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親愛なる深淵

私の趣味はライブカメラの映像を見ること。

私はパソコンを何台か持っているから、それぞれ別のパソコンでそれぞれ違う都市の風景を同時中継するんだ。するとモニターを監視するラスボス(あるいは正義のヒーロー)みたいな気分になれる。うだつの上がらないバイト生活のことを忘れられるってわけ。君も真似したくなってきたんじゃない?先輩としてアドバイスしておく。酒を飲むなら程々にしておけ。酒と自分、これは二者択一だ。酔うのは必ずどちらか一つで無ければ格好が悪い。

これを見て。

このS市商店街の端に、小さく見える、あぐらをかいた小太りの男が座っているでしょ。ずっとこのカメラを覗いてる。こんな早朝には珍しくもない、酒に潰れた中年の男のように見える。だけど奇妙なことに男は一日中そこにいる。死んではいない。たまにどこかへ行くが1時間もしないぐらいで帰ってくる。一体このおじさんは何者なんだろうね。

彼からはどこか斬新さと神秘性を感じない?確かに名前をつけるなら「ホームレス」になるんだろうけど、そう呼ぶには違和感がある。どちらかといえば「地蔵」や「猫」だ。彼はたまに通行人が小銭を置いていき、そのなけなしの小銭で商店街の余った食べものを引き取って食べている。まるで地域の飼い猫みたいじゃないか。この男には何か秘密があるはずだ。まあ私はモニターから世界を眺めるラスボスなんだけど、その手のキャラには珍しく行動力も持ちあわせてるの。だから実際に会いに行ってみることにしたんだ。

近くで見ると、余計に不思議なのよこれが。確かに存在しているんだけど、存在していないように錯覚する。よほど注意を払っていないと消えてしまいそうな雰囲気ね。忍者とか幽霊とか、そういうのとも違う。強いていうなら鏡の中の自分。一人の人間だと意識した瞬間に産まれる儚くも鮮明な命。それが彼。

近づいたはいいけど話しかけるのが怖くて、しばらくウロウロしてみたの。でも埒が明かないから思いきり決心して真横に座ってみた。彼の目線を追っかけるといつも私が見ているカメラが見えた。今この瞬間も誰かに見られてるのだろうか。そう思うと背筋が伸びる。なるほど、ずっと誰かから監視されてるのも悪くない。ちょっとしたタレント気分を味わえる。こっち側ってこんな感じだったのか。

「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている」

私の意識がカメラに向いたせいで "仮死状態" になっていた男から言葉が飛んできた。その男としては気まずい沈黙を破りたかったようだが、あまりにドラマチックなオープニングに私は返答に困ってしまい余計に沈黙を流してしまった。男は続けた。

「あまりにも有名な言葉だが、深淵とは何かを人は知らない。」

「じゃあ、あなたは何か知ってるんですか?」

「僕こそが深淵の正体だよ。」

「どういう意味ですか?」

「あのカメラで君は僕のことをずっと見ていただろう。僕の方からも君がずっと見えていた。あまりにもジロジロとこちらを見るものだから恥ずかしかったのだ。実を言えば。」

「じゃあ私があんたを眺めながら飲んでたのは?」

「マッコリ」

「残念、不正解!わたしお酒飲まないから。おにーさん、深淵じゃないでしょ。なんですぐバレる嘘ついたのよ。しかもマッコリって。麦酒とかの方がまだ可能性あったんじゃないの。」

「見えているとは概念的なことなのだ。君という存在が直接視認できずともこの社会の大きな流れの一部として存在していることを把握していて…」

男はカメラから目を逸らさず、また表情ひとつ変えず饒舌に弁明を始めた。ミディ・クロリアンの設定が如く難解を極めた解答だったが私が「じゃあ何でマッコリと答えたの」と聞くと再び沈黙が始まった。

「ねえおにーさん、深淵じゃなかったら何なの?」

「影の薄い『ホームレス』だ。」

「じゃあわたし『アルバイト』ね。」

「アルバイトくん、君はレンズの向こう側に帰りなさい。レンズを通してしか、僕は君に焦点を当てることができないからね。」

何でここに座ってるかとか、働いていたことはあるのかとか、ここに来る前はそういうことばかり気になっていたけれど、何だかどうでも良くなった。この変てこおじさんと私がレンズ越しにお互いを見ていた。何だかそれだけで大きなお土産を貰った気がして、帰ることにした。

「あ、最後に質問なんだけど、深淵の対義語ってなに?」

「浅瀬、じゃないか」

てことで私は浅瀬になったから。改めてよろしくね、後輩君。

おしまい


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