書くことで、生きる
言葉に頼って、やっと生きている、と思う。
感情の起伏に振りまわされることの多かった若いときも、自分の気持ちの正体はなんなのか、それはどこから来るものなのか、限界まで言葉で解像することで、生きられる道を探っていたような気がする。
ひとごとのように言ってしまうのは、近頃は生活の必要に迫られて(なにより毎日の育児、賃労働、そして最低限の家事)、物事をしっかりと考える余裕もなく、ましてまとまった文章を書くこともなくなっていたから。
しかし、予期しないことで自他の強い感情に晒されると、やっぱり私がすがるのは言葉なのだった。自分の心を見つめるため。相手の心に近づくため。解決の糸口を探るため。
ひどく脆いものだと思う。言葉がもはや力を持たない状況は多い。必死の思いで紡いだ言葉が空回ることなどいくらでもあるというのに、そのたびに絶望してしまう。自分と相手の言葉だけを見つめて、そこから零れたものを見落としてしまう。
それなのに、どうしてだろう。
相変わらず私は言葉に頼って、掛け値無しの自分の心を伝えようとしている。なにも伝わらないことも織り込み済みで、伝われ、伝われ、と、指先をすり減らさんばかりに。
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