兄弟の消えない後悔
2011年3月11日。
その日、私は11回目の誕生日を迎えていました。
宮城県の内陸部の小学校5年生で、学校が終わったら焼いたスポンジケーキに母と一緒に生クリームを塗って、誕生日ケーキを作る予定でした。
でも、大きな揺れがあって、各地に被害が出て、もちろんケーキを食べるどころではありませんでした。
それ以来ずっと、誕生日の「おめでとう」に違和感をもつようになりました。
そんな私は記者になり、今年初めて取材者として震災と向き合うことになり、2人の兄弟を取材したのです。
その取材で私は、この被災地でずっと変わらないもの、変わってゆくものをずっと見つめ続けていきたいと思うようになりました。
こらえた涙
12年前のあの日、私は学校の体育館で卒業式の練習に参加していました。
急に、揺れが襲ってきて椅子の下に隠れましたが、その椅子もあちこちに動いていて、必死で押さえていました。
何が起きているかわからず、怖いという感情すらわきませんでした。
必死で校庭に逃げて、お母さんが迎えに来てくれて。
帰り道、ところどころ石塀が倒れていたり、家中に落ちたものが散らばっていたりしました。
少しずつ状況がわかってきて、こらえていた涙は、母と家に戻った時に初めて流れました。
やがてテレビに沿岸部が津波に襲われる様子が映し出されました。
流れてくる映像を前に、ただただ呆然として見ていました。
初めての光景
当然、学校は休みになり、再開まで1か月ほどかかりました。
覚えているのはPTAの人が校庭で線量計を使っている姿や、校庭であまり遊ばないように言われたことです。
そんな日常を経て、少しずつもとの生活が戻ってきました。
私は中学も地元の学校に進み、高校も宮城県内の学校に通いました。
私に転機が訪れたのは、その高校3年生の夏休みのことでした。
一度は自分の目で沿岸部の被災地を見なければと思い、福島、宮城、岩手を回るツアーに参加しました。
この時まで、自らの目で被害が特にひどい地域を見たことがなかったのです。
見た光景は想像を超えていました。
震災の時に流れていたテレビの画面の向こう側が、そのまま残っていました。
被災した人たちにも話を聞かせてもらいました。
避難所の運営に携わりたくさんの遺体を見た人。
家が流され、その後、語り部として活動している人。
津波で子どもと両親を亡くした人。
話を聞くたびに泣き、話を聞きにきたのに、耳を塞ぎたくなる時がありました。
あの日と向き合おうとツアーに参加したのに、私はつらくて向き合いきれず何回も泣いていました。
明日がツアーの最終日という日の夜。
それまで、自分で撮りためていた写真をふと、見返しました。
更地に落ちていた将棋の駒や、学校に落ちていたフォーク。
無意識ではありましたが「誰かが生きた証」をたくさん撮っていました。
がれきは取り除かれていましたが、あの日より前には、たしかにそこに人がいて生活していた証がありました。
この被災地から、何かを伝えたいという思いが自分の中に湧き出てきました。
そして、最終日、語り部の人が私に語りかけました。
「被災地に来たからには責任があるんだよ。きみたちがここを訪れて、見たこと、聞いたことを伝える責任があるんだよ」
このことばで私の中の思いは、より強くなりました。
“伝えることを仕事にしたい”と、思うようになったのです。
この言葉を聞いた日から6年。
私は放送局の記者として、いま、かつて見ていた画面の向こう側にいます。
記者という仕事を選び、被災地のことを取材したいと、東北地方を中心に配属される「地域職員」という制度を選んで仙台局に赴任したのです。
2人の兄弟
東日本大震災の記憶や教訓を伝えることが局の使命です。
入局1年目の私は、日々の取材でいっぱいいっぱいですが、それでも、記者として初めて迎えることしの3月11日、何かを伝えたいと意気込んでいました。
でも同時に「この12年って何だろう」という思いも湧いてきました。
震災10年などの節目では報道も大きく取り上げます。
でも12年というのは、どう見たらいいんだろう。
被災した人にとっては、どういう期間なのだろう。
そうした、もやもやした気持ちを抱えながら取材を始めた時、大学時代に知り合った被災地出身の友人から、ある兄弟を紹介されました。
それが、香月諒来(りょうく)さん(32)と、昴飛(るいと)さん(29)でした。
弟の昴飛さんは父とともに移動中の車が津波に襲われました。
自分は生き延び、父は亡くなりました。
兄の諒来さんは当時大学生で、県外にいました。
12年の間に、2人は家庭を持ち、ともに父親になりました。
「12年という年月は高校生や大学生だった2人が父になるという年月なんだ。2人を取材したら、この12年とは何なのか、伝えられるかもしれない」
そう考え、兄弟に会いに行くことにしました。
泣くことしかできなかった私に、理解できるのだろうか
初めに会ったのは弟の昴飛(るいと)さんです。
昴飛さんは震災当時、17歳。
母親は震災の前に病気で亡くなっていて、父と兄と3人で暮らしていました。
震災が起きた時は、父親と石巻市内の自宅にいて、近くに住む祖母を迎えに行かなければと2人で車で出ました。
祖母の家に着いて中に入ると、姿はなく、すでに避難しているようでした。
あわてて自分たちも避難しようとふたたび車に乗り込みます。
大通りに出ると、避難する車が大渋滞。まったく動きませんでした。
それから数分後。
突然、津波がやってきました。
このまま水没すると、窓が開かなくなり車から逃げ出せなくなる。
そう考えた昴飛さんは、車の外に出ると決めました。
そして父親に飛び込もう、と叫び、一緒に濁流に飛び込みました。
波にのまれながら、流され続けたあと、浮いている瓦礫の山につかまることができました。
父も一緒でしたが、足をけがしていました。
寒さをしのげる場所を探さなくてはならない。
父はそれ以上は泳げないと考え、ひとりで探しに行くことに決めました。
泳ぎまわったすえ、かろうじて残っていた住宅の中の押し入れを発見。
ここなら波に浸からずに過ごせる、父を迎えに行こうと思いました。
その瞬間。
引き波が訪れました。
一連の出来事を、昴飛さんは自身のnoteに記しています。
波が落ち着きを取り戻したあと。
昴飛さんは、泳いで瓦礫の山にたどり着きました。
でも、そこに、父親の姿はありませんでした。
その時、昴飛さん自身、体のあちこちにけがをしていました。
泳いで瓦礫の島を離れた昴飛さん。
押し入れがあった場所の近くで別の戸建てにたどり着きました。
そこは2階の部分が一部残っていて、おばあさんがひとり、生き残っていました。
昴飛さんは2階に入れてもらい、ひと晩をそこで過ごしました。
翌朝、目にしたのは、目の前に広がっていた「街全体が廃墟と化した」残酷な景色。
ひとりだったら、現実を受け止めて、生きるために、再び海水に浸かりながら避難所へ歩いていけなかったかもしれない。
でもその時、昴飛さんは、家に入れてくれたおばあさんと、家の近くで助けた女性と一緒にいました。
3人で歩き、近くの避難所までたどりついたのです。
数週間後。
自衛隊が父を見つけてくれて、近くの青果市場に安置されていた父と対面しました。
震災からしばらくは、先のことがまったく考えられませんでした。
昴飛さん
「今でも父が流された時のことは、忘れることはできません。第三者から見れば、津波によってうまれた被害で仕方のないことだと思うかもしれませんが…。その瞬間、瞬間での命に関わる判断の連続でした。あのとき、こうすれば助けられたのではないかという自責の念を、これからも持ちながら生きていくと思います」
17歳の時の自分の選択を後悔していて、いまもその思いが消えません。
被災した高校2年生の時から、ずっとその思いと向き合い続けていました。
昴飛さんが被災したのと同じ17歳の時の私は、被災地の話を聞いても泣いてばかりでした。
「そんな私では、昴飛さんの気持ちをくみ取れるのだろうか、いや私は記者になったのだから、語り部の人に言われたように伝え続けないといけないんだ」
初めて会った際、そんなしゅん巡を胸にしていると、私の気持ちを察したのか、昴飛さんが声をかけてくれました。
「遠慮せずに、何でも聞いてください」
そのひと言が耳に入り、私は少しだけ、緊張が解けました。
この人たちの思いを取りこぼすことなく伝えていかなければ、と改めて自分を奮い立たせ話を聞きました。
どんな環境でも未来に
昴飛さんには今、2人の子どもがいます。
3年前、長女の誕生をきっかけに高校卒業後から務めていた消防士から教育関係の仕事に転職しました。
新しい仕事では、小中学生のデジタルの授業をサポートしたり高校生の就職活動の支援をしたりしています。
震災後、進路に迷った実体験から、若い世代にはどんな環境でも明るい未来に進んでほしいと、自身の子どもの誕生をきっかけに感じるようになったそうです。
昴飛さん
「当時は、目の前が真っ暗だったんです。自分がこれからどうやって生活していって、どこに向かっていけばいいのかというのが、本当にわからなくなってしまっていて。衣食住をなんとかやりくりする状態だったので、自分の進路、進学、就職をどのように進めていったらいいんだろうと不安になることが多かったです」
「震災にかかわらず貧困とかたくさん理由はありますが、環境要因をひとつでも消していって、子どもたちに明るい未来を提供できたらと思っています」
兄の後悔は
宮城県内で小学校の教諭をしている兄の香月諒来(りょうく)さんと会ったのは、次の日でした。
諒来さんは震災当時、仙台市内の大学に通う大学2年生。
陸上部の合宿で茨城県にいたため、離れた場所で父を亡くしました。
最後に父と会ったのは震災発生の4日前、下宿先の引っ越しを父が手伝いに来てくれた時でした。
陸上部で全国大会に出場するほどの実力だった諒来さんですが、大学2年生の当時、なかなか記録が伸びずに悩んでいました。
「このまま続けていいのかな」
ふと、そうつぶやくと父が言葉を返しました。
「自分でやると決めたことなんだから最後までやりなさい」
それが父から聞いた最後のことばでした。
諒来さんはその後も、父のことばを胸に、大学を卒業するまで陸上を続けました。
3歳下の弟・昴飛さんのことを支えてあげたいという思いはあるものの、当時は自分のことで精いっぱいで余裕がなかったそうです。
諒来さん
「震災の後の生活を考えた時に、両親がいなくなってしまって、弟がいて。家の片づけに石巻に行かなきゃとか、行政的な震災関係の手続きに行かなきゃとかで。
津波からやっと生還した弟に優しく声をかけてサポートしてあげるべきだったなと今では思います。ただ、当時は自分も20歳で、表向きは大人でも、中身はそうではありませんでした」
父を救おうとして、それがかなわなかった弟の昴飛さんを、もっと支えてあげられたのではないか、その後悔の思いは いまも消えないようでした。
「話すことはあまり得意ではないんですよね」と言いながらも、ことばを選びながら、12年経ったいまも続く思いを率直に話してくれました。
止まってしまった人の分まで
その後、撮影を伴う取材は昴飛さんと諒来さんの家族も交えて行いました。
子どもと遊んでいる父親2人の表情は、これまでに会った時よりも柔らかいのが印象的でした。
昴飛さんの子どもは3歳と1歳、諒来さんの子どもは2歳と年齢が近く、みんなでままごとをして仲良く遊んでいました。
2人は子どもたちを見守りながら「おもちゃの取り合いとかふだんするの?」とか「最近かぜひいてない?」など家族の近況を報告し合っていました。
月1回くらいは、互いに家を行き来したり出かけたりしているそうです。
12年の時を経た昴飛さんと諒来さん。
いま、互いをどう思うのか、聞いてみました。
昴飛さん
「震災後、兄は半分、父のような存在でした。感謝していますし、いなくてはならない存在になっていったんです。兄は教師でもあるので、教育者としての視点が知りたい時にはよく相談もします」
諒来さん
「昔は男どうしのコミュニケーションという感じでしたが、家庭を持ってからは父としてのつながりができて、子どもたちや妻も含めて協力していける関係になりましたね」
インタビューの最後。
取材を始める前から、ずっと聞こうと決めていた質問を聞きました。
「兄弟2人で歩んできた12年はどんな時間だったのですか?」
諒来さん
「12年は長かったです。けれど、自分の震災の体験を話すことや、誰かに伝えるということが何とかできるようになったところです。困難は最終的には自分で乗り越えないといけない。それが誰かのためになるのであれば伝えていきたいです」
昴飛さん
「震災後の12年は成人して、かつ家庭を持って、子どもが生まれて、そこの変化としては長いなと感じる部分もあれば、3月11日に対峙して・・・」
ここまで話した時、突然、昴飛さんは声を詰まらせました。
そして、涙を目にためました。
はっとしました。
昴飛さんは、父親が亡くなった当時の話を聞いた時も、客観的に捉え淡々と話している印象でした。緊張していた私に「何でも聞いてください」と笑顔で声をかけてくれました。
それでもまだ、拭い切れない思いが、それは一生拭い切れないかもしれない思いがあるのだと感じました。
昴飛さんは、時々詰まりながらも言葉をつないでくれました。
昴飛さん
「親や同級生の遺影を目の前にすれば、時間としてはそこで止まったままに感じる時もあります。止まってしまった方たちの分まで、前に進んでいかなければという思いで過ごしています」
こう話す昴飛さんを、兄の諒来さんは隣でじっと見守っていました。
何かするわけでもなく、話に、静かにうなずきながら。
ただ隣にいて支える。
その姿は12年の間ずっとそうだったのかもしれないと感じました。
2人は震災以来、ずっと、たったひとりの兄と弟でした。
一杯のコーヒーという大切な日常
初めて昴飛さんと会った時、とても印象に残ったことがあります。
実は昴飛さんは、いま、コーヒーショップを開店したいと考えていて、その理由を聞いた時のことです。
昴飛さん
「震災で日常が一瞬にして失われた。そこから徐々に日常に戻ってくると、当たり前のありがたみをすごく感じるようになりました」
「当たり前の瞬間が当たり前じゃないということを感じる部分はたくさんあって、コーヒーを飲んでいるシーンというのは、日常の幸せの象徴なんじゃないかと思うようになったんです」
震災で日常が奪われたというのは、よく耳にする言葉です。
そんな中で、コーヒー一杯が持つ日常の尊さ、当たり前のありがたさを届けたい。
日常を提供できる場を、被災したたくさんの人が住む地域にこそ作りたい。
そんな思いが出てきたのだと感じました。
12年経って後悔も兄への思いも変わらないけれど、あの震災を経験した1人としてどんな道を進んでいくのか、それは少しずつ変わっていました。
12年経っても変わらないもの、変わっていくもの、そのどちらもあることを2人は私に教えてくれました。
取材後記
誕生日にかけられる「おめでとう」という言葉に違和感を持っていた私。
高校生の時、初めて目にする被災地の現状や、初めて聞く被災した方の話に泣くことしかできず、震災と向き合うことすらできなかった私。
でも、一歩踏み出して、震災を伝えたいと思って記者になり、ことし、記者として初めて3月11日を迎えました。
改めて、誕生日は震災と向き合う日になるんだなと実感しました。
この仕事を選んだ私の宿命として、震災から何年がたっても、私のふるさとでもあるこの場所で、変わらないものと、そして変わっていくものをしっかり見つめ伝え続けていきたいと思っています。
藤岡しほり 仙台放送局記者
宮城県白石市出身。小学5年生のとき東日本大震災を経験。震災を地元・宮城県から伝えたいと思い、2022年に仙台局に地域職員として入局。地域の方から信頼される記者を目指しています。ふだんは経済担当として生活に身近な取材をしながら、最近は取材現場で自ら撮影・編集した動画をSNSで発信しています。