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川上未映子『夏物語』、反出生主義と、産んだ私の話

 はじめに、これは、seramayoさんの記事「川上未映子『夏物語』と『現代思想:反出生主義を考える』を読んだわたしのとりあえずの考え」からあらためて考えはじめたことであるのを記しておく。

 私が川上未映子『夏物語』を読み終えたのは今年のことだ。読みはじめたのは昨年。鬱に陥っていたのもあって、ずいぶんと長い時間がかかった。しかしいずれにしても子を産んだあとである。自身の出産について、顧みて考えることになった。

 『夏物語』には、出生・出産についてさまざまな立場を取る人間たちが登場する。主人公の夏目夏子は38歳、独身の作家。交際相手はおらず、また、セックスをすることができない(過去の恋人としたことはあるが、どうしても苦痛に思ってしまい、それがもとで恋人と別れることになる)。しかし自分の子どもに「会ってみたい」と思いはじめ、AID(非配偶者間人工授精)を考えるようになる。夏子は、AIDで生まれた当事者である逢沢潤と出会い、さらにそのつながりから善百合子という人物を知る。善百合子は夏子にこう問いかける。

「もしあなたが子どもを生んでね、その子どもが、生まれてきたことを心の底から後悔したとしたら、あなたはいったいどうするつもりなの」

 子どもを生めば、生きることが痛みでしかない存在を作りだすかもしれない。そんな「賭け」をどうしてできるのか。そして「その賭けをするにあたって、自分たちは自分たちのものを、本当には何も賭けてなんかいない」という。生まれた子どもの痛みや苦しみは自分のものではないから、ないことにできる。だから子どもを生むことができるのだ。

 善百合子の立場は、反出生主義と言われるものである。反出生主義と、善百合子の理論についてはこちらの記事を参考にされたい。

生まれることは悪いことか? では産むことは? 【特別対談】川上未映子×永井均 反出生主義は可能か〜シオラン、べネター、善百合子

「不幸を作り出さない」ことをよいこととする消極的功利主義を「産む/産まない」つまり「存在させる/させない」という問題に適用する。これは南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターが人類史上はじめて行ったことであるという。善百合子もまた、消極的功利主義を理論的バックボーンとしている。

 さて、ここで自分の話に戻ると、私は現に「産んだ」ものである。すでに自分と異なる人間を存在させ、4年間を過ごしてきた。そしてたしかに日々、彼女が生まれなければ感じることもなかった痛みや悲しみ、怒りが生み出されているのを目の当たりにする。幼児の一時的な感情の起伏は、そのようなものとして流されていくのだろうが、では、彼女がいつか「生まれなければよかった」という気持ちを抱いたらどうするのか。誰も責任を取ることはできない。生まれなかったことにはできないからである。

 そのような、自分の他の人間の痛みに、鈍感にならなければ妊娠・出産など到底できないことであるように思う。川上未映子氏も妊娠・出産を経験しており、インタビューでこう語っている。

生んだ女性はある種の鈍さとともに主軸を子どもに移動させて、生んだことの動機を問われることもなく、社会的には「善さ」の威光を借りながらうやむやに霧散させてゆく。子の有無だけが人生の問題ではもちろんありませんが、わたしは自分にもあるこの鈍さを恥じています。

<川上未映子ロング・インタビュー>「生む/生まない、そして生まれることへの問い」

 再び私のことに戻る。私は、生きづらさを覚えながら生きのびてきた人間だ。生きることが痛みでしかないとまでは思わないけれど、生きることはつねに苦しさとともにあると思う。それなのに、自分が子どもを持つという選択については疑わなかった。苦痛の再生産ではないのかと問わなかった。

 それは矛盾しているように思えるけれど、私のなかではごくシンプルに、「今すぐ死にたいと思ったことはあっても、生まれてこなければよかったと思ったことがない」からなのだろうと思う。ではそれはどうしてか。超強力なバックボーンとして、「恵まれた子ども時代を過ごした」という感覚があるからだ。物質的なことだけではなく、精神的に、私はごくごく自由な子どもだった。何をせよと命じられることもなく、自分の心のままに、勉強、読書、ピアノ、創作、外遊び、となんでもすることができた。これまでの人生の危機を何度も救ってくれたのは結局のところ親だった。実家に帰って子ども時代を反芻することで回復した。それが、私という人間の存在の根源なのである。

 しかしながら、そのような私の精神と私の子供は、まったく別のところにあるものであり、やはり、産むことは本質的に暴力を孕んでいることに変わりない。自分が生を善いものと思えるからといって、子がそうなるという保証はどこにもないのだ。もちろん、そうであれと願って、能力の限り環境を整えることはするだろう。ただ、根源的な問いからは逃れられない。

 この話に結論はない。ただ、冒頭に挙げたseramayoさんの言葉のなかにひとつの希望を見出している。「生まれることや生むことについての考えって、ちょっとした衝撃で揺らいでいくものなのかなーとか思ったり。」(Twitterから)私も、子どもも。産んだ側も、生まれた側も(私は母から生まれた側でもある)。どちらも揺らいでいて、唯一の真実というものに固定されることはない。アンビバレンスを抱きながら、それぞれの選択を続けて、生きていく。

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