今日は泣く日
子どもが20歳の誕生日を迎えた。
さっき中学の同級生と遊びに出掛けた。たまたま誕生日に遊びの予定が入っただけだから夕飯には帰るね、と言い残して。
子どもに「せっかくの20歳の誕生日をお友達やパートナーと一緒にお祝いしなくてよいの?」と聞いたら、「え?誕生日は家族とお祝いするんでしょ?」とびっくりされてしまった。
良い子だな、と思った。
涙が出るくらい温かくて、素直に愛を愛としてそのまんま受け止める素直な大きな、懐の深い、良い子だなと思った。
こんな私に育てられたのに。何もかも足りず、何もなかった私に育てられてたのに。どうしてこんなにも良い子に育ったんだろう。ありがたくて涙が出る。
20年前、出産したばかりの頃は子どもが20歳になる未来なんて想像もできなかった。毎日が「今日一日、この子の生命を保つこと」が目標で、「将来」も「○年後」も私には見えてなかった。とにかくこの子に栄養を与え、清潔と健康を保ち、一日を生き延びさせる。夜、子どもの寝息が聞こえたら、それが目標達成の標。
子どもが成長しても、未来の○年後を考えて計画しそれを実行するという事は、相変わらずできなかった。それは今も変わらない気がする。計算という能力が皆無。
だから今、子どもが20歳になっても「10年後は30歳か。」という思考には至れない。
私の中で「20歳」という年齢を、「節目」と捉える視点があり、どこかで「親卒業」という思いがあることも未来を語れない要因の一つだ。
卒業!やったー!万歳!という清々しさ全開の気持ちより、もう本当に親としてやってあげられる事が何もない、という一抹の寂しさを伴う晴れやかさ。
嵐が過ぎ去った翌日の眩しい日差しのような、暑い暑い夏が急に去って、涼しいというより少し冷たさを感じる今日みたいな秋の日のその晴れやかさに、私は戸惑っている。
正直、これからどうしたらいいのかわからない。自分がどうしたいのかもわからない。わかっているのかもしれないが、まだ明確な形を持って目の前に現れていない。
子どもは明確に「私のやりたいこと」だった。私は親というものになりたかった。だがいざ目の前に自分を親たらしめる存在が現れたら、私はその存在の大きさに畏怖した。
私にとって子どもはそれぐらい大きな、ある意味畏敬の存在なのだ。そんな存在に対して逆算するとか計画を立てるなんてできっこない。
だからこれからも、その日その日を共に生きて、子どもが私を親たらしめなくなるまで、私を必要としなくなるまで、共に生きていくことしか私にはできないのだと思う。
やっぱりこれからも足りないし何もないママだけど、どうぞよろしく。
時折見せてくれるあなたの世界の眩しさを、私はとても愛おしく、そして畏敬の念を感じてます。私が知らなかった世界に、到達できなかった思考に、その若さで到達しているあなたを尊敬します。ありがとう、私を親にしてくれたのは紛れもなくあなたです。
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