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想像と理解とゆるすこと⑥

20歳になった子どもが、友人から誕生日プレゼントをもらっている。
ラジオが好きだからとマルチラジオスピーカーをいただいたたり、一年間の思い出を動画に編集してもらったり。「今日と明日は夕飯いらないよ~。」と、日々様々な友人と食事や遊びに出掛けていく。楽しそうだ。

嬉しい。子どもが色んな人から愛されてることが、その日々を楽しんでいることが、私ができなかった経験をしていることが、色んな世界を見て感じてまた世界を広げていくその姿が、嬉しい。

母は、私が楽しそうにしていると顔をしかめた。
私が夢中になって読んでいる本を「そんなモノを読んでるとアタマがおかしくなるわよ。」とけなした。
私が声をあげて笑っていると「うるさい。」と叱った。
「女の子がお酒なんか飲むもんじゃない。」と禁止され、深夜に帰宅すれば「アンタが心配かけるからお母さん一睡もできなかった。」と後ろめたさを植え付けられた。
私は隠れて本を読み、ラジオや音楽を聞き、友人と遊びながら門限を守り、毎晩母の愚痴を聞いた。もちろん友人から誕生日プレゼントをもらったことなど、ない。

子どもに笑うことを禁じ、人生を楽しむことを禁じ、ひたすら自分の愚痴を聞かせ続けた母を、なぜ、と今の私は不思議に思う。

子どもを小さな小さな世界に閉じ込め、箱から出ようとすれば押さえつけて蓋を閉め、羽ばたこうとすればその羽を折って鎖で縛り、欲しがったものは与えず、望んでいないものを無理やり飲み込ませる。
それをして何を得たかったのか、なぜそれをしたのか。

不安、畏れ、恐怖、嫉妬、怒り、戸惑い、寂しさ、不満、恨み。羨望、称賛、慰め、労り、喜び、安堵、安心。
どれも該当するだろうし、どれも当てはまらないだろう。

カウンセラーの先生から言われた「幼い頃から親子関係が逆転してたんだね。」という言葉が忘れられない。つまり私はずっと「母」で、母はずっと「子ども」だったということだ。
納得はできた。ただし「私がずっと母だった。」という一点において。
「母がずっと子どもだった。」という解釈は私にはできなかった。到底納得できる解釈ではなかった。「だからってやっていいわけじゃない!」

親ならば、「あなたのため」という言葉を私に吐くならば、自分の人生に責任をもち、自分の選択に責任をもち、そのままならなさにのたうち回りながら自分の課題は自分で解け。
私の人生は私のもので、私の楽しみは私のもので、私の望みは私のもので、あなたがコントロールしていいものじゃない。

なぜそれがわからなかったのだ、なぜ。
常に完璧で正解で絶対を誇っていたあなたが、なぜ。
私は子どもが笑ってると嬉しい。子どもが泣いてると悲しい。子どもが嬉しいと嬉しい。子どもが幸せだと嬉しい。
なぜ、こんなにも簡単なことがあなたはわからなかったのか。

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