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ウェルビーイングと特別扱いのちがいについて

あなたは障害者に対して「あの人特別扱いされてるな」と感じたり、当事者の場合、「自分は特別扱いされてる気がするな」と感じたことはありますか?

「特別扱い」とは、その人に対して他の人とは違う何か特別な態度や対応をとることを指します。

わたしは障害者に対する「特別扱い」とされるものは、ほんとうに特別扱いとされるものと、そうではないものがあると思っています。

世の中には「平等」と「公平」という言葉があり、そこには小さな違いがあります。
平等は、背が大きい人も小さい人もみんなが同じ台に乗って、塀の向こうの景色を見ることで、公平とはそれぞれの身長に合わせた台を用意すること、つまり現在言われているウェルビーイングです。

わたし自身の体験からして、特別扱いといわれるものには2種類あると思っていて、それは平等に反するマイナスな特別扱いと、公平に沿ったプラスな特別扱いです。

マイナスな特別扱いって、例えば授業中に知的障害を持った子が寝ていても教師が「この子は仕方ないから」と起こさないとか、あの子は勉強しなくていいとか仕事しなくていいとか、結構想像しやすいですよね。

でもプラスの特別扱いってなんなんでしょう?
プラスの特別扱いはわたしはもはや「特別扱い」ではなく、「支援」とか「福祉」だと思います。

体調が悪くなりやすい人のための優先席。
ヘルプマークやバリアフリー。
仕事で休憩を多めに入れることもそうだし、声かけひとつも支援や福祉につながります。

しかしこれはわかりやすく障害者、という障害者のためのものになりつつあるというか、見えない障害の人にとっては窮屈な理論になっているとわたしは感じています。

わたしは車椅子を使う精神障害者なので、車椅子の自分、精神障害者の自分とこれまた2種類の自分がいます。
車椅子だとみんなが屈んで話してくれたり(実際立っててもどっちでも大丈夫なんですが)、車椅子を押してくれたりします。
しかし車椅子をおりて精神障害者の自分になると、「だれも答えがわからないもの」になってしまって、急に支援の手が引いて行きます。
だから乗ってるとかそういうことじゃないんですが、精神障害で車椅子に乗っていると車椅子の面や体のことだけがカバーされて、精神面はほぼカバーされません。

精神障害者当事者の中には、少し嫌な言い方ですが、「黙っていれば健常者同然」という人もいるでしょう。
そういう人たちがいざ支援という名の特別扱いを必要とする時、周りの健常者がどう動くか、どう支援するか考えようとするかしないか、病気を知ろうとするかしないか、とても大事な鍵になってきます。

わたしは入院中、「わざとそうやってるあなただけ特別扱いってわけにいかないのよ」と発作を起こしても放置され、「ここは看護師と患者が協力する場所だから」と嘔吐物を自分で処理させられていました。
発作はわざとではないし、そもそも入院患者が看護師と協力するという概念がおかしいのでこれはかなり極端な例ですが、その看護師は「知ろうとする」という姿勢がないうえに「わからないから」と匙を投げて、わたしにすべての生活の自立を委ねたのです。

令和6年4月1日から障害者への合理的配慮が義務化されますが、企業をはじめ家族や友人に当事者がいるという人も、戸惑っている人はとても多いと思います。
合理的配慮してね、とポンと言われてもぽかんとしてしまうのは当然のことですので、それ自体は恥じることでも責められることでもなんでもないのです。

しかし、「それって特別扱いじゃないの?」と考えることは少し違います。
100%の配慮ができなくても、どうすれば障害者に配慮できるのか考えることはできますし、当事者側からも「こんなことで配慮してほしい」と支援側に発信することも大切なことです。

障害をもつひとが会社でよりよく働く。
学校でよりよく勉強する。
その上で、支援という名の特別扱いは必要だと、当事者目線でとても強く感じます。

「あなただけ特別扱いってわけにいかない」
この言葉を今までに幾度となく聞いてきたし、これからも聞くかもしれない。
わたしも人に言ってしまうかもしれない。
でも、それが本当に「不必要な特別扱い」なのか、一旦立ち止まって、みんなに考えて欲しいなと思います。

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