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帰り道の詩学 佐々木蒼馬詩集『きみと猫と、クラムチャウダー』を読んで

佐々木蒼馬さんの詩は帰り道だ。それもどこへ帰るのか定まった帰り道ではない帰り道だ。かつて確かにそこにいたと思えるけれど、そこがどこははっきりと言葉に託せない場所。そんな場所を求めて佐々木さんの詩は歩み続ける。
詩集『きみと猫と、クラムチャウダー』はたどり着かない帰り道、その先で待っているであろう「きみと猫」、いつまでも帰途であり続ける詩人の確固たる歩みの記録である。


雨がふりはじめたのはちょうどそのころだった
季節が変わろうとして
風もばたばたしはじめて
世界はいま、大きく息を吸って
ねむりにつこうとしている
おれだけが、目覚めている
その感覚が、また眠りに誘って、
いつしか、おれはまた
あの帰り道に立っている

(p34「帰途」より)


これは至極個人的な感覚なのだが、私は歳を重ねるということ、ひいては大人になるということは途方もない遠いところに来てしまったと気づくことだと思っている。だから、常に帰り道を探している。しかし、どこから来たのかはもうとうに思い出せないところまで来てしまっている。
「帰途」という詩ははじめ淡々と目に映る景色を描写している。しかし、描写していくうちに語り手が今どこにいるのか曖昧になっていく。「ソファに身を任せて/録画したアニメを見ていく」けれど「そこにおれはいなかった」のだ。アニメを見ることによって、「おれ」であることを望むも望まないもなく「無条件に/ただ肯定」される。そして、引用した最終連へと続く。
「世界」は変化しつづけ、ひとときの「ねむりにつこうとしている」なか、「おれ」という存在「だけが」覚醒している。覚醒している感覚が「おれ」を「眠り」に誘う。「おれ」という存在は覚醒のなかで眠るのだ。
「あの帰り道に立っている」と最後の行を読んだ時、読者思わず立ち止まり、再びこの詩の一行目に帰っているはずだ。
つまり、「無条件」に肯定された「おれ」という存在は目覚めたまま、常に帰途であり続けるのだ。この詩集において一際強く帰り道への意識が現れた作品だと私は思う。


ところで詩集のタイトルにもある「きみ」とは誰だろうか。単に恋人を指す言葉として読むこともできるし、そう読むのが正しいのだと私も思う。だが、私にはもっと根源的に帰りを待っている、もしくは、帰った先にいると信じているが、今となってはもうその正体も何か思い出せない存在なのではないかと思う。
この詩集において詩人は常に帰り道の途中でどこにもたどり着かずに待っているはずの「きみ」を思い続ける。たどり着かないからこそ、待っていると信じたいからこそ詩を書くのではないかと考えてしまうほどだ。
目次の前に載せらている作品にはこんな言葉がある。


見えているのなら、僕の名前を呼んでくれ
そこに、僕がいるのなら、返事をしてくれ
おいしいよ、
きみがつくったクラムチャウダー


ここで「僕」は現在どこにいるかわかっていなくて、「きみ」には「僕」が見えているのかもしれない。「きみ」は「僕」にとって出会わなければ、たどり着かかねばならない存在のように思えてくる。そう考えるとこの詩が一番はじめに置かれている意味が見えてくる気がする。佐々木さんのこの詩においての現在地点と目指すべき場所が設定しているように思える。


最後に、私が初めて佐々木さんの詩と出会ったのは季刊びーぐるの投稿欄だった。その当時、私は詩を書き始めたばかりで闇雲に書き、闇雲に詩を詩誌に投稿していた。結果は全く出なかった。そんな時、びーぐるの投稿欄で深く心に残った作品がこの詩集にもおさめらている「新宿人類史」だ。私にはなぜこの詩が忘れらないのか上手く言葉にすることができない。ただそこに書かれている言葉に圧倒されて、読後に何にかわからないがなにかに納得させられていた。
その「新宿人類史」か一部引用してこの文章を終えようと思う。佐々木さんのこれから歩む帰り道がどんなものか想像をふくらませながら。

なぜだか、
にほんで、
いきているということ
青い時間の中でネオンの明かりがぼんやりと浮かぶ
そんな
美しいと思える時間の中に
われわれは立っていると
さて、帰ろうか
なんて思う瞬間もあって
泣きはらしたあと
27歳で死ぬのだと思っていた
今年で37になる
来年は38になる
そのあとも、
なぜかまた、
新宿三丁目の夕暮れに生きている、
ということ

(p90「新宿人類史」より)

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