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ドラマが苦手 続き

ドラマが苦手、という話の続き。

拘束感以上に苦手なのは、届く情報がダイレクトすぎることだ。
言ってる意味が分からないかもしれないけど。

私が好んで本を読むのは、受け取る情報をある程度制御できる(という錯覚がある)からだ。
読書家には小説を映像化して理解する人とそうじゃない人がいるが、私は3割くらい映像化して読んでいる。
たとえば、風景はかなり細かく思い浮かべている。場所や季節、天気、温度や匂いも細部まで想像する。でも人物はかろうじて年齢と性別がわかるくらいの映像は頭にあるけど、顔や服装は明確でない、というか、明確にしない。
物語を読むということは登場人物の感情の行く先を辿ることだ。
その行く先を頭の中で映像化したくない。
表情や言動は文章のまま味わいたい。
文章の中に、確定させたいものと確定させたくないものがあって、風景は確定してもかまわないけど、人にまつわることは確定させたくない、というか。

同じようなことは、物語を受け取る場面ではいつも考えている。

ドラマや映画も物語を受け取る。
そのときに、俳優さんやその演技の表出で色付けされた物語を受け取りたくない。
物語を無垢なまま受け取りたい。
誰にも色付けされていない、できれば無色透明な物語を、曖昧なまま受け取りたい。

もちろん。
その演技・演出があるから素晴らしい物語になる、より感動できる、ということはある。私も体験している。
でも、実体を伴った物語を受け取るのを、私はあまり好まない。

たとえば「精霊の守り人」

舞台は見ていないけど、それ以外は見た。
ドラマよりはアニメのほうが受け入れやすく、でもやはり本が一番だ。
ドラマの俳優さんは大好きだけど、私はバルサは美人の類ではないと思っているので、あの俳優さんでは綺麗すぎる。
アニメはとてもよくできていたと思う。でも、私の頭の中の「守り人」を侵食される感覚に抵抗があった。

映像作品は物語を理解する難易度を下げるし、解像度を上げてくれるので、世の中の見方がもともと甘い私のような者にこそ、向いているのかもしれない。
でも、全部を説明されたくない。
行間をつまびらかにされたくない。

自分の解像度が低いせいで大事なメッセージを取り逃してしまうとしても、わかりやすく渡されることのほうが、なんというか、受け入れがたい。
私は映像を見たままにしか受け取れないので、そこで物語が完結し、解釈が広がりにくい。
映像は私にとってとても不自由なものだ。

もっと言うと、映像になった感情を受け取りたくないというのもある。
言葉にならない微妙で複雑な感情の表出が、映像にもあるのは百も承知だ。
でも、それをダイレクトに受け取りたくない。
回りくどく、ゆっくりと、曖昧模糊として自分の中に染み出して、染み渡っていく。
そういうふうに感情を受け取りたい。
映像はそのスピードが速く、自分でコントロールできないのが嫌だ。

というような理由でドラマは苦手だ。



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