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想像と理解とゆるすこと④

BTSの「Not Today」、ヒグチアイの「縁」。この2曲をリピートしながらチャリで通勤する。2021年の私はずっとそうやって生きていた。

この2曲にどれだけ励まされ救われたかについては、長くなるのでまた別の記事にしようと思うが、それだけ支えてもらったからこそこの曲を聞くとあの頃の光景が蘇って涙なくしては聞く事ができないので、昨年からしばらく聞いていなかったが、先日子どもが「縁」を口ずさんでいて、いつの間に覚えたのかとびっくりしたのと同時にやっぱり苦しくなった。


2021年2月、母を介護施設に入れた。
その年の正月、突然母の嚥下状態が低下し食事が摂れなくなったのだ。

統合失調症を患ってから17年、感情を無くした母と、「お母さんをこんな所に入院させられない。」と母の入院を拒んだ父は、ずっと自宅で暮らしていた。
時々二人で小旅行に行っていたが、母はいつも無表情で「疲れた。」としか言わなかった。

私は、父は病を患った母とすぐに離婚するだろうと思っていた。うちの両親の関係性なんてそんなもんだ、と。
しかし私の予想に反して父は母を放り出さなかった。泣き言も愚痴も言わず、ただ淡々と母に食事を作り、家の掃除をし、好きなゴルフも絵画教室も定期的に通っていた。

あの父にこんな胆力があるとは。瞬間湯沸し器ですぐに手が出て、舌打ちがクセの典型的男尊女卑思想の九州男児。
その父が毎日母に食事を作っている?!それが妻への責任感なのか社会的体裁なのかそれとも愛なのか、私にはわからなかった。

だが2年前のあの日、「このままだとお母さんを叩いてしまいそう。そんな自分が恐ろしい。」と涙を流した父を見て、私は悟った。父は弱くなった、そして限界に立っていると。

父のほうが母にゾッコンだったと、遠い昔に母から聞いたことがある。それほど好きだった妻が精神の病を患い、美味しいとも不味いとも言わず無言のまま食事をし、ほおっておけば何日も入浴せず、ただ部屋で布団に横になっている姿を、父はこの17年どんな思いで見ていたのだろう。

23年前の私の結婚式で、母はウェディングドレス姿の私に「泣いちゃダメよ、化粧が落ちるから。」と冷たく言った。その横で父は目を真っ赤にして無言で佇んでいた。母は一滴の涙も流していなかった。
私は、あのお父さんが泣いてるよ、と心の中でひっくり返っていた。

父は何も言わない。
機嫌の良し悪しは帰宅時の「ただいま。」ですぐにわかるから、そういう時は子ども達は誰も寄り付かなかったし、食事の時は黙って食べろというのが我が家のルールだった。だから父との会話は皆無に等しく、それはほぼ「報告」だった。

2年前の父の涙を見たことで、私はこれから起こること全てを私が決断しなければいけないと感じた。そして、その通りに事を進めた。
介護に関する各所への連絡および手続き、施設の見学から入居まで、全て私が決断し続けた。妹はそもそも決断という行為が苦手で、弟はまだ手のかかる小さな子どもが3人もいる、初めからあてにはしていなかった。

私の仕事はクライアントの話を聞き、その人にとっての最良の選択肢を幾つか考え、情報を集め、その人が腹おちするまで腹おちしやすい形で提示し続け、決断を待つことだ。
だから人が「決断」という行為を行うまで、長い時間が必要なこと(人によっては年単位で必要)、大きなエネルギーが必要なことは実感としてわかっていた。
その「決断」という行為を1ヶ月半、ノンストップでやり続けた。
父の白旗宣言から母を介護施設に入居させるまでの、1カ月半だった。

その後も仕事、家事、子の大学受験、その合間に母の施設からひっきりなしに連絡が入る。
環境が変わったことで母はまるで保育園に入園したばかりの子どものように毎月発熱した。その度に入院や検査をし、医師から余命宣告を受けた。
最後の過ごし方を家族と施設で打ち合わせたこともあった。

あの頃をどうやって過ごしていたのか、私はほとんど覚えていない。数字にすれば「2」という、なんともちっぽけな数字なのに遠い遠い昔のように感じる。
今私の目の前に浮かぶ景色は、毎日同じ曲を聴きながら暗い道をひたすら自転車で爆走する自分の後ろ姿だ。

まだだ、まだ倒れられない、倒れるとしても今日じゃない。
お父さん、そんなに弱くなったお父さん、わたしほんとは見たくなかったよ。
お母さん、なんでわたしがあなたの代わりに決断しなきゃいけないの、あなたの人生なのに、あなたが決めてよ。

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