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混沌そして春

新年初のnote。もう春が来てしまった。

寒さに弱すぎる私はこの冬中、仕事から帰ると羽毛布団に直行する日々を送っていた。
なんとだらしない...と我ながら呆れるけど、寒さだけでなく、大変な眠気が慢性的に溜まっていたためでもあった。

毎日毎日、なんと眠かったことか。
人間でも(喩えとかではなく)冬眠モードが存在するのだと確信してしまうほどの眠気...とにかく布団の中が最高だった。

文章を何でもいいから書いておきたい…そんな気持ちがありつつ、体はPCではなくそばにあるベッドに引きずられる。
デスクには座れずとも寝ながらスマホで文字を打ってみよう…と思った3分後には顔面にスマホが落ちる。そのまま眠りこけて陽が昇って朝風呂からの出勤もざらだった。本当にだらしない。

こんなんで私は冬の受験とかちゃんとできてたんだろうか?今となっては、ほとんど記憶がない。


まあそんなことは過ぎてしまった今では、もう考えても仕方ない。
寝てばかりの私も、真冬の3ヶ月間何もなかったわけではない。
感情の変化は随分とあった。


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自分の悪いところの一つとして、自分自身に満足してない部分があると気づいたとき、人とのかかわりが途端に面倒になってしまう、というのがある。
自分でも何言ってるかわからない。

つまり私は現状に満足していない。
そんなことはここ5年間くらいずっとそうなのだけど、それをふと自覚した時に、ひたすら一人でいたくなってしまう。
今回の場合は、自覚というより焦りから生まれたもののような気がする。

最近自分の兄弟を含め、みんな結婚を始めていて、妊娠したり、プロポーズされたり、している。
私は結婚や子どもとかに対する憧れは全然ない。
それへの焦りは感じたことがないけど、みんなが人生をどんどん前に進めていることに対しての焦りがものすごくある。

私はいったいここ最近何をしているんだろう、もっと一人でも大丈夫になりたい、と思うし、周りの人間の人生のスピードなんて気にしなければいいのに、と思う自分もいるし、焦りを覚える自分に嫌気がさしたりもする。


私にはまず前提がある。
誰かと共に生きる、と決断できるのは、自分というひとりきりの存在に自信が持てたとき。
私はひとりを愛していて、ひとりでいるときの自分をもっと好きになりたい。自分を誇ったことがまだない。自信をほんとうの意味で持ったことも。
私はまだ自分のことすらもわかっていない。

結婚してゆく友だちや、子供が生まれる兄弟をみていて、そのことに焦ってはいないけど、なんとなく置いて行かれたように感じるのは、たぶんそれが理由。
みんなもう??みんなもう、立派で自立して、誇りをもって仕事をこなして、いろいろなことがわかってしまったの、と。

人をもし好きになったとして、私はそれを前に進められるフェーズにない。
そのフェーズがいつか訪れるのかも分からない。


そういう時に、人と喋りたくなくなる、というほどではないけど、なんとなく、この悶々を一人で抱える時間が必要になる。
友だちとの大事な時間を全て捨て、誰も受け付けられない日がある。
そしてぐるぐるの気持ちを抱いたまま、眠りそして朝を迎える。
そんな冬の終わりだった。


休みの日もろくに有意義に過ごせなかった私だけど、本をたくさん買った。

読書とは別に、本を買うという行為に快楽を感じるタイプの人間なので、読むのが追い付かなくてもどんどん買った。

自分と同じ人間がいやしないか、自分の言いたかったことをこれぞという言葉で代弁してくれる文章に出会えないか、と心のどこかで考えながら本を選ぶ。

びっくりするほど、「自分とともにある」と感じる本は、表紙がふにゃふにゃになるくらい読んでしまう。
柔らかくなった本ほど、愛した本の証である。

見つからなかったら見つからなかったで、安心する自分もいる。
自分にしかない感情というのも良いではないか、という気にもなる。

最近、『コンビニ人間』(2016年村田沙耶香著、文藝春秋)を読んだ。
芥川賞を受賞して当時とても話題になった本だが、今の今まで手をつけたことはなかった。

この作品の主人公は、少なくとも「自分にしかない感情というのも良い」なんて思いはしない。

どうやったら「普通」の社会に溶け込めるのか、どうやったら周りが思う自分の中の「不自然」を取り除いていけるのか、世間一般のマニュアルを求め続けている。


『コンビニ人間』の中で、好きな文章がある。

「そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。」

私は、今、自分が生まれたと思った。

私はこの感情を昔、味わったことがある。そして、これはがつんとした衝撃で、私を感動に震えさせた記憶がある。
私にもできることがあるのだと、何もかもがしっくりときて自分の手の中に落ちてくる、やっと見つけた、と思えることに、そのとき出会えた。

それから私はその「ある事」に夢中になり、家族が怪訝な顔をして引き剝がそうとするくらい、執着した。
私はそれのためなら、どんな道化になることもできた。
そしてそれが終わりを迎える時、これからどうやって生きていこう、と途方に暮れもした。


ああいう、震えるほどの感動に、もう一度出会いたいと思う。
家族が心配と諦めを繰り返そうと、私はもう一度、自分の誕生を感じたい。
どうしようもない人間なのだろう。
あるいはみんなこうなのか。
他人をしっかり観察できていないから、私にはわからない。



今夜の曲。というか、ここ最近はこれ。


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