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閑話休題

48年生きてきて、未だに自分の扱いに苦労している。いや、中年という年代に入ったからこそ、「今までできていたことができない事態がぼちぼち出現してくる」自分の扱いに苦労するようになったのかもしれない。別の種類の苦労。

自分の思考を外在化し形にするためには多大なエネルギーを必要とするな、とnoteを書き始めて痛感している。

子どもが幼い時はそれでもエネルギーが有り余っていて、外在化しても今ほど「疲れる…。」とはならなかった。
だからここ数年は、大抵の思考は脳内で自己完結していた。それは逃避といえば逃避、思考停止といわれればぐぅの音も出ないけれど、そもそもの生きるためのエネルギータンクが小さく、20年の子育てでタンクそのものが経年劣化した私は、省エネを心掛けないとすぐに生命が危うくなってしまう。とりあえず2025年までは生きないと。

誰かと感情を分かち合いたい気持ちもあるし、「分かってくれた!」とか「今、同じ景色を見てる!」といった喜びの温かさも知っているけど、目に見える形で、しかも明確に形作る作業は、今の私にとってはとても疲れる作業だ。

外在化するとは、自分の思考や概念が明確な姿となって目の前に立ち上ってくるということだ。そこに対峙するには相応の胆力が要る。
文字や絵画などの目に見える形での創作を継続する人のエネルギータンクはどれほど大きく頑丈なのか、タンクの経年劣化は起きないのかと尊敬する。

私のエネルギータンクは経年劣化により厚みも薄くなっている。所々小さい穴も空いてるんじゃなかろうか。人はそれを「感受性が強い。」「メンタルが弱い。」と評するが、感受性が強いのもメンタルが弱いのも、幼い頃からの変わらない特性なので「知ってますけどそれがなにか?」くらいには開き直っているし、「じゃあ今まであなたはどうやって生きてきたん?」と聞きたくなる。

今までは己の感受性の強さをコントロールし、脳みそを筋トレしてなんとか社会に適合していたが、時々油断すると話の内容を脳内で風景に変換したり、自分の脳内に浮かんだ言葉たちをずっと追いかけてしまうので、言語コミュニケーションにおける反射神経は鈍い、と周囲には判断されている。多分。「私って鈍いですか?」って聞いたことはないけど。聞いたところで「そうだね。」という回答は得られないだろうけど。

今週はそういう、言語コミュニケーションにおける素早い反射を問われる業務が多くて私の感受性アンテナは疲労困憊・制御不能だったうえに、朝晩の気温差が大きく、急に雨が降って寒くなり、自律神経もズタボロだった。

そういう時は必ず発熱する。だから用心していたし事前対策もしたのに、寄る年波とはこの事か。今までの対策では間に合わなかったようで水曜日にして既に仕事へのやる気はゼロ。そして発熱。微熱だけど体がだるい。あと2日も通勤なんて絶対ムリだろと判断し、在宅勤務に切り替えた。今週末に控えている子どもの誕生日までは省エネで生きよう。

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