ジブリの最新作を見て思うところ
『君たちはどう生きるか』を見て、結構時間が経ちましたので、僕も少し感想のようなものを書いてみようかと思います。
千と千尋…からはじまる物語
はじめてこの映画を見て思ったことは
「パンズ・ラビリンス意識してない?」
でした。
2006年に公開されたスペイン映画『パンズ・ラビリンス』。
戦時中のスペインで、親の再婚相手の家に引っ越すことになった主人公。
主人公が引っ越し先で見つけた奇妙な遺跡で出会った「モノ」に誘われ、夢とも現実ともつかない世界で試練に挑んでいく…というお話です。
ちなみに僕が『パンズ・ラビリンス』を見た時の印象は
「千と千尋の神隠し意識してない?」
でした。
監督のギレルモ・デル・トロは、日本のアニメや特撮に造詣が深いことが広く知られています。『パンズ・ラビリンス』に宮崎作品の影響を感じた方々も多く、僕自身も同様にこの作品に『千と千尋の神隠し』のにおいをかぎ取りながら、あれこれ妄想を重ねて楽しんでいました。
そんな中で『君たちはどう生きるか』を見たものですから『パンズ・ラビリンス』こそ、この映画の真の原作ではなかろうかと、愚想を巡らせるに至った次第です。
あくまで僕の妄想ですが…『千と千尋の神隠し』に影響を受けつつ『パンズ・ラビリンス』を世に放った『ギレルモ・デル・トロ』。
そしてその『パンズ・ラビリンス』に心を動かされた『宮崎駿』が『君たちはどう生きるか』で、さらにその世界に彩を添える。
心の中に宿した『不思議の世界』を共有する二人の天才達の交感に、一人興奮している自分が居ました。
(あくまで妄想ですが)
現実と虚構
映画を見るときにどうしても避けて通れないのは、現実と虚構をいかに自分の中に落とし込むかという事です。
『不思議の世界』を物語る映画であれば、なおさらそのことを意識せざるを得ないわけで…。
映画を見ている自分たちの『現実』と『虚構』としての映画作品。
映画の主人公が踏み入れる『虚構』としての不思議の世界と日常生活を送る『現実』の世界。
これらの「せめぎ合い」や「交じり合い」が『不思議の世界』を物語る映画の肝ではないかと僕は思うわけです。
『君たちはどう生きるか』は、映画作品としての『虚構性』を保ちながら、かなり『現実』に寄せてきた作品だと感じました。
世界観は、これまでの宮崎作品以上に『虚構』にあふれているのですが、語られる物語はきわめて卑近でドメスティックな『現実』。
『君たちはどう生きるか』という、ちょっと圧の強いタイトルと伴って、この辺に拒否反応を示す方々が多いのではないでしょうか。
圧倒的な映像体験に身を置き、まるで空中を疾走するような感覚に浸りがらも、片足を亡者(のようなモノ)に掴まれているような感触を感じていると言いますか…。
映画を通して感じる居心地の悪さは『現実』を突きつけ続ける、意地悪な構造にあるのかな…と。
タイトルの通り
『宮崎駿』の作品について振り返ってみれば、後期の作品になればなるほど、彼の想いや思想がストレートに表現されていると感じるのは僕だけでしょうか…?
『風立ちぬ』のラストシーンで、堀越の心の師匠ともいうべきカプローニが
「国を一つ滅ぼしたんだからな」
と堀越に漏らすシーンなど最たるもので、『宮崎駿』がここまでストレートにモノを言うのかと、かなり驚いたのを覚えています。
今作のタイトル『君たちはどう生きるか』も、同様にストレートな物言いに少し不安を感じざるを得ませんでした。
この作品には生の感情をむき出しにした『宮崎駿』が宿っています。
作品を通して感じる「問答無用」感は『宮崎駿』の態度そのものだと思います。
言ってしまえば『宮崎駿』は作品を通じて僕らに問いかけているわけです。
『君たちはどう生きるか』
そんなわけで、この映画から何かを得ようとする人達が鼻白むのもの無理はないかと思います。
人生の最晩年で、最後の作品となるかもしれないこの作品で、偉大な巨匠が我々に『問う』ことの意味を、僕達は今少し真摯に考えなければならないと思います。
『君たちはどう生きるか』
僕達が共有する『不思議の国』に、無慈悲に突き立てられたこの『現実』の『問い』に、僕達は自らの人生をもって答えていかねばならないと、思い至った次第です。
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