見出し画像

岩内章太郎 『新しい哲学の教科書 現代実存論入門』 : およそ〈メランコリー〉に無縁な私でも

書評:岩内章太郎『新しい哲学の教科書 現代実存論入門』(講談社選書メチエ)

予想に反し、単なる「勉強」には終らず、とても面白く読めた。
本書中盤まで感じつづけていた「違和感」が、終盤において主題化されていたおり、それがとても腑に落ちたからである。

もとより私は、哲学者でもなければ哲学の研究者でもないただの読書家で、「哲学」とは、広汎な興味の対象の一つでしかなく、「最先端の社会問題」や「最先端のアニメ」と同様に、いま流行っている「最先端の哲学」とはどんなものなのか、「教科書」と書いてあるから私にも読めそうだと、それくらいの気持ちで読んだだけである。
その結果、意外にも「共感できる内容」だったので、楽しむことができたのだ。

本書中盤まで感じつづけた「違和感」とは、本書で紹介される「新しい実存論」哲学が、現代社会に蔓延する「ニヒリズム」や「メランコリー」という問題に対峙するものとして、言わば必要にかられて生み出されたものだという説明に対し、「なるほど今の世の中の閉塞感からすれば、ニヒリズムやメランコリーが蔓延するだろうし、事実しているだろう。ニヒリズムの相対主義は、思考放棄と独善を後押しして、ネトウヨみたいなのを生み出しているし、メランコリーはそうしたものへの抵抗の意志を失わせているだろう」などと納得しながらも、しかし私自身については「ニヒリズムやメランコリー」が実感できないところに、こうした説明の物足りなさを感じたのである。

無論、私とて現代社会に生きているのだから、「ニヒリズムやメランコリー」と無縁であるわけがないはずだ。にもかかわらず、それがまったく感じられないというのは、それがよほど沈潜して見えなくなっているからなのだろうかと、自身に疑問を感じながら、本書を読み進めていったのである。

 ○ ○ ○

本書で紹介される哲学者で、私が惹かれたのは、メイヤスーとガブリエル・マルクスである。

私はもともと、「宗教批判」のために、わざわざ「キリスト教」の研究を始め、神学書まで読んでいるような暇人なのだが、私がこのような酔狂なことを始めたのは、子供の頃、親と一緒に創価学会に入会し、わりと真面目にやったわりには、まったく「信仰的確信(回心)」が持てないまま、最後はイラク戦争がきっかけて、自覚的に創価学会を辞めた、という経歴の人間だからである。

つまり、信じたくても信じられなかったものとしての「宗教」(持ちたくても持てなかった「信仰」)を、最終的には「願望充足的フィクション」でしかないと考えるようになって、自分なりに「宗教」に片をつけたいと思ったのだが、しかし信仰を持つ一流の知識人が大勢いるという現実がある以上は、まず「宗教」というものをしっかり勉強しないことには、まともな批判などできない、とそう考えて、典型的な宗教として「キリスト教」の研究を始めたのである。

このように、私の中にはもともと「信じたい気持ち(高さを求める気持ち)」と「それを実感できない感性」という、困った「矛盾」が同居したので、私は「宗教」に「高さを求める気持ち」をきっぱりと否定して、別の方向に「高さ」を求めようと考えたわけなのだ。
だが、理屈ではそうであっても、どこかで「絶対的な正しい存在」がいたらいいな、という感情は消えなかった。そこで私は、新しい方向(「美意識に基づく倫理」など)の模索とは別に、「私の神」を創作することにした。

私が創作した「神」とは、「この世界とは別の世界に存在して、この世界を遠くで見守りつづけている、慈悲深くはあるが、無力な神」というものである。そういう「設定」にしたのだ。

こうすれば、「私の神」は「不在の神」であるから、私の「無神論」に抵触しない。それに、なにしろ私が自覚的に創作した「フィクション」であり、そのことは誰よりも私自身がよく知っているのだから、これは「心理的矛盾」にもならない。
つまり、私のこの「不在で無力な神」というアイデアは、「神などいないという現実認識」と「神がいてくれると安心という感情」を、うまく調停両立させてくれるものだったのである。

当然「そんな、作り物だとわかっている神になんて、効能はないだろう」と言う人もいようが、そんなことはない。自覚された「フィクションの神」は、充分に機能する。

たとえば、子供は、自分がいじめられたり嫌な目にあった時に「でも、ボクが大好きな仮面ライダーに賭けて、ここで泣いちゃいけない」と考えることもあるだろう。女の子なら「プリキュア」でもいい。
この場合、彼や彼女は、仮面ライダーやプリキュアが実在すると思っていなくても、そうした「思い」は、たしかに励まし(力)になるのである。彼や彼女は、仮面ライダーやプリキュアは、テレビの中だけの「虚構の存在」であり、決して助けに来てくれるわけではないと知っていても、「仮面ライダーが、ボクを見ている」「プリキュアに恥じない、強さが欲しい」と思うことはできるのだ。
だから、私の「不在の無力な神」も、フィクションではあれ、頭の中でその慈悲に満ちた姿を思い浮かべることができるかぎり、ちゃんと現実に機能するのである。

そして、こんな人間だからこそ、私はメイヤスーが「高み」を求める気持ちはよくわかるし、事実、人類の歴史において、多くの人はそういう「高み」に救いを求めたのである。

ただ、メイヤスーの非凡なところは、それを哲学的にでっち上げようとしたところだろう。論理的に、それを成立させようとしたところが、いい加減に「実用性」だけで間に合わせた私とはちがい、さすがは「哲学者」だったのである。

一一だが、正直に言えば、メイヤスーのでっち上げた「いずれ訪れるであろう、今は不在の神」というのは、なまじ「フィクションではない」としている点で、かえって「信じがたい」のである。
理屈としてはよく出来てると思うものの、いかにも「作り物くささ」ぷんぷんで、誰もこんなもの信じられないだろうと思うし、実用性ということなら、(哲学的には不誠実でも)私の「不在の無力な神(という自覚的フィクション)」の方が、よほど上出来だと感じられたのである。

そして、そうした「実用性のリアリズム」という点では、マルクス・ガブリエルの「新しい実在論という現実主義」の方が、メイヤスーのそれよりも、よほど納得のいくものだった。
たしかに「存在というものは、一つの意味に還元されるものではなく、しかし、そこに必然的に含まれる誤認は、不断に是正していけるし、そうしていくべきものであって、決して、すべての見解が同価値という相対主義に終わるものではない」といった考え方は、絶対主義の暴力にも相対主義の陥穽にも陥らない抜け道として、うまく出来ているなあと感心させられた。

ただし、私は、マルクス・ガブリエルのような誠実な哲学者ではないし、その能力もない。それにある意味では、彼以上に「楽観的」な人間なので、「無駄に突き詰めるのは、よろしくない」という助言には、承服しかねるところがある。
本書著者のような「哲学的誠実性」からの不満や懸念からではなく、「突き詰めた方が、面白いでしょう」という「趣味の哲学」という立場からの不満である。

私のような中途半端な人間からすれば、面白ければ突き詰めたいところまで突き詰めたいし、飽きれば、その段階ですべて放り出してもかまわない。そもそも、突き詰めることに(他者に対する)責任など負ってはおらず、あくまでもそれが「楽しい」からやっているという「趣味人」の立場での選択的行動なのだ。

このように、私の根本にあるのは、きっと「好きなことを、楽しむために生きる」ということなのだろう。私はそのために、結婚もしなければ子供も作らないことを、意識的に選択した人間である。
言い変えれば「担い切れそうもない責任は(なるべく)担わない」という生き方をしてきた人間だからこそ、「メランコリー」には、ほとんど縁が無かったのではないだろうか。

実際、私は「退屈」ということを、ほとんど知らない。
私の趣味は読書なのだが、その根底には「一切智の夢」がある。無論、能力と時間の制約はあるのだが、それでもその気持ちはいささかも揺るがない。
時間のあるかぎり、あの本もこの本も読みたいので、退屈している暇など1分もない。
よく会社の同僚たちは「たまに休みが続くと、やることがなくて困るから、出勤してた方が、かえって気が楽だ」なんてことを言うが、そんなとき私は決まって「安く売ってくれるんなら、有給休暇を買い取ってあげたいくらいだよ。よく、みんなは1週間も休みがあったら、間が持たないなんて言うけど、給料がもらえるのなら、私は半年や1年遊んだって、ぜんぜん平気だと断言する。やりたいことはいくらでもあるし、一つのことに飽きても、別の遊びはいくらでもある。読書に飽きたら、DVDが見たいし、プラモも作りたい。家にいることに飽きたら、旅行でも古本屋めぐりでも、医者に奨められている懸案の軽運動でもする。絶対に、やることが無いなんてことにはならない」と、こう確信を持って力説するのである。

そんなわけで、私が本書終盤にいたるまで感じつづけていた違和感である「私個人は、ニヒリズムやメランコリーとは無縁な感じなのだがなあ…」という引っかかりも、結局は私個人の性格に由来する特異性だというのが、最終的には納得できてスッキリした。
なにしろ、マルクス・ガブリエルだって、そういうものには捕われないで、それに対抗しているんだから、みんながみんな「ニヒリズムやメランコリー」に捕われるなどと、必要以上に真面目に考える必要などなかったのである。

つまり「私は、結構うまくやっている」と、そう腑に落ちて、本書を楽しく読み終えることができた。
大した問題意識など持ち合わせていないが、私は私なりに「私の哲学」をしてたんじゃないかな、とそう思えたのだ。
そして、本書で紹介された「現代実存論哲学」は、近寄りがたい「難しい学問」などではなく、「日常的な思考」の一部なんだと、そんな親近感まで持てたのである。

初出:2020年6月28日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○













 ○ ○ ○


この記事が参加している募集

読書感想文