ながら「小林」って誰だよ?そう突っ込むと、緒方は後ろに立っている二人のメンバーを顎で指した。ひとりは小田、もう一人は若林、なるほど一文字ずつお借りしたって訳か。ちなみに○○○○にはもちろん到底ここに書けないような単語が入る。

 ある日、酔っ払った緒方は私に自分の事を緒方と呼ぶのを止めてくれと言った。じゃあ、何て呼べばいいんだよ。「そうだね・・・Оでいいよ、Оと呼んでくれ」O?ああ、アルファベットのOね、つまりイニシャルで呼べって訳か。「名前なんてただの記号だよ・・・」そうさ、緒方は自分の家族を嫌悪していたんだ。坊主憎けりゃ何とやら・・・ついでに名前までも憎かったと、そういう事だな。彼にとって緒方姓でいるって事は、似合わない服をむりやり親に着せられているような感じだったんだろうね。

 緒方は自分の名前を消し去りたかった。いや、消し去りたいものは名前だけじゃなかった。自分の過去も、そのすべてを消し去りたいと繰り返した。多分、自分自身を消し去りたいと思っていたんだろう。いつだったか二人で千葉の外房を旅した事があったが、貧乏なわれわれはよく夜の砂浜で酒を飲んだ。酔いが回ると、それがどんなものかは知らない、ともかく心の傷ってやつが疼くのだろう、めそめそと泣きだし、それから立ち上がってふらふらと海に入ろうとするのだった。正直、鬱陶しいと思う事もあったが、友情とは鬱陶しさとも丁寧につき合ってゆく事だと自分に言い聞かせながら、べそをかく緒方を砂浜に寝かせ、柿の種をつまみに一人酒を飲み続けた。

 ちなみに単純に語感だけの問題で言うと、私自身は緒方隆明という名前を何となく格好いいなあなどとぼんやり思っていた。自分の苗字、「犬走」については、しなやかに草原を駆け抜けている精悍な犬を思い浮かべ、うん、これもなかなか良いじゃないかと勝手に思っていたが、ある時ふと思いつき、広辞苑を繙いてみると、「犬走=小股にちょこちょこと走ること」と書いてあった。うへえ、格好悪い。

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