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ひとつの家族の変化の話

 前回の出産から4年半ぐらいの時を経て、私は今また妊娠している。いっときはもう二度とするもんかと強く思っていたにもかかわらず。前回のわりとしんどい経過を忘れるはずはなく、しかし時とともにその感情の苛烈さ生々しさは薄れていったようである。人間の脳ってすごい。それにしても、もうひとり子がいればいいなという気持ちは潜在的にありつつ、経済的、体力的な余裕がないことで「私たちにはひとりの子を育てるのが精一杯だし身の丈に合う」と考えてきた。はずだった。どこでその壁が崩れたのか。
 4歳半を過ぎた娘は、典型的な4歳女児が好むものをひととおり踏襲している。メルちゃんネネちゃん(赤ちゃん人形)、リカちゃん(着せ替え人形)、ディズニープリンセスにプリキュアなど。好きな遊びはおままごと。なにかというと人形を使って見立て遊びをしている。
 先述のとおり私と夫(というか多分私)は2人目の子を持つ気が昨冬までさらさらなかったので、娘のほうのきょうだい願望の有無には触れないようにしてきた。しかし驚いたことに彼女はメルちゃんの「おねえちゃん」を自称するようになったのである。一人称が「おねえちゃん」。まじかー、子育てって予想のつかないことがたくさん起きるな、という感じ。
 だからと言ってそれ以上のこと(たとえばきょうだいが欲しいと直接お願いされるなど)があったわけではなく、あくまでメルちゃんを我が家の赤ちゃんとして扱って接していただけである。メルちゃんで済むならメルちゃんでいいじゃない。さらに妹のネネちゃんもいるよ(娘のリクエストどおりクリスマスに我が家に仲間入りしました)。
 自発的にお姉ちゃんとして振る舞うようになった娘に触発されて「もしもうひとり子を持てたらどうなるだろう」と本当に思いはじめた根底にはやっぱりもとからそのような願望があったに違いない。なんだかんだ自分自身の状況に強く影響されるものである(私には弟がいるし、親に感謝すべきことには、弟がいてよかったと思って生きてきた)。
 ひとつ前の記事で書いた、自分と異なる生命を生み出すことの暴力性、そこにある自分の鈍感さを忘れたわけではない。それでもなお、私は生命を肯定する側を選択して立っているし、生きとし生けるものおめでとう、と言う。JASRACに摘発されたくないので歌詞掲載は控えるけれど、東京事変の「原罪と福音」の冒頭をぜひ思い浮かべて(あるいは調べて)みてほしい。これまでずっと、人が生きることの苦しみに寄り添ってきた椎名林檎氏があれだけストレートに生を祝福する詞を綴ってくれて、初めて聴いたときには震える思いだった。
 そして何より、妊娠したいと思ったときにスムーズにできたこと、それがもうすぐ妊娠中期に入る今まで継続していること、年齢的にけして若くはないけれど経産婦として超高齢でもないこと、すべてが奇跡なのだよね。

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