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想像と理解とゆるすこと⑨

あんなにも熱心にnoteを書いていたのに、最近放置気味。
継続は力なりとはよくいったものだ。耳が痛い。

書くことがないわけではない。書くことは沢山ある。だが書く体力がない。
仕事を理由にしてる、ってのもあります、はい。

継続しない理由はいろいろあるけれど、自分の中での「語り切った」感が大きい。

2か月前、夫の父が亡くなった。
夫の母は2年前に亡くなっているので、私は「義理の両親」という存在を失った。
人ってやっぱり死ぬんだな、死ぬと現実としてやっぱり存在しなくなるんだなと最近感じている。中年の思考じゃない、幼稚すぎる。

子どもの頃、ただただ「死」というものの大きさと暗さが怖くて、よく「死んだらどうなるの?」と泣きながら母に聞いて「そんなこと考えてないで寝なさい!」と怒られた。
そういう、「考えても答えの出ないこと」を考えることが好きだった。

母もやがて死ぬのだ。そして現実として存在しなくなる日がくる。
その時私は何を思うのだろう。
もう何も思わないのかもしれない。

20年も前から会話が難しくなった現実の母と、私はずっと「答えの出ない会話」をしていたのかもしれない。
それは時として私を苦しめ、私を開放し、私を変化へと突き動かした。

恨みがないとは言わない。あんな風に育てられなければもっと違う生き方ができたと、もちろん怒りもある。
だがその怒りを、恨みを持ち続けたところで、ぶつける相手はやがて死ぬ。現存しなくなる。

夫の両親の存在を感じることがなくなり、それまで抱えていた彼らへの感情も霧散してしまった私は、母への感情もきっとこうやって霧散していくのだろうと想像している。

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