【映画感想】『哀れなるものたち』 ★★★☆☆ 3.9点

 ヴィクトリア朝時代のロンドン。投身自殺を図った妊婦を発見した天才外科医ゴッドウィン・バクスターは、彼女の体に彼女の身籠っていた胎児の脳を移植することで妊婦を蘇生させることに成功する。彼女をベラと名付けたゴッドウィンは、教え子の医学生マックスとともに彼女を観察しながら育てていく。ゴッドウィンの勧めでベラはマックスと結婚することとなるが、知能の急速な発達に伴い、ベラはゴッドウィン邸を出入りしていた弁護士のダンカン・ウェダバーンと駆け落ちする。ダンカンとともに旅に出たベラは数々の男性と肉体関係を結ぶ一方で、外の世界を学んでいくことで、その精神を成長させていく。



 天才外科医によって作られた人造人間であるベラが様々な冒険の末に自立した一人の女性へと成長していく姿を描く本作。ベラは創造主である外科医のゴッドウィン、弁護士のダンカン、売春宿の客の男性たち、生前の夫アルフィー将軍といった様々な男性たちの元へその身を移していく。そのいずれもがベラを従属させようとしようとしてくる男性たちであり、つまり本作は男性による女性への支配構造に自ら身を置きながら、ベラがこの支配構造とそのおかしさを学んでいく物語であると読むことができるだろう。

 さらに本作では、この男性による支配の中でも肉体的な支配に焦点が当てられており、とかく性行為の描写が多い。というよりも、男性の支配欲と性欲とは不可分なものであるというのが本作の作品的な思想であるということなのだろう。

 ベラを支配しようとする男性たちの中では、ゴッドウィンだけは(大きな意味での)父親という他の三者とは違う立ち位置が用意されている。つまり、ベラとゴッドウィンとの支配構造は、肉体関係の絡まない家父長的な支配関係であるはずなのだが、本作ではゴッドウィンに宦官であるという設定をわざわざ付与している。それほどまでに、男性による支配=肉体関係による支配というのが、本作における強いセオリーなのである。一方で、ゴッドウィンはそのかわりに、手術と解剖への強い意欲を持つキャラクターとして設定されており、そういう意味ではやはり肉欲というものが人間の根源的欲求であるというのが本作の強い主張であることが読み取れるだろう。



 前述の通り、本作では男性による女性への支配構造に主人公のベラが常にさらされることとなるのだが、本作の特異な点はこの構造へのベラの向き合い方にある。

 ベラは、作中の様々な支配的な男性の誰しもが制御できないアンコントローラブルなキャラクターとして描かれるが、彼女の男性による支配構造への姿勢は抗うというよりは”いなす”という表現の方が近い。

 これは、ベラが人造人間というこの社会の規範の外から生まれた存在であることに起因していると見ることができるだろう。つまり、本作はこの世界の理の外からやってきた存在であるベラが、様々な男性たちの支配下にすすんで自らの身を置き、そのうえでそこで得た学びをもとに、その構造の不合理性を見出していく物語なのである。

 この社会の規範の外にいるベラだからこそ、無垢な視点で男性たちを観察することができ、そのおかしさを見出すことができる。そして、社会構造の外からやってきた存在であるベラだからこそ、気に入らなければ、すぐにでもその支配構造から出ていくことができるのである。これが本作の特異なポイントであり、痛快なところでもある。



 本作がベラの成長物語であるという点については、美術面からも徹底されている。本作で特に目につくのは、作中で色調がモノクロからカラーへと移行していく点であるが、それ以外にも冒頭では魚眼レンズのように歪んでいた映像が徐々にシャープになっていったり、街の建物の造形や質感が作り物っぽい虚構めいたものから徐々に重厚感のあるものへ変化していったりと、様々な変化が見てとれる。いずれも、ベラの精神の成長とリンクしたものとなっており、生まれてすぐは色味もなくぼんやりとしていた世界が、徐々に色鮮やかで地に足のついたものへと変化していくのである。

 この変化の自然さが実に絶妙なのだが、特にこれを強く感じさせるのが、終盤でベラがゴッドウィン邸へと戻ってきた場面。映像表現が変化していっていることは誰の目にも明らかなのだが、実際に冒頭の白黒でぼんやりしていたゴッドウィン邸と、終盤の色鮮やかでシャープなゴッドウィン邸のあまりの見え方の違いを通して、いつのまにか著しく成長していたベラの精神の変化が力強く観客の心に印象付けられるのである。



 その一方で、例えば、空は一貫して油絵のような独特なタッチで表現されていたり、冒頭で登場した豚や犬の頭が鳥の体に接続された奇妙な動物がラストでも登場していたりと、現実離れした映像表現はラストまである程度残されてもおり、これが本作にある種の寓話的な雰囲気を与えている。ただ、これは本作の少しズルいところでもある。

 前述の通り、本作は男女不平等な社会の社会常識や社会規範に染まっていない、その枠組の外にいる存在であるベラが、その社会を無垢に見るからこそ、その構造のおかしさにフラットに気付くことができるというところが肝となっている。ただ、我々の生きる実社会に目を向ければ、女性たちはその枠組の中にいたって、そのおかしさには重々気付いている。ただ、そのおかしさに気付いていたとしても社会的な立場やしがらみがあるからこそ、その支配構造から脱することは容易ではなく、その支配構造をいかに解体していくかということが男女平等への一番の大きな課題なのである。

 しかし、本作では主人公のベラは、社会の理の外にいるというそのキャラクター性ゆえに、男性からの支配からは力技で問答無用に脱することができてしまう。例えば、ベラに執着するダンカンはベラが強く出ればすぐに撤退するし、ベラがやめたいと思えば売春宿からもすんなり脱出できるし、彼女を監禁しようとするアルフィー将軍の支配からも力技ですぐに脱することができてしまう。

 こう見てみると、男性による支配構造からの脱出という点では本作はご都合主義もご都合主義なのだが、この違和感を本作は前述の寓話性の強い演出でうまいこと誤魔化しているのである。言ってみれば、本作は男女の不平等な支配構造をテーマにしつつ、この構造を打破する上での一番の壁をいかに乗り越えるのかという最重要課題は巧妙に避けているわけで、そういう意味では非常にズルい作品であるとも言える。



 本作は第96回アカデミー賞において計11部門にノミネートされているが、特に主演女優賞については納得の一作であると言えるだろう。主人公のベラは冒頭では言葉もおぼつかない粗野で幼児的な女性として登場するが、旅を通して、最終的には哲学に精通し外科医を目指す聡明な女性へと成長していく。この成長をベラ演じるエマ・ストーンが実に見事に演じている。

 上の項で映像表現の変化について述べたが、こちらの変化の明確さに対して、エマ・ストーンの演技プランの変化はアハ体験のようなシームレスなものとなっている。作中ベラは終始エキセントリックなキャラクターとして存在しているのだが、終盤でエキセントリックさのなかにも確かな知性と影を見えた瞬間に、あの冒頭の天真爛漫で無垢だったベラがいつの間にか消えてしまっていることに驚き、胸を鷲掴みにされてしまうのである。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?