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クロード・シャブロル監督 『美しきセルジュ』 : 意外に褒めてもらえない「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品の裏事情

映画評:クロード・シャブロル監督『美しきセルジュ』(1957年・フランス映画)

本作はヌーヴェル・ヴァーグの発火点』と呼ばれる作品の「ひとつ」だということは、もうひとつの「発火点」作品である短編作品『王手飛車取り』ジャック・リヴェット監督)についてのレビューに書いておいた。

本作『美しきセルジュ』と、短編『王手飛車取り』の2作は、同じ監督の作品ではないにもかかわらず、どうして日本では抱き合わせでDVD化されているのかというと、それは両作が、それぞれの監督の作品としての意義よりも、フランスの映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』に集った若き映画評論家たちが、映画実作に移ることで巻き起こした、映画の革新運動たる「ヌーヴェル・ヴァーグ」の「発火点=起点」となる作品だった、という意義の方を重視した結果だったのだ。一一つまり、両作は、作品そのものの出来ではなく、その「映画史における歴史的な意義」において語られる作品であり、そのあたりの意味合いを理解できないまま、ただ単に「ヌーヴェル・ヴァーグ」という「看板の権威」に幻惑されている「見る目のない人たち」によって、「過大評価」されている作品なのだとも言えよう。

短編『王手飛車取り』の作品自体については、上のレビューで次のように評価しておいた。

『本作は、作品の内容や出来不出来にかかわりなく、「ヌーヴェル・ヴァーグの発火点となった作品」として「過大評価」される作品である。
(中略)
本作がどんな作品かというと、なにしろ30分弱の短編なので、深い中身があるわけではなく、言うなれば「不倫夫婦の騙し合いコント」といった、ごく軽い作品である(なお、同作のWikipediaによれば『ロアルド・ダールの短編小説「ビクスビイ夫人と大佐のコート」(1959年)との類似が指摘されている。』とのことである)。
つまり、フフッと笑って、それで満足して良いような、いかにもフランスらしい「小品の佳作」といったところであろうか。』

つまり、短編映画として、決して悪い作品ではないけれども、大騒ぎするほどの作品でもない佳作だ、ということである。
言い換えれば、同作が「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作品ではなかったら、間違いなく日本で見られることはなかったし、「シネフィル(映画マニア)」気取りの映画オタクたちに、大袈裟に絶賛されることもなかっただろう。

さて、ここからが本題なのだが、短編『王手飛車取り』と並べて「ヌーヴェル・ヴァーグの発火点」と称される本作・長編『美しきセルジュ』の方も、さぞや『王手飛車取り』と同様に、映画マニアたちから絶賛されているのかと思いきや、意外とそうでもない、のである(下のカスタマーレビュー参照)。

例えば、『王手飛車取り』は、英語版は無論「日本語版 Wikipedia」があるのに、長編である『美しきセルジュ』には「日本語版 Wikipedia」が無い。一一これは、どうしたことなのだろうか?

ひとつ考えられるのは、この2作は、もっぱら「映画史的な意味合い」において評価されている作品だから、長編ではあっても、所詮は「2番手」であった『美しきセルジュ』は、『大手飛車取り』ほどの「意義」を認めてもらえなかったと、そういうことなのかもしれない。

しかし、「2番手だから」という理由のみで、そんな「冷淡」と言って良いだろう反応を受けたと考えるのも、ちょっと無理があるようにも感じられる。
と言うのも、とにもかくにも『美しきセルジュ』は「ヌーヴェル・ヴァーグ、最初の長編作品」だ、という事実は揺るがないからだ。
普通であれば、良かれ悪しかれ「長編」の方が重視されるものだし、「2番手だったから」などというケチなことは言わず、「ヌーヴェル・ヴァーグ、最初の長編作品」についても「日本語版 Wikipedia」を立てる「ヌーヴェル・ヴァーグ」ファンのいる方が、むしろ当たり前でもあれば、自然なことなのではないだろうか?

ならば、本作『美しいセルジュ』が「日本語版 Wikipedia」を立ててもらえない理由は、「他にある」と考えるべきだろう。
そして、その理由の筆頭と考えるべきなのは、当然「作品そのものの出来」である。

つまり、「ヌーヴェル・ヴァーグ最初の長編作品」という「歴史的意義」は認めざるを得ないとしても、「ヌーヴェル・ヴァーグ」ファンとしても、『美しきセルジュ』は、作品そのものとしては、「ヌーヴェル・ヴァーグ、最初の長編」とは、あまり積極的には「認めたくない出来(完成度)」だった、ということなのではないだろうか。

そこで、具体的に本作『美しきセルジュ』を見てみよう。「あらすじ」は、次のようなものである。

『肺病の療養のために故郷の村に帰省したフランソワジャン=クロード・ブリアリ)は、幼なじみのセルジュジェラール・ブラン)と再会する。建築家志望だったセルジュは、恋人のイヴォンヌ(ミシェル・メリッツ)を妊娠させたため上京を断念したのだが、その最初の子供は死産。それもあって彼はアル中になり、二人目の子供を妊娠した妻に構わず、義妹マリーベルナデット・ラフォン)と関係を結んでいた。悲惨な生活から友を救おうとするフランソワだが、マリーに誘惑されたりとうまくいかない。カフェでのダンスパーティ。セルジュはマリーと踊り、イヴォンヌに同情したフランソワに怒り、彼を叩きのめす。それでも冬になっても村に残るフランソワ。吹雪の晩、イヴォンヌは産気づき、フランソワは医者を探した後、セルジュを連れ戻す。二人の耳に赤ん坊の声が聞こえた。』

映画.com『美しきセルジュ』・「ストーリー」全文)

要は、語り手の、比較的真面目な主人公フランソワが病気療養のために、ひさしぶりに故郷の田舎町に帰ってみると、子供の頃の親友で、その頃は未来に希望を持って生き生きと輝いていたセルジュが、人が変わったように、すっかりと落ちぶれた酔っ払いに変わっていた。

(左から、フランソワ、マリー、セルジュ)

それで、どうしてそうなったのかと調べてみると、もともとはモテ男のセルジュは、彼に気のあったイヴォンヌと軽い気持ちで関係を結んだところ「2回目」でイヴォンヌが妊娠してしまい、やむなく彼女と結婚した。ところが、生まれてきた子供は先天的な障害を持っており、泣き声を上げることもなく、生まれてすぐに死んでしまった。
少なくとも、生まれてくる子供は楽しみにしていたセルジュは、この事実に打ちのめされ、しかも医師からは、今後も健康な子供を作れる公算は低いとまで言われ、もう自分たち夫婦には子供が作れないのだと、決定的に悲観してしまったのだ。

(左から、セルジュ、マリー、イヴォンヌ、フランソワ)

しかし、結局、イヴォンヌは二人目を妊娠し、その子はきっと大丈夫だからと、セルジュの反対にもかかわらず産もうとするので、セルジュはもうあんなつらい思いをするのはごめんだと、妻イヴォンヌに辛く当たるだけではなく、仕事に差し障りが出るほどの酒浸りとなり、さらには、イヴォンヌの妹であるマリーとまで関係を結んでしまう。
こうした事情を知ったフランソワは、イヴォンヌに同情するとともに、セルジュを立ち直らせようとする。
だが、その一方、フランソワは、村はずれの一軒家でマリーと同居し、彼女を自分の実娘だと思い込んで、マリーに面倒を見てもらっている酔っ払いの老人とマリーとの不可解な関係に興味を持ち、マリーに接近した結果、マリーと関係を結んでしまい、セルジュとイヴォンヌを救いたいと思いながらも、面倒くさい「三角関係」(あるいは、結局はマリーに手を出した老人と、セルジュの妻イヴォンヌを加えれば「五角関係」)になってしまう。

(左が、マリーと同居している記憶障害のある老人)

だが、そんなドロドロな男女関係のもつれの中で、ついにイヴォンヌが産気づき、彼女のもとへ駆けつけたフランソワは、夜間であるにもかかわらず村の産科医を呼びに行き、「どうせ死産だ」とやる気のない医師をセルジュの家まで連れて行ってイヴォンヌを任せると、次は、出かけたままで帰ってこないセルジュを呼び戻しに行く。案の定セルジュは、酒場で酔っ払っていたので、フランソワは、降りしきる雪の中を、文字どおり力づくで、セルジュをイヴォンヌの待つ家まで、「引き摺って」帰り、「どうせ死産に決まっているのだから、家に入りたくない」と玄関口で駄々をこねるセルジュを、なんとか家の中に入れようとしている時に、赤ん坊の産声が聞こえてきて、セルジュの表情が見る見る明るくなる、というところで、この物語は幕を閉じるのである。
つまり、二人目の赤ちゃんは、健康体で元気に生まれたということであり、セルジュの絶望もこれで晴れ、元のセルジュに戻るだろうという「ハッピーエンド」なのだ。

(上が、ラストでのセルジュの表情)

しかしである、このストーリーを読めば、多くの人が「何が『美しきセルジュ』だよ! むしろ「情けなきセルジュ」じゃないか」と、そう思うのではないだろうか。
私はそう思ったし、そう思うのが「まともな人間の倫理観」だと思う。

こうした、内容に不似合いな『美しきセルジュ』(原題も同じ『LE BEAU SERGE』)というタイトルは、もしかすると「本来は、輝ける存在だったセルジュが、最後はその本来性を取り戻した(お話)」といったほどの意味合いなのかもしれないが、いずれにしろ、本作で描かれるセルジュは、決して美しくはない。
「悪人」ではないものの、「無責任」で「情けない」男だという評価は、客観的なものであろう。

もちろん、現実には、最初の子をそのようなかたちで失っていれば、絶望的な気分になるというのもわからない話ではないし、そういう人も「現実には」大勢いることだろう。しかしだ、初産の子を死産したことでつらい思いをしているのは、なにもセルジュだけではない。愛する人との初めての子を失ったイヴォンヌとて、それはまったく同じことなのだ。
それに、イヴォンヌの場合、憧れに人であったセルジュが自分と結婚したのは、「自分が妊娠したから、仕方なく」だということに勘づいているふうで、だからこそ、危険を冒してまで再度の出産を決意し、そんなイヴォンヌの決意に対するセルジュの冷たい態度にも、黙って堪えていたのだ。きっと彼女は、今度こそ健康な子供を授かることで、セルジュとの関係も修復できると、そう考えたのだろう。
だが、子供の有無にかかわりなく「ただ、妻として愛される」という希望が持てないというのは、なんと痛ましいことであろう。

しかしながら、セルジュは、イヴォンヌからそれほどまでに愛される価値のある男なのであろうか?
まあ、実際のところ、「本質的には身勝手なダメ男だけど、人間的には妙に魅力のある(女性にモテる)男」というのも、現に存在するし、そんな男に入れ込んで、自己犠牲的に自らを捧げる女性というのも、「現実に」存在するのというのは、確かな事実である。

だが、そんな現実を、現実にあるからと言って「曲もなく、そのまま、表面的になぞって描いただけ」では、映画表現として、本質的な部分が「欠けている」と言えるのではないだろうか。

映画作品というのは、あくまでも「作り物=フィクション=非現実」なのだから、「現実にあるものを、そのまま描けばよい」というものではない。「映画には、映画としての存立条件となる、現実にはない映画独自の内在的な論理」があると、そう考えて然るべきであろう。
平たく言えば、作品を見た者から「こんな意味不明な登場人物、ぜんぜんリアリティがない」と批判されて、「いや、こんな奴が現実にいたんだよ。あなたは、それを知らないからリアリティが無いなんて言うけど、彼の存在はリアルそのものなんだ」なんていう「言い訳」は、間抜けだということである。
無論、この「言い訳」が、なぜ「間抜け」なのかと言えば、「フィクションにおけるリアル」とは、「現実(リアル)そのもの」ではない、という基本中の基本がわかっていないからなのだ。

本作『美しきセルジュ』でシャブロル監督は、「リアルな人間」を描いて「リアリズム映画」を撮ったつもりだったのだろう。だが本作は、「リアリズム」の意味を解っていなかったがゆえの「失敗作」だった、ということである。
本作に即して言えば、そこでは「セルジュの絶望」が、ついに「説得力を持って描かれなかった」のだ。
だからこそ、タイトルにもなっている(主人公の一人)セルジュが、単なる「無責任で情けない男」にしか見えず、おのずと「なーにが『美しきセルジュ』だよ」ということにもなってしまった。その意味で、本作は「失敗作」だったのである。

(マリーも、典型的な「何を考えているのかよくわからない」ニンフエット

しかしながら、『王手飛車取り』のレビューにも書いたとおり、「ヌーヴェル・ヴァーグ」ファンというのは、そのおおかたが、作品自体を見ることなく、その「肩書き」をありがたがるような、凡庸な「アキメクラ」であり、だからこそ『王手飛車取り』のような「短編の佳品」を、大げさに褒め称えることもできたのだから、同様に、本作『美しきセルジュ』だって、意味もわからず「さすがはヌーヴェル・ヴァーグの発火点!」だなどと褒め称え、競って「日本語版 Wikipedia」を立てても良さそうなものなのに、それが存在しないのは、どうした理由からなのだろうか?

私にもその点が不可解だったのだが、映画紹介サイト「フィルマークス」に寄せられた、次のようなカスタマーレビューを読んで、これではないかと、ほとんど謎が解けてしまった。
そのカスタマーレビューとは、「ルサチマ」氏による、次のようなものである(全文)。

『バルトが若きシャブロルの才能を評価しつつも、物語の真理の描きこみ方を徹底的に批判した批評は学生時代に読んだあらゆる批評の中でもとりわけ刺激を与えてくれたものだったし、久しぶりに再読してその批評に込められた熱は未だ有効だと思えた。物事への寛大さを疑いつつ、映画の形式に回収されることなく、対象をどれだけ煮詰められるか。そこの視線を失った途端、描かれるものは制作の規模を問わずひたすら縮小してしまうし、最近の映画の乏しさはそこに由来してると思われる。』

もちろん、ここで肝心なのは『バルトが若きシャブロルの才能を評価しつつも、物語の真理の描きこみ方を徹底的に批判した』という部分だ。

ここでバルトの言う『物語の真理』とは、私の前述した、あるべき「映画のリアル」であり「映画の内在的な論理によって、昇華されたリアル」のことなのではないか。
つまり、「現実のリアル」の「力動」を映画の中に取り込むには、「映画の論理によって、その現実を解体再構築し、消化吸収する」ことが必要であり、ただ単に「表面的になぞる(真似る)」だけ(映画の形式に移すだけ)ではダメなのだが、本作『美しきセルジュ』では、バルトの言う『物語の真理』と「現実のリアル」とが安直に混同されたまま、『映画の形式』に回収されていたために、バルトは『物語の真理』が描けていないと、本作を批判したと、こういう話なのではないか。
もちろん、私はバルトの『美しきセルジュ』評を読んでいないので、バルトの「批判」がどのようなものであったのか、その正確なところは何も知らないが、当たり前に本作を見るならば、バルトは「当たり前の評価」を下しただけだと、そう考えるのが自然に思えるのだ。

ま、それはさておき、ここに登場する『バルト』とは、無論、記号論学者でありフランス現代思想を代表する思想家ロラン・バルトであるというのは、読書家にはいうまでもない話だ。
だが、バルトの名前を知っている「映画ファン」となると、映画評論まで読んでいる、かなりの「映画マニア」か、さもなければ、「ヌーヴェル・ヴァーグ」ファンに限られるだろう。

と言うのも、バルト自身が「映画ファン」であり「映画論」の著作があるため、映画評論まで読んでいるような「映画マニア」ならば、彼の名前くらいは知っているはずだからなのだが、では、どうして「ヌーヴェル・ヴァーグ」ファンも、バルトの名を知っているのかというと、フランスの思想家で「映画論」も書いたバルトは、じつは「ヌーヴェル・ヴァーグ」に近い位置にいた人だからである。

『 シネマテーク擁護委員会は、名誉会長にジャン・ルノワール、会長にアラン・レネ、副会長にアンリ・アルカンとピエール・カスト、事務局長にジャン=リュック・ゴダールとジャック・リヴェット、経理部長にフランソワ・トリュフォーとジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、そして事務局員にはジャン=ガブリエル・アルビココ、アレクサンドル・アストリュック、ロラン・バルト、ロベール・ベナユーン、クロード・ベリ、マグ・ボダール、ロベール・ブレッソン、フィリップ・ド・ブロカ、マルセル・カルネ、クロード・シャブロル、アンリ゠ジョルジュ・クルーゾー、クロード・ルルーシュ、クロード・モーリアック、ジャン・ルーシュ、ロジェ・ヴァディムらが名をつらねていた。四月二十二日にはパリでシネマテーク緊急理事会が開かれ、ラングロワのシネマテークへの復帰が認められたが、ただし、政府からの助成金が打ち切られてしまった。
 シネマテーク擁護委員会がカンヌに到着し、五月十八日、午前十一時、ジャン・コクトー・ホールのスクリーンのまえの壇上には、トリュフォーを中心に、ゴダール、ルルーシュ、ルイ・マル、アルビココらがならんですわり、超満員の記者席のなかにはロマン・ポランスキー、モニカ・ヴィッティ、シモーヌ・シニョレ、ロベール・アンリコ、クロード・ベリ、ミロシュ・フォルマン、ヤン・ニェメッツらの姿も見られた。コモリとフィエスキが最前列に陣取ってすわっていた。アンリ・ラングロワがこの記者会見に出るという噂もあったのだが、現われず、突如、フランソワ・トリュフォーが、一枚の紙きれを取りだし、つぎのような声明文というか、アピールを読みあげたのであった一一「フランス映画人合同はパリで映画三部会を結成した。われわれは全映画人にむかって、カンヌ映画祭を直ちに中断するよう呼びかける」。
 パリは革命に燃えあがっている、そんな非常時にカンヌでお祭り気分に浮かれているとは何事か、ブルジョワ映画祭を粉砕せよ、といったような意味のことがトリュフォーの口から、かなり激烈な調子で発せられた。これには度胆を抜かれたが、カンヌ映画祭中断騒ぎの渦中でトリュフォーは、終始、最も過激で、最も戦闘的であった。』
山田宏一友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』P445〜446)

年齢的に言えば、バルトは「1915年」生まれなので、アンドレ・バザンより3つ上、クロード・シャブロルとジャン=リュック・ゴダールより15も年上であり、言うなれば、映画マニアとしても、批評家としても、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の兄貴分に当たる人だったのである。そのため、「カイエ」派の「身内褒め」に加担することなく、忌憚なく作品を評価することもできたということなのだろう。

(ロラン・バルト)

したがって、そこそこ熱心な「ヌーヴェル・ヴァーグ」ファンはならば、バルトの評論を読んだことはなくても、バルトが本作『美しいセルジュ』を「批判した」という事実くらいなら知っているから、「ヌーヴェル・ヴァーグ」ファンらしいその「権威主義」からして、大思想家であるロラン・バルトの評価に反してまで、本作『美しきセルジュ』を褒めたり擁護したりする気にはならなかった、ということでなのであろう。

言い換えれば、ロラン・バルトが何者かも知らないような、薄い「ヌーヴェル・ヴァーグ」ファンだけが、本作『美しきセルジュ』を「ヌーヴェル・ヴァーグの発火点」作品として、その「権威主義」において、意味もわからずに派手に持ち上げる一方、もう少し事情に詳しい「ヌーヴェル・ヴァーグ」ファンは、無難に『美しきセルジュ』を褒めないでおいた、というようなことなのではないだろうか。

また、そうした事情のために、「ヌーヴェル・ヴァーグ」関連作品である本作『美しきセルジュ』について、「日本語版 Wikipedia」を立ち上げられるほどの「事情通」ならば、「事情通」であるからこそ、本作の「日本語版 Wikipedia」を立てれば、バルトの批判に触れないわけにはいかず、「ヌーヴェル・ヴァーグの最初の長編作品」である本作が「失敗作だった」ということを、無駄に世間に知らしめることになるので、「そこには、積極的には触れたくなかった」ということなのではないか。あえて「日本語版Wikipedia」を立てるような、「藪蛇」あるいは「寝た子を起こす」ようなことには、手を出さなかった、ということなのではないだろうか。

無論、これが「唯一の真実」だとまでは言わないが、そうであった蓋然性は十分に高いだろう。これが重要な要因の一つだったからこそ、『美しきセルジュ』は「ヌーヴェル・ヴァーグの最初の長編作品」であるにもかかわらず、「日本語版 Wikipedia」が立てられなかったのだと、そう考えることは十分に可能であろうと思う。

 ○ ○ ○

さて、以上が、「ヌーヴェル・ヴァーグの最初の長編作品『美しきセルジュ』には、どうして「日本語版Wikipedia」が立てられていないのか?」という「謎」についての、私の推理だが、本作『美しいセルジュ』の監督である、クロード・シャブロルについては、他にも面白い特徴がある。それは、彼が「探偵もの」が好きだったという事実である。

『1953年、初代編集長アンドレ・バザン時代の『カイエ・デュ・シネマ』誌で映画評を書き始める。このときのペンネームはシャルル・エテル (Charles Eitel) とジャン=イヴ・グート (Jean-Yves Goute) 名義。のちのヌーヴェル・ヴァーグの旗手たち、批評家時代のジャン=リュック・ゴダールジャック・リヴェット、兵役から帰ったばかりのフランソワ・トリュフォーらと出会う。当時、それと平行して『ミステール』誌に探偵小説を書き、20世紀フォックスのパリオフィスで宣伝アシスタントの仕事をしていた。
1956年、妻の祖母から相続した巨額の遺産で製作会社AJYMフィルムを設立してリヴェットの短編『王手飛車取り』を製作し、脚本をリヴェットと共同執筆したうえ、ゴダールやトリュフォー、リヴェットとともに出演する。ヴィルジニー・ヴィトリ、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズジャン=クロード・ブリアリが主演し、ジャン=マリー・ストローブが助監督であった同作は、シャブロルをはじめ彼らにとって初のプロフェッショナルな短編映画製作となった。
1957年、エリック・ロメールとの共著『ヒッチコック』が出版される。ヒッチコックはサスペンス主流のシャブロルの作品に大いに影響を与えている。』

(Wikipedia「クロード・シャブロル」

見てのとおり、シャブロル自身「探偵小説」を書いていた人だし、評論家としては、のちに「サスペンス(ミステリー)映画の巨匠」となるアルフレッド・ヒッチコッをこよなく愛して高く評価し、自身の実作においても、ヒッチコックの影響も受けていた(ヒッチコックは、シャブロルの31歳上で、言うなれば親世代)。

また、のちにフランソワ・トリュフォーがヒッチコックに接近して、その50時間にもおよぶインタビューをまとめた、ヒットコック研究の名著『映画術 ヒッチコック・トリュフォー』を刊行したというのも、「カイエ」派の中に、シャブロルという存在が、先にいたからだと考えていいだろう。

一般に「ヌーヴェル・ヴァーグ」というと、まずジャン=リュック・ゴダールがいて、次にトリュフォーがいるという印象が強く、そのため「ヌーヴェル・ヴァーグ」は、ゴダールのイメージに引きづられて「芸術性の高い映画(非エンタメ)」という印象が強い。

しかし、トリュフォーの場合は、ゴダールに「裏切り者」呼ばわりされるほど「ハリウッド的な娯楽映画資本」に日和った人だから、イギリスからアメリカに移って「サスペンスの巨匠」になったヒッチコックに接近するというのは、見やすい論理であるし、そもそも、「ヌーヴェル・ヴァーグ」というのは、シャブロルの存在が示しているように、決して「芸術至上主義」的な運動ではなかった。
「カイエ」派の先鋭な主張とは、あくまでも、当時のフランス映画界における「撮影所システムによる(無難な)巨匠主義」ではなく、「作家主義(作家の個性を第一と考える立場)」だったというだけなので、そこで言う作家性とは、ヒッチコック的な「エンタメ性」でも問題はなかったのである。
したがって、ゴダールがトリュフォーを批判したのも、「エンタメに走ったから」ということではなく、「巨大資本に寝返った(そのことで、作家性を犠牲にしてでも、安定して製作資金の得やすいエンタメ映画を選んだ)」ということが問題だったのだ。

そんなわけで、シャブロルが監督デビュー作である『美しきセルジュ』で、いわゆる「リアリズム」を目指しながら、それを高名な思想家でもあったロラン・バルトにダメ出しされ、晩年には、もともと好きだった「探偵もの」の映画を撮るようになったというシャブロルの「軌跡」も、注目すべきものなのである。

シャブロルのフィルモグラフィを見ると、私のわかる範囲だけでも、

『ふくろうの叫び』(「Le Cri du hibou」1987年)は、ヒッチコックが映画化した『見知らぬ乗客』や、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』の原作者で知られる、パトリシア・ハイスミスの原作作品だし、

『沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇』(「La Cérémonie」1995年)は、イギリスの推理作家ルース・レンデルの原作小説『ロウフィールド館の惨劇』を原作としたものである。

(角川文庫)

で、私が面白いと思うのは、もともと「探偵もの」が好きだったとは言え、デビュー作のリアリズム映画『美しきセルジュ』を、ロラン・バルトから「物語の真理」が描けていないとして批判されたシャブロルが、のちには、「リアリズム」とは「対極的」とまではいかないものの、ある種の「極端な(誇張された)心理」を描いた「サスペンスもの」を撮るようになった、という事実である。

つまり、私が以上のことから読み取るのは、シャブロルはもともと「深い(リアルな)人間心理」に興味があるのではなく、どちらかと言えば「偏った、極端な心理」に惹かれた人なのではなかったか、ということである。

ところで、シャブロルの「Wikipedia」もそうであったように、「映画マニア」の作る「ヌーヴェル・ヴァーグ」関係の「Wikipedia」や「紹介記事」などでは、よく「探偵もの」とか「探偵ものの映画」などという表現が使われるのだが、これは「ミステリマニア(推理小説マニア)」から言わせれば、たいへん誤解を招きやすい、不用意な「言葉遣い」である。

その典型的で分かりやすい例が、ジャン=リュック・ゴダールの作品『ゴダールの探偵』(邦題。当然のことながら、原題には「ゴダールの」は付かない)。
ゴダールのことをよく知らない日本人が、このタイトルを見たら、この映画を「ゴダールが撮った推理もので、名探偵が登場する」作品だと、勘違いすることだろう。

だが、ここで使われている「探偵(DETECTIVE)」とは、シャーロック・ホームズエルキュール・ポワロのような「名探偵」のことではなく、「刑事(捜査官)」のことなのだ。
昔は、「犯罪捜査をする警察官(刑事)」のことを「探偵」と呼んだのであり、それと比較して「超人的な知的能力を持つ探偵」のことを、プロアマを問わずに「名探偵」と呼んだのである(つまり、名探偵と比較すれば、探偵でしかない刑事は、凡探偵ということになるわけだ。もちろん、例外として、刑事の名探偵もいる)。

(シャーロック・ホームズは「名探偵」の象徴的存在)

したがって、「刑事である探偵」は、凡人らしく地道に「犯罪捜査」をするものであり、いわゆる「名探偵」のような「観察と推理」一本で勝負するような「知性派」であるとは限らない。聞き込みや取り調べなどに代表される現実的な捜査手法によって事件を解決するのが「刑事」なのだが、そんな「刑事」を描いた作品を、現在の日本の慣例に即して「刑事もの」と呼ぶことをせず、あえて今でも「探偵もの」と呼び続けることは、当然のことながら、そのアナクロニズムによって「誤解」を招くことにしかならないのだ。

だが、「映画ファン」というのは、そこまで「ミステリー小説(=ミステリ=推理小説=探偵小説)」に詳しいわけではないので、今でいう「刑事もの(警察もの)ミステリー」と「名探偵もの(本格ミステリ)」を、区別もなく一緒くたにして、古い呼称である「探偵もの」と呼んでしまっている。
そのために「えっ、ゴダールが名探偵ものを撮っているの? 意外だなあ」とか「えっ、リアリズム映画で監督デビューしたシャブロルが、後年には好んで(論理的な)推理ものを撮っているの? 意外だなあ」という「誤解」を招くことにもなるのだ。

だが、シャブロルの作品は『美しきセルジュ』しか見ていない私としては、彼がのちに撮った原作付き「ミステリー映画」が、パトリシア・ハイスミスやルース・レンデルの小説を原作とした作品だと知れば、さほど意外には思わない。
というのも、ハイスミスであれレンデルであれ、彼女たちの作品は、いわゆる「サスペンス」を基調としたものであって、いわゆる「謎の論理的な解明」を主軸とした「抽象指向」の「本格ミステリ」とは真逆な、「ベタな人間心理(極限心理)もの」だと言えるからである(つまり、いわゆる「純文学的な人間心理を、描いているわけではない」のであり、その点が、文学としては浅く、エンタメ寄りなのだ)。

そもそも、フランスという国は、不思議に「本格ミステリ」の「機械論的な抽象世界」に馴染まず、「心理サスペンス」に偏ってきた、特徴的なお国柄を持っており、「本格ミステリ」と言えば、「英米」で発展したというのが、推理小説史の通説となっている。

言い換えれば、「名探偵もの=本格ミステリ」が発展しなかったフランスであったからこそ、今でいう「刑事もの(警察もの)」まで、区別せずに「探偵もの」と呼び続けているのだが、それをそのまま「日本語」に移すというのは、今や明らかに「翻訳」として、不適切だと言えるのだ。
また、だからこそ、シャブロルの評価にも、そのための「誤解」が含まれがちなのであろう。

以上のような次第で、シャブロルは、リアリズム映画たる『美しきセルジュ』で監督デビューし、それをロラン・バルトに批判された後、後年には、もともと好きだった「探偵もの(実は、サスペンスもの)」を撮るようになった、というのは、一般に考えられるような「リアルから非リアルへ」なのではなく、もともと「非リアル」が好きだった人が「分かりやすい非リアル」作品としての「サスペンスもの」を撮るようになった、ということでしかないのである。

ヒッチコックの映画が端的にそうであるように、「サスペンスもの」が描く「異常心理(極限心理)」というものは、現実の「狂気・精神異常」とは大いに違っていて、サスペンスを盛り上げるために「極端な誇張」のなされた「非リアルな心理=フィクショナルな心理」でしかないのである。

したがって、シャブロルの『美しいセルジュ』が「人間心理をリアル描く」作品として失敗したのは、シャブロルが好きなのは(興味を持っていたのは)、前述のとおりで実は、「リアルな人間心理」などではなく、「フィクショナルに誇張された心理」でしかなかった、ということなのである。ただ、シャブロル自身はそのことに、十分に自覚的ではなかったのだ。

またそのため、『美しきセルジュ』では、セルジュをはじめとした、「いかにも(型どおり)な人物像」を描きはしたけれども、曇らぬ目を持つ名探偵であるロラン・バルトには、それが「似非リアルな人間像」に過ぎず、その「嘘っぱちに、説得力を持たせるまでには至っていない作品」だと、そう評価したということなのである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、本作『美しきセルジュ』は、有り体に言って「人間が描けていない失敗作」なのである。

しかしながら、本作『美しきセルジュ』の低評価において、真に問題とすべきは、この作品が「なぜ失敗作なのか」という理由もよくわからないまま「ロラン・バルトがそう評価しているのだから、まあ、そういうことなのだろう」というような「わかりやすい権威主義」において、本作を誉めず、しかし『王手飛車取り』の方は安心して盛大に誉めてみせる、「ヌーヴェル・ヴァーグ」ファンの「度し難い権威主義」なのである。

褒めるにしろ貶すにしろ、彼らにあるのは「どれをどう褒めれば、映画通だと思ってもらえるか」という自意識ばかりで、「作品そのものを虚心に見る」ということが、まったく出来ていないという現実こそが、問題とされるべきなのだ。

『王手飛車取り』のジャック・リヴェット監督が、『カイエ・デュ・シネマ』の三代目編集長であったのとは違い、シャブロルの方は『カイエ』誌の執筆者の一人にすぎなかったし、のちには「ヌーヴェル・ヴァーグ」の一人としては「異色」の「探偵ものを好んで撮る映画監督」になった人だから、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の権威にあやかりたい人たちにとっては、シャブロルは、言うなれば「重視する必要のない傍流」的な存在だったのではないか。

だが、シャブロルの『美しきセルジュ』が、「ヌーヴェル・ヴァーグ、最初の長編映画」だという歴史的事実は変えられないから、その存在を無視するわけにはいかなかったものの、しかし、かの「ロラン・バルトが批判した作品」なのだし、のちには「通俗サスペンスもの」に走った人だから、わざわざ『美しきセルジュ』の存在を重視する必要はないとそう考え、おのずと「日本語版 Wikipedia」を立てるという「余計な手間」を避けたのではないか。

このように考えるならば、少なくとも日本における、『美しきセルジュ』への扱いの冷たさの意味が理解できると思うのだが、それ以上の説明をなし得た、日本人「ヌーヴェル・ヴァーグ」ファンがいるのなら、ぜひご教示願いたいものである。



(2024年5月20日)

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