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「利他・ケア・傷の倫理学」を読んで

ちょっと難しくて、間違ってるかもしれませんけど、この本を読んだ私なりの解釈。

利他とは、自分よりも他人を優先すること。他の人の大切にしているものを、自分の大切にしてきたものより優先すること。
傷は、自分の大切にしているものを大切にできなかったとき、また、大切にされなかったときに生まれる。
ケアとは、他の人の傷、ひいては他の人の大切にしているものを察知して、尊重して、傷がそれ以上広がらないように、自分の大切にしてきた筋書きを変えたりもして対処すること。

ケアの例として、ある作家が、人形を無くして悲しんでいる女の子のために、「人形は自らの意思で旅に出たんだ」という筋書きを作って、それを成立させるために毎週、「人形から女の子への手紙」を書き続けたというエピソード。
また、ある映画で出てくる、レストランの支配人の話。灰皿を取り皿と間違えて使ってるカップルの男性がいると報告を受けて、男性に恥をかかせないために、こっそり、他のテーブルの、他の形の灰皿を取り下げさせて、あたかもその皿が本当に取り皿であったかのような空間を作る。

本当は、人形は、無くしたんだったら「無くした」って、それだけの話だし、灰皿はあくまで灰皿。それが、彼らがこれまで演じてた舞台での筋書きなんだけど、目の前で他の人が、その筋書き通りに行くと傷を負いそうな場面に遭遇したとき、演じてた筋書きを捨てて、変えて、新たな物語を作ることによってその人を救う。それが、利他でありケアだと。

ここで重要なことは、この利他・ケアが、自分のためにもなる、こともある、ということ。
どういうことかっていうと、今まで信じてきた筋書きを他の人のために捨てることで、自分にも新たな視点が生まれるということ。それによって、例えば、過去の、心が痛む悲しい出来事が、ポジティブな意味合いを持った出来事に変わることもある、ということ。

なかなか、難しかったんですが、例えばこういうことかなあ。
うちの小学生が、本格的に不登校になったとする。
私は、今まで、学校に行くのが普通だと、正義だと、考えていたとする。
でも、愛する子供が、学校に行けない自分自身に対して「自分はダメだ」と傷ついているのを見たとしたら…。「学校は、行っても行かなくてもいいんだよ」と言ってあげたくなる。それは、自分の今まで信じていた筋書きを捨てることになる。
それをして初めて、自分自身に対しても、「職を転々としてきたことを、一貫性がないと恥ずかしく感じてきたけど、自分の気持ちに正直に道を選んできたことって、全然恥ずかしいことじゃなくて、良いことだったんだ」と思える。

例えば、こんなことかな。

なんかね、この、「他の人のために、自分をとらえている固定観念を捨てる」っていう行動が、「他の人のため」じゃなくて、「自分自身」に対しても発動できれば、私のビリーフも溶かせるのになあ、って、思っちゃいました。幽体離脱して、自分自身が、自分自身に対して、こういう目線を持てればいいのになって。

訳分からない締めで、すみません。最近、「どうすれば、自分の縛りを外せるか」ってことを考えてるもんで、つい。
今日はこれで、終わります!

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