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人生の半分。

広告の世界に入って、今年で20年になる。

新卒で広告会社の営業部に配属となり、その後コピーライターという肩書(まあ資格があるわけではないので、自称ですが)をつけて、これまでずっと広告の仕事のそばで過ごしてきた。自分とは違う会社や、モノ、ブランド、サービスがいかに人に受け入れ愛されてもらえるかを考える毎日は、毎回ジャンルの違うことに向き合い続けることでもあり、自然と理解の幅は広がっていったように思う。どんなジャンルの仕事でも、どんな大きな企業の仕事でも、結局のところ行き着く答えはとてもシンプルで、なんだそんな言葉だったのか、というものが一番強く残ったりする。それは簡単な言葉のようで、何日も頭の中で揉み続け揉み続け、最後にポロリと溢れてくるものがほとんどなので、仕事の時間以外もそのことが頭から離れることはなくなり、結局のところ締め切りギリギリまで考え続けることになる。(結果、頭の中は常に何かしらで回転しているからなのか、毎晩夢はかなり鮮明に見るし、なんならずっと仕事をしている夢なので、朝起きてもだいたい、疲れている。)
そんな生活を、もう20年、人生の半分も続けてきた。

仕事をするということは、そのスタッフたちとももう20年の付き合いということにもなる。仕事をする上でのプロデューサー、ディレクター、プランナー、カメラマン、エディターの信頼はとても強い。なにがおこっても、きっと力になってくれると信じることができる人がいる環境は、とても心強いと思うし、ありがたい。

何をしても、言葉を話さなくても、同じ場所にいなくても、頭の中で気配を感じる。あの人だったらなんていうかな、と思いながら仕事をする。恋愛とか、友情とか、親子愛とか、そういうカテゴリに当てはまらない不思議な存在。今築かれていると感じるとても穏やかな関係は、振り回され、振り回し、ボロボロになった結果ようやっとたどり着いた関係だけれど、外から見ればとても単純で、不思議な関係に映るものなのかもしれない。

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とは言え、そんな仲間が常に一緒にいるわけではなく、仕事のほぼ大半は自分が自分でその環境を構築しなければならないのが現実で。信じられるのは自分しかいない状況に置き続けたことでもある20年。何もかも、一人でやろうとしてしまう自分ができあがってしまった。(結果、とても器用になったのだけれど。)

誰にも相談ができない、相談したところで、結果を出さなければ二度と仕事はこない。だから考える。そんな自分にとって、荷物(意識的な)を分け合って運ぶということはある意味とても高度な技術で、怖いことだ。その配分を間違えどちらかが疲れてしまい、そしてその疲れが怒りや悲しみに変わる姿を、たくさん見てきてしまったから。相手が大事だと思う人ならなおのこと。

だったら分け合わなければいい。とても寂しい考えではあるけれど、そう思ってしまうのは自分以外のことばかり考えて生きてきてしまった結果ゆえだと思うので、もはや職業病ではないかとさえ思うけれど。

考えるのをやめることは、向き合うことを放棄することだ。そう思ってここまできたけれど、考えすぎることで誰かが(自分も)辛い思いをするのなら、いっそ何も考えない方がいいのだろうか。

前だけ見ることができたら、どんなにいいんだろうな。





 



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