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新井紀子 『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』 : 文章が読めない人は〈カモ〉られる : 新井紀子批判

書評:新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)

なかなかショッキングなタイトルです。
「AI」は世間の注目が集まっている研究分野ですし、本書の後半では、ぐっと身近な「教科書が読めない子どもたち」の問題が取り上げられており、そこが多くの読者の危機感を煽り、その一方で共感を得る要因ともなっているようです。

これは何を意味するのか。
要は、自分自身は「教科書が読めない子ども」でも「文章を読めない大人」でもなく、ひたすら「基本的読解力のない人たち(他者)」の存在を「危惧する側の人間」だと思い込んでいる(思い込まされている)人たちが少なからずいて、そういう人たちが、本書に説得される、ということではないでしょうか。

しかし、「本書に説得される人」たちが、本当に「まともに文章が読めている」のかと言うと、私には大いに疑問です。
本書に即して、具体的に説明しましょう。

例えば、本書の前半は、「AIが人間を超えた知能を持つようになって、人間に反逆するようになるかもしれない」とか「シンギュラリティが間もなく訪れて、善かれ悪しかれ世の中がすっかり変わる」なんていう話で盛り上がっている学者がいるが、「そんなもんは訪れない」という、本書著者の議論です。
これは、世間が、AIに関する「派手な話題」で盛り上がっている今だからこそ、そうした意見に「逆張り」の批判をくわえる(冷や水を浴びせる)ことによって、目立っているだけで、言っていること自体は、ごく「常識的に平凡」なことでしかありません。

「AIが人間を越えた知能を持つようになって、人間に反逆するようになるかもしれない」とか「シンギュラリティが間もなく訪れて、世の中がすっかり変わる」なんて話は、SF小説や映画の中ではありふれていても、現実にはなかなか訪れそうにないからこそ、多くの人はそれに興味も持って、それを話題にしたがるだけであり、実際のところ、そんな事態が「明日にでも起こる」なんて考えている人はほとんどいませんし、ましてや学者においても同じことなのです。

学者が、殊更に「明るい未来」を語るのは、今の社会が「暗い」からでしょうし、学者が「暗い未来」を語るのは「今のうちに正しく対応しないと、酷いことになるよ」という警鐘の意味があるのでしょう。これは、それが良いものであれ、悪しきものであれ「シンギュラリティ」についても言えることです。

つまり、こうした「極端な未来」を語る学者は、そうしたものを文字どおりに信じているのではなく、「未来のために、いま考えて行動するべきことがある」ということを訴えるために、少々「派手な未来図」を描いて見せているというのが、大半の学者の現実なのです(「地球温暖化の脅威」なども同じでしょう)。

ところが、本書著者は、そうした学者たちを、上記のような「極端な未来図」を丸まま本気で信じている「頭のわるい狂信者」扱いにし、自身を「常識人」の立場において「そんなバカなことはありませんよ」と、一般読者向けに、自身の「堅実さ」や「誠実さ」をアピールしているだけなのです。
現に、本書著者の物言いは、次のような形式になっています。

「当面、あり得ない」
「このままでは、あり得ない」
「余程の事がないと、あり得ない」
「この定義からすれば、あり得ない」

つまり、著者は「いかなる意味でも、AIが人間の能力を超えることは、あり得ない」とか「いかなる意味でも、シンギュラリティは、到来しない」と断言している、わけではないのです。

「当面は」とか「このままで行けば」とか「余程の事がないかぎりは」とか「この(自分の)定義からすれば」とかいった、勝手な「条件」を一方的に付して、抜かりなく「アリバイ工作」をした上で、「それはあり得ない」と妙に威勢よく断言し、他の学者をバカ扱いにしているだけなのですね。
具体的に示すと、こんな具合です。

『 AIは神に代わって人類にユートピアをもたらすことないし、その能力が人智を超えて人類を滅ぼしたりすることはありません、当面は。』(P2)

『残念なことに、私の未来予想図はそうではありません。シンギュラリティは来ないし、AIが人間の仕事をすべて奪ってしまうような未来は来ません』(P3)

『 人工知能と言うからには、人間の一般的な知能とまったく同じとまでは言わなくても、それと同等レベルの能力のある知能でなければなりません。』(P12)

『 そのようなわけで、今後も、遠い未来はともかく、近未来に人工知能が誕生することはありません。』(P14)

287ページもある本書の冒頭部分だけでも、こんなふうに、著者独特の「姑息なレトリック」が目につくのですが、本書を読んで感心した読者というのは、きっとこういう「レトリック」の存在を「読みとれなかった」人たちなのでしょう。これが読み取れていたならば「こんなことなら、誰でも言える」と気づいたはずだからです。

著者が、本書前半の「AIを可能性をめぐる議論」で主張しているのは「当面は、SF映画みたいな世界にはならない」という、ただそれだけの話ですし、そうした「当たり前の話」を、自身の「経歴」や「肩書き」で、ことさら意味のあることのようにアピールしているに過ぎません。

こういう「当たり前」の主張というのは、当然のことながら、専門的な知識のない人の「俗耳に入りやすい」。
一般読者が漠然と感じている「不安」を、「専門家の権威」において否定することで「安心感」を与え、彼らに「専門的なことはわからないけど、私もだいたいそんなことだろうと思っていたんだよ」という「安直な共感」を持たせているのです。

そして、本書著者のこういう態度こそが、小説家・大西巨人が「俗情との結託」と呼んで批判したものの、典型です。

大した裏づけがなくても、多くの読者が期待し求めている「回答」を、専門家の権威だけで投げ与えて、「ウケ」に走る、偽善的な態度を「俗情との結託」と言います。

その意味では、本書が「ベストセラー」になったのも、ある意味では当然で、本書を持て囃した読者の大半は、他の科学者が書いた「AI=人工知能」や「シンギュラリティ」に関する本など、まともに読んだことがない人たちでしょうし、ましてそうしたジャンルの「専門書」など、手に取ったこともない人たちでしょう。
本書自体、その書かれ方からしても、典型的な「ビジネス書」であって、決して「専門書」ではありませんしね。

本書著者の、こうした「本質的不誠実さ」や「偽善」というのは、他にもいろいろあって、「文章が読める読者」なら、それを容易に見抜くことができます。
本書から読みとれる、著者の「表面的に糊塗された、本当の性格」とは、おおむね次のようにまとめられます。

(1)著者の文章は、主観的(感情的)であって、冷静さや公正さを欠いている。そのため、敵味方二元論的な書き方になっており、自分の協力者には賛美を惜しまず、立場を異にする人に対しては、さしたる根拠も示さずに平然と誹謗する。

(2)自分は「身の程を知った人間」であり「謙虚」である、また「善意」だけで本書を書いていると、臆面もなく書ける、下手なビジネスマンも顔負けの、厚顔さや図太さを持っている。

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(1)について証拠となるのは、次のような文章です。
(a,b,c)は、否定的に評価すべき相手についての記述。
(d,e)は、肯定すべき相手についての記述です。

(a)『 某新聞社の論説委員から経産省の官僚まで、なぜか(※ 誤答である)グルコースを選ぶので驚きましたが、正解は(1)のデンプンです。』(P204)

(b)『この事実を伝えたところ、とある新聞社の記者が「57%の正答率ではダメですか?」と聞いたのです。「100点満点で57点というのは、平均点としては悪くないのではないですか?」と。』(P206)

(c)『 実際に、一流企業の社会人の方、学校の先生、あるいは「読む」ことが仕事の編集者や記者の方に試しにしていただいても、意外に間違えたりします。そういう方たちは、読むのに自信があるので、最初は「教科書の書き方がよくない」とか「問題に曖昧性がある」とかさまざまな批判を口にします。』(P245)

見てのとおり、ここで否定的に言及されているのは、『新聞社の論説委員』『経産省の官僚』『新聞社の記者』『一流企業の社会人』『学校の先生』『編集者』『(※ 雑誌などの)記者』といった、一般に「知的エリート」とされている職業人です。
つまり、一般に「知的エリート」とは認められていない「一般の社会人」たちの「妬み嫉み」を買いやすい人たちであり、こういう人たちを扱き下ろすと、一般ウケしやすい。これが、「俗情との結託」の秘訣です。

そもそも、こういった「知的エリート」と見られる職業人たちが「簡単な読解力テストで誤答した」と言っても、そうした職業の人の「大半が誤答した」わけではなく、「誤答した人もいた」という話に過ぎませんし、どんな職業の人であれ「ピンからキリまでいる」のは当然で、キリの人がいたからと言って、その職業の人が「全体に無能だ」ということにもなりません。
また、「簡単な読解力テストで誤答した」人であっても、「すべて間違う」わけでもなければ、「つねに間違う」わけでもない。

それなのに、ある「失敗」を捉えて、これ見よがしに「この人たちだって、このとおり大したことはないんですよ」といった調子で、失敗を挙げつらって書くというのは、およそ感情先行であって冷静な記述ではないし、「公正な記述ではなく、恣意的な誇張の入った記述」だと言えるでしょう。

その一方で、

(d)『 なるほど。学校というところは、本当に大変な職場です。どこかの学校でいじめなどの不祥事があるたびに、全国一斉に「アンケート調査しろ」というようなお達しが下ります。調査調査の明け暮れです。中教審の委員の思いつきとしか思えない、プログラミング教育とかアクティブラーニングとかキャリア教育とか持続可能性社会教育とかを突っ込まれ、さらには小学生から英語教育。いい加減にしてくれ! と多くの先生たちは内心、思っていたのかもしれません。子どもたちが好きで教えるのが好きで教員になった彼らです。「教えたら、わかる」という手応えこそが最大のモチベーションになるのでしょう。』(P225〜226)

(e)『 現場の教員の方々は、それを皮膚感覚で感じておられます。私たちが実感しているRST(※ リーディングスキルテスト)は、文科省や教育委員会などがスケジュールを確保して上位下達で実施する学力調査ではありません。そのような調査に(※ 行事過密で忙しい)学校が協力することは、とても異例なのだそうです。(中略)東大や京大の教育学部でさえ、なかなか学校現場には調査依頼に協力してもらえないそうです。ところが、私たちのRSTにはわずか1年半の期間に、全国で100以上の学校や機関が協力してくださいました。奇跡だと言われました。協力していただけたのは、このテストで問おうとしていることが、現場の危機感を体現していたからだと思います。現場の教員や教育委員会の方々も、「生徒は本当に読めているのか」を知りたかったのです。』(P241〜242)

と、「現場の先生」をやたらに褒め讃えています。

これではまるで、『新聞社の論説委員』『経産省の官僚』『新聞社の記者』『一流企業の社会人』『学校の先生』『編集者』『(※ 雑誌などの)記者』あるいは『中教審の委員』はすべて、現場知らず、苦労知らずであり、一方「現場の先生」は、苦労ばかりしている、献身的な「聖人君子」であるかのような「書き方」です。

しかし、このような「ヨイショ」には、とうぜん「裏」がある。
その「裏」とは、「現場の先生」が、著者の事業である「RST」を採用してくれる、実質的な「顧客」だということです。古い言い方ですれば、商売人なら「お客様は神様」扱いにするものだ、ということでしょう。

一方(2)の部分ですが、著者は自身を、まるで「純粋無垢な学者バカ」であり、かつ「無私の聖人」であるかのように、自己賛美します。

(f)『私が科学者として肝に銘じていることがあります。それは、科学を過信せず、科学の限界に謙虚であることです。』(P158)

なるほど「正論」ではありますが、「正論」を口にするだけなら、詐欺師なども大いに得意です。
そもそも「謙虚」な人は、自分で自分を「謙虚」だなどとは語らないもので、このあたりでも、著者の「自分語り」は、極めてうさん臭いと言えるでしょう。

(g)『 コンピューターが数学の言葉だけを使って動いている限り、予見できる未来にシンギュラリティが来ることはありません。そう言うと、「夢がない」とか「ロマンがない」と批判されることがありますけど、来ないものは来ないと言うしかありません。
 数学者はロマンチストです。数百年かかっても解けない問題に平気で挑んだりします。数学者にとって、自分が生きているうちに問題が解けないことは当たり前のことです。だからこそ、数学者は自分のロマンのために他人の財布をあてにしたりしません。ロマンを追い求めるために、他人を巻き込むのは変ですから。』(P163)

『数学者は自分のロマンのために他人の財布をあてにしたりしません。』とのお言葉ですが、そんなことはないでしょう。

数学者だって、人間なんだから、好きなことだけをやって生きていければ、それに越したことはないという「欲望」を持っていますし、その場合、「他人の財布」を当てにするくらいのことは、当たり前にあるでしょう。

「数学者」の著者が、「数学者」をここまで「偶像化」するというのは、結局のところ「自己偶像化」であり「自己賛美」以外の何ものでもありません。

(h)『 もし、今回の本を「数学者が考案! 世界初のAIに基づく読解力向上法」と銘打って、「こういうドリルにすれば、こういうことをすれば、あなたの読解力は劇的に向上します」というものにしたならば、とても売れるに違いありません。ドリルを作ってタイアップで売ったら何億円も儲けられたかもしれません。
 でも、ごめんなさい。私はそんなことはしません。科学的に検証されてもいないことを「処方箋」として出版するほど倫理観は欠如していません。』(P244)

もし、ここで仮定しているようなタイトルで本書を出していても、決して『何億円も儲けられ』はしなかったでしょうね。だって、いかにも「金儲け目的」なのが、正直に見え見えだからです。

しかし、実際には、露骨に「金儲け目的」を表には出さす、一見したところ「警世の書」であるかのようにしたからこそ、本書はベストセラーになり得たのではないでしょうか。

ちなみに、本書著者の「性格」である「韜晦的な自己賛美」が、最もよく現れているのが、「ことのついで」を装って書かれた、次の文章です。

(i)『 ところで、私自身の話で恐縮ですが、読書は苦手なほうです。大学時代から、多くても年間5冊くらいしか本は読めません。活字を読むのは好きなのですが、そんなに早く読めないのです。でも、自分でない赤の他人が何年もかけて書いた本を理解するためには、著者が書くのに要した時間の倍はかかって当たり前だと思いませんか? 数学の本や哲学書を1年に3冊以上きちんと読める人は本当にすごいなと思います。デカルトの『方法序説』は大変薄い本ですが、大学時代から20回は読んで、自分の科学的方法のほとんどをそこから学びましたが、それでもまだわからない部分があります。
 もしかすると、多読ではなくて、精読、深読に、なんらかのヒントがあるのかも。そんな予感めいたものを感じています。』(P246)

著者はここで「私は読書家ではありません」と「謙遜」しているのではありません。
そうではなく、「私こそが、本当の読書家である」と「自慢」しているだけです。

彼女が言いたいのは「私みたいにちゃんと読んでいたら、そんなにたくさん読めるわけがないのだから、たくさん本を読んでいるという人は、いい加減な読み方しかしていないと理解すべきだ。世に言う読書家なんて、そんなもんでしかない」という、他者批判であり、謙虚さの欠片もない「自己正当化」なのです。

ちなみに「多読家」として言わせてもらえば、私は読んだ本を頭から最期まで完璧に理解したなどとは思っていません。特に、本書著者のいう学術書でそれをやろうとしたら、書くのにかかった時間の「倍」どころか、「一生」をその本に捧げる「研究者」にでもならなければならないかもしれません。歴史的名著の研究者というのは、そういうことをやっている人たちなのです。
だから、「倍」とか「3倍」だとか「20回」読んだからなどというのは、自己満足に過ぎません。もちろん、より多く読んだ方が良いのですが、問題は、かけた時間や回数では測れない、ということです。

また、本というのは、なにも「完璧に読まなければならない」というものではありません。
そもそも、どこまで読めば「完璧」なのかという、基準も答もありません。だから、300ページの本を通読して、本当に腑に落ちたのが「たった1行」であっても、その読書は無駄ではないし、間違いでもない。例えば、そういう読書でも、300冊読めば、300行の確実な理解と知恵が身につくのだと考えて、どんどん読んでいくという読書法もあります(これが、私の読書法です)。

それに、1冊に固執して、それに徹底的に時間をかけて読むというのは、それはそれで深い知見を得られるでしょうが、下手をすれば「偏頗なものの見方」に染まる怖れだってあります。
それに対し、広く浅くの読書は、「専門的な深さ」は得られなくても、当然「多様な視点」を身につけやすいし、その「多様な視点が響き合って、深い真理にいたる」ことだって、珍しい話ではありません。

事実、名著古典を研究している研究者だって、その本だけを繰り返し読むのではなく、その本を書いた著者が読んだ本にまで遡って読むし、著者の同時代の文献図書も読むし、自分と同じテーマを研究をしている他の研究者の本も読みますし、参考とするために他ジャンルの本も読みます。つまり、けっこういろいろたくさん読むものなのです。

だから、本書著者のように、自分が「年間3冊しか読まない」のは、『精読、深読』しているからだ、などという「自己正当化」は、いかにも虚しいものでしかありません。

言うまでもなく、「たくさん読んでいない」ということと「精読、深読している」ということは、イコールではありません。また、本人が「精読、深読している」と言うことと、実際に「精読、深読できている」ということも、同じではありません。一一それは所詮「自己申告」でしかありませんから。

私が思うに、本書著者が、もっと若い頃に、「数学書や哲学書」ばかりを少しだけ読むのではなく、「文学書」などにも手を広げて読んでいたならば、こんなに簡単に見透かされるような「糊塗された自己賛美」の言葉(つまり「薄っぺらいレトリック」)など、恥ずかしくて書けない、というくらいの「知恵」はついていたと思います。
本書著者のこうした「弱点」は、それだけが原因ではないにしろ、「幅の狭い読書」しかして来なかった「偏頗さ」のせいなのかも知れません。

ちなみに、本書における、著者の「本音」は、次の部分に明らかでしょう。

(j)『 この事実を見ないふりをして、今のまま突き進むと、日本の企業の利潤率はさらに下がり、生産効率は上がらず、非正規雇用労働者が増え、格差が拡大し、一世帯あたり収入の中央値 一一 平均値ではなく中央値です 一一 は下がり続けます。そして、日本を代表する企業が一つ、また一つと消えていきます。』(P270)

(k)『 私は、2017年7月、RSTを提供するための社団法人「教育のための科学研究所」を起業しました。リーディングスキルテストで中高校生の読解力を診断する体制を作るのが第一の理由です。さらに、入試が多様化した大学において入学後の授業についていけるかどうかをチェックする手段として、また、十分に読解力がある人材を企業が採用するための手段として活用していただくことも目標です。そして起業したなによりの理由は、多くの人が、そのことに困っていることを知ったからです。』(P280〜281)

要は、(j)で脅しつけ、(k)で「私は個人的な欲で言うのではありません」と言い訳をした上で、「私の事業に投資してください」と訴えているわけです。

このような著者の「タテマエ」を、字面のままに真に受ける人は、最初に書いたとおり「文章が読めない人」だと評されても、仕方ないのではないでしょうか。

初出:2020年8月7日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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