見出し画像

病院にある夜中の気配


 同期のKちゃんが、私たちの病棟に転属したのは卒後3年目の時。長身で仕事ができるKちゃんは、あっという間に病棟に馴染んで、すぐ私たちと夜勤をするようになった。

 その時期は、循環器の急性期患者さんが増えたこともあって、KちゃんとYちゃんと3人で近所のファミレスで勉強したり、雑談したりして情報収集という名目で集まって食事や夜勤明けのお茶をして過ごすことが増えた。得意分野はそれぞれ違うし、先輩やドクターの癖も知りたいし、とにかく私たちの話は途切れることがなくて、いつも笑っていた。

 そんな大笑いの話の合間、ふとKちゃんが真剣な顔をして切り出した。
「ねえ、6病棟って出るよね」
霊感が強いとは聞いていたが。
「うん、出る出る。3号室でしょ?」
すかさず私は思い当たる。
Yちゃんは、私たちの会話にビビり上がっている。全然気がついていなかったらしい。
「やっぱりね」
Kちゃんは、うれしそうだ。

 3号室は個室で、脳出血後の意識不明の大葉さんが入院されている。いつも着替えのパジャマがおしゃれで、奥様が毎日面会に来る。仕事中の事故で寝たきりになってしまい、お話をすることはもうできないし、瞬きもなさらない。人工呼吸器の音が病室を、むしろとても静かにしている。
 体位変換といって、看護師は2時間ごとに長期臥床の患者さんの寝返りの援助に行く。枕をお体の下に入れて心地よい体勢を整え、パジャマやシーツをピンと張って、床づれができないようにする。昼は呼吸をしやすいようにベッドの背もたれの高さを高めにし、夜は低めにして睡眠を重視する。意識がなくても感覚はあるのだから、心を込めて声をかけて援助する。人工呼吸器をつけた患者さんの唾液や痰の吸引は、呼吸や肺炎の予防のために欠かせない。

 そうなのだ。出るのだ、3号室は。

 その夜は、ベテランのクールな佐々木さんとの夜勤だった。佐々木さんとの大葉さんの体位変換が終わり、佐々木さんは先に次の病室に行った。ベッドサイドにある小さなライトだけが3号室の一角を照らしている。
 人工呼吸器の音に合わせて胸が上下する大葉さんに話しかける。気管の吸引をしていると、病室の入り口に人が来た気配がした。佐々木さんが何か伝えに来たのかな、と思ったけれど、私は大葉さんから目が離せない。痰を吸引している間は、患者さんの顔色や痰の性状を観察しているし、吸引チューブを入れる深さも決まっているからだ。佐々木さん、何の用事なのかも言わずに黙って大葉さんの足元まで来た。一度目の吸引が終わって、人工呼吸器の蛇ばらについている接続部を大葉さんの気管切開口にそっと装着する。蛇ばらのねじれを直しながら人工呼吸器の内圧を知らせるメーターが上がっているのを確認して正常に作動し接続漏れがないことを確認する。大葉さんの胸郭が膨らんでいるのを見届けながら、
「佐々木さん、」
何かありましたか?と声をかけようとして、私は振り返った。…が、佐々木さんはいない。ん?すごーくそばにきたと思ったのに。痰の量が多めで粘っこいので、もう一度吸引を始めた。するとまた、その気配は私たちのそばにグーっと近づいてきた。そして、慣れない新米ナースに先輩ナースがグッと手元を覗き込んで指導してくれた時のように、私が吸引している様子をじっと見ている。気配がする。気配は、大葉さんを挟んで向こう側から、私の手技を見ている。まあ、見守っている。若干粘っこく様子を見ている。

「Kちゃん、3号室の大葉さんでしょ?」
「うん、そうそう!吸引の時!」
「2時と4時でしょ?」
「うん、そうそう」
「足元に近づいてきて、」
「そう、ベッドの反対側から…」
「覗き込むよねえ」

 Yちゃんは「えー、えー!」とひたすら怖がっている。

「大丈夫、見守り系だから」
「わかる、そうだよね。見守り系」
「吸引できないナースだと思われてない?」
「わかる、そういう視線なのよー」

 Yちゃんはそれから一人で3号室に行けなくなって、巡回がひと手間かかり、やや面倒になった。見守りさんが最近来ないよね、とKちゃんと声を掛け合って少しして、大葉さんはお亡くなりになった。

 奥様は、ずーっと手を握りお熱が下がらなくなった大葉さんに付き添っていた。こっそりお茶を入れ差し入れたりした。亡くなられた明け方、私とKちゃんが夜勤だった。早番さんが早めに来てくれて、温かいお湯で何度も柔らかなタオルで顔や身体を清拭することができた。大葉さんは安らかな表情だった。

 大葉さんのいない3号室に、見守りさんは二度と、現れなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?