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田中亮監督 『映画 イチケイのカラス』 : 「パンドラの箱」の正体

映画評:田中亮監督『映画 イチケイのカラス』

私は、連続もののテレビドラマは視ないので、テレビドラマの映画化作品を観たのは、本当にひさしぶりというか、観たことがあるのかどうかすら定かではない。
では、そんな私が、どうしてこの映画を観に行ったのかというと、映画館で流される予告編を見て、とても惹かれたからだ。

主人公は、裁判官のだが、ちょっとふざけたような感じの男。
でも、海上自衛隊のイージス艦と民間貨物船との衝突事故(貨物船が沈没して、乗組員は全員死亡)の裁判に当たって、その真相を探ろうと、周囲の迷惑を顧みずに職権を発動して、裁判所主導の捜査を始め、周囲を巻き込みながら、権力の犯罪に立ち向かっていく。
しかし、この作品は、そんな大真面目一本ではなく、主人公の入間の独走に巻き込まれて、迷惑をかけられる真面目な女性弁護士を黒木華が演じているのだが、そのコメディー的な演技も楽しそう。

(難事件に立ち向かう裁判官・入間みちおを演ずる竹野内豊。さて「どうする?」)

一一と、おおむねそんな感じの予告編だったのだが、私はこういう作品に弱いのだ。
日頃、飄々としていて、ちょっと軽いいい加減そうな男が、いざとなったら、巨大な敵にも飄々と立ち向かっていき、周囲も最初はそれを迷惑だと言いながらも、最後は協力して敵に立ち向かう、みたいなお話。

『入間みちおが東京地方裁判所第3支部第1刑事部(通称・イチケイ)を去ってから2年が過ぎた。岡山県瀬戸内の長閑な町に異動した彼は、史上最年少の防衛大臣に対する傷害事件を担当することに。みちおは事件の背後にイージス艦の衝突事故が関係していることに気づくが、航海内容は全て国家機密のため調査は難航する。一方、イチケイでみちおと共に数々の事件を裁いた坂間千鶴は、裁判官の他職経験制度により、弁護士として働き始める。偶然にもみちおの隣町に配属された坂間は、人権派弁護士の月本信吾と組んで小さな事件にも全力で取り組んでいく。そんなある日、町を支える地元大企業に、ある疑惑が持ち上がる。』
映画.Com「イチケイのカラス」解説より)

で、結果から言うと、それなりに楽しめたけれども、満足できたとまではいかない、80点くらいの作品だったと言えようか。
これは、テレビシリーズを視ていないからということではないだろうし、作品としても、そうはならないように作られているのだから、そこが問題ではない。では、何が問題だったのだろう。

それはたぶん、「劇場版」ということで、話が大きくなり、しかも「権力の犯罪に立ち向かう」みたいな単純な話ではなく、かなりいろんな要素を詰め込んで、複雑な話にしたせいではないかと思う。
つまり、たいへん凝っており、よく頑張った作品だとは思うのだが、どこか消化不良感が残ってしまい、映画としての痛快さに欠けた感じになってしまっていたのである。

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【以下で、本作のネタを割りますので、未鑑賞の方はご注意ください】

本作で、何より感心したのは、ストーリーの捻りである。

前記のとおり、私はこの映画を「権力の犯罪に立ち向かう」物語だと思い込んで、それに期待していたし、予告編はそういうストーリーであることを示唆する作りになっていた。一一だが、本作は、そんなに単純なお話ではなかった

冒頭の海難事故の描写では、イージス艦とぶつかった民間の貨物船の内部で、すでに何か異変が起こっており、船員たちがバタバタと床に倒れていて、一人が息も絶え絶えながら、なんとか舵を取っていた。だが、最後は意識を失ったために、舵が切られてしまい、結果としてイージス艦にぶつかっていき、イージス艦に比べれば小さい貨物船だけが沈没した、というような描写になっている。

だが、これだと、イージス艦の方が被害者なのではないだろうか?
そんなわけで、「あれっ?」となってしまったのだが、実はこの物語で描かれるのは「権力の犯罪」ではなく、そこは「レッドへリング(陽動の餌)」だったのである。

つまり、本当の「犯罪」と「謎」は、むしろ「民間の貨物船」の方にあった。
防衛庁が本件事故について、イージス艦の「運行記録が失われて、残っていない」と誤魔化したことと、事故で死亡した貨物船船長の妻が「夫がそんな事故を起こすはずがない。イージス艦の方が何か隠しているはずだ」と訴え、防衛大臣に対する殺傷未遂事件を起こしたことなどから、私たちは現実の「森友問題に関わる、財務省の公文書改ざん事件」や「自衛隊の日報隠蔽問題」などを連想して、てっきり「権力の犯罪」かと疑わさせられるのだが、実はそうではなく、それがきっかけとなって物語が動き出し、地元大企業が絡む「公害事件」へと、話はずれ込んでいく。

物語の舞台となるのは、岡山県の海に面した地方都市なのだが、ここには「シキハマ株式会社」という巨大な化学プラントを持つ大企業があり、町はこの企業に依存するようなかたちで繁栄していた。だが、どうやらこの企業が「公害問題」を隠蔽しているらしいということになり、話は「企業の公害隠蔽問題」へとずれていく。

(企業犯罪に立ち向かう人権派弁護士を、斎藤工が好演)

当初はいかにも「悪の会社」みたいな感じなのだが、その謎を追っていくなかで最後に明らかになるのは、公害の被害者だと見えていた町の住民たちが「被害者」なのではなく、実は「住民こそが犯人であった」という、アガサ・クリスティ『オリエント急行殺人事件』ばりの真相に行き着くことになる。

つまり、「シキハマ株式会社」は、法令改正による規制に対応しきれないまま、有毒性廃棄物を生み出し続けていたのだが、その事実が露見すると、この会社が倒産することにもなりかねず、そうなると町自体がダメになってしまう。そこで、それを怖れた住民有志が中心になって「シキハマ」と結託し、その「有毒性廃棄物」の不法投棄などに協力し、町ぐるみで、その事実を隠蔽していたのだ。
ところが、その有毒廃棄物を運搬していた貨物船内で、有毒物が漏れ出して、それがイージス艦との衝突事故につながった、ということだったのである。

したがって、この物語の「容疑者」は、最初は「防衛庁(防衛大臣)」のように思われた(見せられていた)が、それが途中からは「公害企業」へとずれ込み、最後は「被害者」と思われていた「町の住民」こそが真犯人だった、というお話になっているのである。

(防衛大臣であるエリート政治家を、向井理が好演)

したがって、物語の作りとしては、「二転三転」と表現しても良さそうなものなのだが、しかし、この物語では「本格ミステリ」作品のような、あざやかな「どんでん返し」が仕組まれているというのではなく、いつの間にか「事件の構図がずれ込んでいく」という感じで、決して「わかりやすい」ものではない。
「あれっ?」「えっ?」とか思っているうちに、物語は予想だにしなかった悲劇に「行き着く」、という感じの作りなのである。

だから、どうしても映画としての「痛快さ」や「爽快さ」に欠けてしまう。
たしかに凝った作品なのだが、いささか無理のある作りであり、しかも、あえてその無理を犯すだけの「驚き」やその「痛快さ」に欠けて、「ためにする複雑さ」になってしまった感がぬぐえなかったのだ。

結局、この映画は、劇場版らしい「裁判における、法の正義」の問題を描くために、「大きな問題」を盛り込もうとして、無理をしすぎたのではないかと思う。

この作品に盛り込まれた「社会問題」は、「権力の犯罪」「大企業の犯罪」だけではなく、「住民エゴ」の問題さえ盛り込まれていたのだ。
これらは、いずれも、現実の裁判所では十分に対応しきれていない部分なのだが、この映画は、あえて、そこに踏み込んで見せたのである。

特に、最後の「住民エゴ」の問題のモデルとなっているのは、たぶん「水俣病」だ。

水俣病は、地元と切っても切れない関係にあった「チッソ株式会社」が、海に「有機水銀」をたれ流し続けたために引き起こされた公害病だが、この水俣病が発覚して大問題となっていくなかで、しかし、病気被害の当事者である漁民以外は、水俣病に関する「チッソ」の責任追及に対しては、必ずしも積極的ではなかった。住民の多くが経済的に依存し、その恩恵を被っている「チッソ」を攻撃するような行為を、決して歓迎したりはしなかったのである。(※ 作中のシキハマ株式会社が「シキハマ」とカタカナ書きである点に注意)

こうした、被害当事者以外の「住民感情」の問題というのは、あまり報じられないから、知られてもいない。けれどもこれは、「原発城下町」の問題などとも通じている、難問である。

民意における「脱原発」の反し、交付金をもらって原発を受け入れる町に対する、周辺地域の批判的な目。
しかし「それが無くては町がさびれて、生活が立ちいかなくなってしまう」という「止むに止まれぬ事情」があって、原発などという誰もが歓迎しないものを、あえて受け入れざるを得ない人たちが、現にいるのだ。それを、他の栄えた都市に住む者が、「住民エゴ」だと一方的に斬って捨てるのは難しい。
しかし、それを言えば、この映画の「犯罪」だって、本質的には大差のないものなのである。

こんな難問に、主人公を立ち向かわせたのだから、私は「その意気を壮」とするに吝かではないのだが、やはりエンタメとしては、いささか無理のある、重い重いテーマだったのではないかとも思う。

こんな難問に、誠実に対応しようというようなことは、それこそ入間のような「物語の中のヒーロー」以外には、なかなか困難だろう。
だが、その入間をしても、「法の範囲内において」という条件下では、結局は、捌き切れなかったが「やれることをやった」ということだったのではないだろうか。

本作で意識的に描かれた「パンドラの箱」。

ギリシャ神話で描かれるその物語では『絶対に開けてはいけないと言われていたその箱を、好奇心にかられてつい、開けてしまう彼女(※ パンドラ)。すると、中から疫病、犯罪、悲しみなどなど、ありとあらゆる災いが飛び出してきました。慌てたパンドラが箱を閉めた結果、箱の中には「希望」だけが残された』ということになっている(『』部は「コトバンク」より)。

しかし、本作では、決して『好奇心にかられてつい』その箱を開けたのではないし、その箱から飛び出してきたのは、必ずしも『疫病、犯罪、悲しみなどなど、ありとあらゆる災い』だけ、だったのではないと思う。

この物語においては、箱の中に取り残されることなく、「希望」もまた、飛び出していったのではないだろうか。


(2023年1月18日)

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