【映画感想】『オッペンハイマー』 副産物としての反核映画


あらすじ

 世界初の原子爆弾の開発を陣頭指揮したアメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーの半生を描く伝記作品。第二次世界大戦下のアメリカ、カリフォルニア大学バークレー校で教鞭をとる理論物理学者ロバート・オッペンハイマーは、原子爆弾開発を目指す極秘プロジェクト「マンハッタン計画」のリーダーに任命される。アメリカ中の優秀な人材を投入したマンハッタン計画はオッペンハイマーの指揮のもと順調に進展し、ニューメキシコでのトリニティ実験において世界初の核実験は成功を収める。しかし、開発された原子爆弾が実際に日本に投下され、数十万人の死亡者を出したことから、オッペンハイマーは核開発に対して深い懸念を抱いていく。原子爆弾よりさらに強力な水素爆弾の開発へ進んでいくアメリカ政府に対し、オッペンハイマーは核軍縮を唱えるが、彼が過去共産党と関係を持っていたことから、赤狩りによってオッペンハイマーはその立場を追われていく。


評価

★★★★☆ 4.5点


予告編


感想

この映画は反核映画なのか?

 世界初の原子爆弾を開発し、「原爆の父」と呼ばれるロバート・オッペンハイマーの半生を描く本作。世界唯一の被爆国である日本からすると、そういった映画が全世界公開されると言われると心中穏やかではないし、全米公開が昨年7月だった本作の日本公開が遅れに遅れて、今年の3月になってしまったのもやむを得ないところだろう。さて、そうすると、本作は一体どういったスタンスの作品なのか、よもや原爆開発を礼賛するような映画ではあるまいなというところが、日本人の観客からすると一番の関心事であろう。結論から言うと、本作はれっきとした反核映画であるし、今も核開発の手が緩められることのない現代社会に警鐘を鳴らす作品となっている。

 ただ、では本作が反核のメッセージが中心に据えられた作品かと言われると、それはそれで少し実態とは異なる。確かにオッペンハイマーは自身の開発した原子爆弾によって、とてつもない数の人的被害を出してしまったことから核軍縮を主張するようになり、アメリカ政府と対立し、これが本作後半でオッペンハイマーがアメリカ国内でその地位を追われていく遠因となっていく。このストーリー展開からすると、本作の物語の骨子は、人類をも滅ぼしかねないほどの威力を持った原子爆弾の危険性を訴える科学者と、軍拡のエスカレーションの手を緩められない政府との対立であると読めそうである。しかし、本作の描き方はそうはなっていない。本作におけるオッペンハイマーの失脚の主たる要因は、共和党議員ルイス・ストローズとの個人的な確執として描かれており、そこにイデオロギーの対立は見て取れないのである。

 さらに、本作は原爆開発に奔走する科学者達の青春グラフティの要素もあれば、オッペンハイマーを巡る爛れたラブロマンス要素もあり、また、第二次世界大戦後のアメリカにおける赤狩りも大きな要素となっており、そういった意味でも反核が本作におけるメインテーマかと言われると、やはり少し違うと言わざるを得ない。

 では、本作は何の作品なのかと問われると、拍子抜けするほど当たり前な回答になってしまうが、本作はロバート・オッペンハイマーという人物の純然たる伝記映画にほかならないである。題材が題材なだけに、つい、戦争とは、核とは、という大きなテーマを掲げた作品として構えて見てしまうのだが、おそらくは本作のそもそもの出発点はロバート・オッペンハイマーという人物をあくまでパーソナルな視点で描きたいという、数多の伝記映画と同じところにあるのだろうと思われる。

 ただ、本作の題材が原子爆弾を開発してしまったことによって、「化学反応を利用した兵器しかない世界」から「核分裂反応を利用した兵器の存在する世界」へと、世界の有り様を大きく変化させてしまった人物の人生であるがゆえに、彼の人生を描くことで副産物として自ずと核兵器開発への警鐘を鳴らすことになってしまう。そういった成り立ちの作品であるように思われる。


このうえなく良くできた、このうえなく分かりにくい映画

 さて、前述の通り、本作は世界初の原子爆弾開発に携わった科学者たちを描くヒューマンドラマであり、オッペンハイマーと2人の女性を巡るラブロマンスでもあり、オッペンハイマーとルイス・ストローズを主軸としたリーガル・サスペンスでもあり、第二次世界大戦後のアメリカでの赤狩りを描いた社会派ドラマでもあるという、非常に要素の多い作品である。さらには、1920年代から1960年代までの長い期間におよぶオッペンハイマーの半生を、膨大な数の登場人物との交流を交えて描いた作品でもあるため、そういった意味でも非常に情報量が多い。そのため、普通に映像化しようとすれば、少なくとも本作の上映時間の倍くらいの尺が必要になるほどの内容量の映画であり、なんならワンクールドラマでもいいのではないかというほどの分量の作品となっている。

 しかし、本作ではこの膨大な分量の物語を約3時間の尺に過不足なくキッチリと収めることに成功している。本作の監督であるクリストファー・ノーランの作品でしばしば指摘される時系列の錯綜は本作でも顕著なのであるが、これもいたずらに物語を難解にするためのものではなく、本作の物語を最大限にドラマチックでエモーショナルなものにするために計算されたものである。おそらく、事件をきちんと時系列順に並べた方が分かりやすくなるだろうが、その場合、本作ほどの勢いやドラマ性は生まれ得ないであろうと思われる。

 また、本作は伝記映画という特性上、非常にリアリティの高い映像作りがなされているが、一方で、オッペンハイマーの心情や脳内を具現化させるようなファンタジックな映像が要所要所で挟まれるのも印象的だ。序盤の彼の脳裏をよぎる物理現象が具現化されたような映像や、周囲の人間からのストレスと自身の良心の呵責から原爆投下のイメージが眼前の風景と重なる破滅的な描写など、インパクトの強い映像表現が実に効果的に挟まれている。このように神懸かった情報整理能力と抜群のビジュアルセンスでまとめられた本作は、1つの映画として奇跡的な仕上がりの1本となっている。

 が、そうでありながら、ではとっつきやすい作品になっているかと言われると、そのような作品ではまったくなく、分かりやすいか否かで言うと、このうえなく分かりにくく飲み込みにくい作品となってもいる。本作を難解にしている一番の原因は、ろくな説明もなく途轍もない数の登場人物が次々と登場するにも関わらず、細かい人間関係が物語の根幹に関わってくるところだ。特に前知識がなくとも大体の流れは初見で理解できるものの、マンハッタン計画におけるそれぞれの科学者や軍人の立ち位置が理解できていないと、後半のオッペンハイマー聴聞会での議論の流れに途端についていけなくなってしまう。

 もう一つの要因は前述の時系列の錯綜。この時系列の並べ替えが作品を著しくドラマチックにしている一方で、この並べ替えによって、オッペンハイマー聴聞会とルイス・ストローズの上院商務長官指名公聴会の時系列的な位置が著しく分かりにくくなっている。カラー映像とモノクロ映像が、それぞれオッペンハイマー視点とルイス・ストローズ視点に対応していることに、作中の早いタイミングで気付けないと、上映2時間あたりのポイントで急に物語から振り落とされてしまうことは必至だろう。

 ただ、こういった部分はいくらでも分かりやすく整理して作ろうとすれば作れるのだろうと思われるが、そうすれば、作品がより面白くなったかと言われると、これはかなり疑問である。むしろ、物語のテンポが落ち、野暮ったい作品になってしまった可能性が高いように思われる。であるとすれば、本作に限って言えば、これは観客が歩み寄るほかない。幸い、伝記映画である以上、ネタバレも何も無いわけなので、ある程度、登場人物の立場とスタンス、それに加えて、オッペンハイマーを中心としたアメリカの核開発の歴史について頭に入れてから、作品を鑑賞するのが吉であろう。


ミクロな視点を欠いた映画ではある

 さて、前述した通り、本作はれっきとした反核のメッセージを持った作品である。主人公であるオッペンハイマーは原子爆弾を開発こそするものの、すぐに核軍縮へとその立場を転換するうえ、作中でも原爆で死んだ人々の姿をオッペンハイマーが幻視するシーンが挿入されたり、ラストも核の炎によって地球全体が焼き尽くされるイメージで締めくくられたりと、明確に核開発への警鐘を鳴らすシーンも多い。

 ただ、本作で語られる反核のメッセージはあくまで、核開発競争は将来的な人類滅亡を引き起こす可能性があるというマクロな視点に立ったものになっている。もちろんこれも重要な指摘なのであるが、本作では実際に原子爆弾による被害を受けると、人々はどれだけの苦痛を味わうこととなるのかというミクロな視点での核批判が含まれていない。

 本作に対して、日本国内で広島・長崎への原爆投下が直接的に描かれなかったことに対しての批判意見があげられたが、これは要するに市井の人々の視点で見た核の脅威が描かれていないことへの違和感に根ざしたものであると思われる。ただ、本作においてはこれは仕方のないことで、まずもってオッペンハイマー自身は原爆の被害を直接的には見ていないうえ、やはり、原爆を落とした側の国が描きうる描写には限界があるのも致し方ないところであろう。

 であるとすれば、本作が大きく欠いた視点から核を描くことができるのは、それは間違いなく日本のクリエイターしかいないだろう。もちろん、そういった作品がこれまでに数え切れないほど作られて来たことは百も承知なのだが、そういった作品が日本国外に向けて、どれだけ発信されてきたと言われると、これはまだまだ道半ばと言わざるを得ないのではないだろうか。さらに言えば、被爆当時を知る人がいなくなってしまう日もそう遠くはないことを考えると、日本にとっても、今一度世界に向けて本作を補完するような作品を作るべき最後のチャンスが差し掛かっているのではないだろうか。

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