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障害者ができる「健常者への合理的配慮」

精神障害を10年もやっていると、人を目の前にした時の関わり方や、仕事の仕方って難しいなと、病気になる前の頃より強く思います。
病気を抱えてるから、それなりに自分の体や心に配慮しなくちゃいけなくて、でも周りとの協調性も大切にして過ごさなければならないからです。
これは仕事に限らず、家庭や友人関係とも同じことです。

精神障害になりたての頃、わたしは人との距離感がわからない時期がありました。
今思えば、なんでこんな距離の取り方をしたんだろうと思うこともすごくたくさんあって、でもそれは自分がどこかのコミュニティに属していないと不安だったからかもしれません。
その時は仕事もしていなかったので、尚更そうだったんでしょう。
今約10年(正確には9年)経ちましたが、人との関わりはその時とは違う意味で難しくなりつつあります。

10年前初めに保育士を辞めてから、いろいろな仕事を転々として、もう5回ほど仕事を辞めてきましたが、どれも「体調が悪くなってフェードアウト」みたいな状況で辞めていました。
それって自分にとっては「仕方のないこと」なんだけど、会社側にとったら言ってしまえば正直結構迷惑な話で、雇ってるから現実問題それなりにお金も出してるし、急にいなくなられると任せていた仕事の次の人への引き継ぎもできません。

最近のわたしの思考テーマとして、「障害者の自分のあり方について」があります。
例えば仕事で言えば、仕事で雇われるということは、それなりに成果を上げなくちゃいけなくて、それの上で「わたしは障害があるから」というのは理由にならないのです。
みんなそれなりに会社の、そして社会の発展のために働いていて、それにおいて全力投球している人もいるでしょう。
家庭や友人関係の場合は、極端な話家族を物理的や精神的に傷つけて、「わたし病気だから許して」というわけにはいかない。

この社会で生きるには、「障害を持った自分」を切り離さなければならない瞬間がいくつもあります。
もちろん「障害を持ってるから配慮されなければならない」という場面もあり、そこのボーダーラインはかなり難しいところですが、病気や障害がない人にも言えるように、障害を持つ人も、自分自分、にならないように気をつけなければならないなあ、というのを最近とても強く感じました

詳しい例を挙げると、わたしは突然発作を起こします。
いつ起こるかわからないので、いつも薬を持ち歩いています。
発作を起こすと手が震えたり、口が回らなくなったり、声が出なくなったり、体全体が痙攣して立っていられない状態になります。
例えば自分が疲れたな、ちょっとゆっくりしたいな、というときに家から離れて好きなお店や図書館に行って、そこで倒れてその場所の人に迷惑をかけたら、相手も自分も嫌な気持ちになってしまいます。
その場所の人はわたしが倒れたことで極端で冷たい話ですが仕事が進まないし、もっとわかりやすい話で言えば薬や詳しい対応についてわからないことがほとんどです。
わたしもそんなふうに人に迷惑をかけて、気持ちは良くありません。

疲れた状態で、でも行きたいからと友人と遊びに行ったとして、その場で発作を起こしてしまったら、その時間は台無しになるし、友達に迷惑をかけるし、自分はしんどいし、いいことがない。
だから「疲れているな」と自分で自覚している時は、いくら外に出たくても、人に会いたくても、我慢する勇気も必要だと思いました。

例には挙げなかったけど、仕事だったらどうなるか、想像するのは容易いことです。
そんな時、障害があるかどうか以前に、自分の自制心や、周りの人への配慮ができているかがかなり大きくなってきます。
会社は自分のしたいことをする場所ではないように、障害があるから許されることには限度があるし、障害を言い訳にしてはいけない場面もたくさんあるんですよね。

障害を持つ人が自分自分になることで周りが困ってしまうことってとても多いと思います。
周りはフォローしたくてもしきれないとか、自分のことで手一杯だとか、正直なところそんな感じじゃないかな。
よく「インドでは迷惑はかけちゃいけないものじゃないって言うよね」という理論を聞いたりもしますが、それはそれなりの環境下での話だってことは、わたしもこの数週間で気がついたことです。
周りも同じ考え方で100%の理解があり、心の余裕がお互いにあり、自分が何をしても大丈夫な環境ならそれは迷惑をかけてもいいのかもしれませんが、実際仕事社会の日本では残念ながらそれはまかり通らないのが現実なのです。
みんなそれなりに自分の抱える問題がある中で、「障害だから許してもらえる」と自分本位になってしまって協調性のない当事者が出てくると、どうフォローしていいのかわからない上にその人に対して抱きたくもない嫌悪感も出てきます。
わたしも実際健康に暮らしていた時に感じていたことがあるので、それもよくわかる。

だからって100%自立しろってことじゃなくて、自分が自立できて、周りの気持ちを考えられるにはどうしたらいいのかを、障害当事者もまた考えなければならないと思います。
なんでも許される訳ではなく、障害当事者に余裕がないのと同じで、許されるほどの余裕は周りの人にはないのです。
みんな楽しいと思ってしていても、仕事にはそれなりに追われるし、生活のこともあるから、協調性や相手のことを思いやる気持ちは障害当事者だから放棄していいものでもありません。

じゃあ障害当事者はどう過ごしていけばいいの?

でもこう考えると、障害を持った人っていわゆるフツウの人より何倍も苦しんでるのに肩身狭くない?って苦しくなりますよね。
だからある程度、「周りと同じ水準の苦労」で生きられるような環境整備もとても大切なことだと思います。
自分の体調に合わせて働けるよう一緒に考えてくれる職場を探すことも、先述した外に出るのを控えることだって、障害当事者が周りのために、そして自分のためにできる配慮だと思います。

先日、合理的配慮について記事を書きましたが、合理的配慮は「健常の人や雇い主が一方的にするもの」ではなく、「障害当事者も健常者の立場を考えた上で考慮されるべき事項」だとも思っています。
バリアフリーだったり、優先席だったり、ヘルプマークだったり、障害を持つ人が何を言わずとも健常の人の想像力だけでできたものもあるかもしれません。
スロープを上るのに車椅子を押してもらったりするのも合理的配慮と言えるので、社会的には迷惑をかけてもいい場面もあるのですが、それに対して「ありがとう」と一言相手の立場に立って言えるのも障害当事者です。

結局人と人は、障害だろうが健常だろうが、相手の立場に立ったり、「ここは仕事だから」「ここは家庭だから」「自分はこんな立場だから」と割り切って生活するのもこの国では必要なことなんだなあと強く感じました。
良かれ悪かれ、目の前に、画面の向こうに、人がいることを私たち障害当事者もいつも忘れてはいけないことなのです。


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