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生と死、行き交う日常

※フィクション回です

   看護学生が住む寮は都内のいい立地にあった。古い建物だけれど、時代はバブル絶頂期。300人の乙女が都内でも誰もが知る山の手の駅にほど近い場所で、アオハルを謳歌していた。

   週末ともなると、甘やかなお化粧の香りがして、華やかな私服に身を包んだ先輩とすれ違う。寮にある電話の呼び出し放送でいつも名前を聞く先輩はだいたい決まっていて、おしゃれで目を惹く場合が多く、5台しかない電話のうち「2番と3番にお電話です」などと放送がかかる。「先輩、どうやって2本の電話を乗り切るんやろー。もう、見に行きたいくらい。」私の初めてのルームメイトは、宮崎出身の学年一の美女Kちゃん。Kちゃんは地元に好きな人がいるので、こちらでは恋愛に関してはもっぱら噂話だけに徹している。一般大学、医学部両方とも人づてでコンパがあって、下級生にも声はかかるけれど、一回行ったら帰り道暗がりを歩きたがる話の下手な大学生が面倒くさく、上京後ようやく打ち解けた女子同士で原宿とか自由が丘に行ってスイーツや雑貨を見て回ったり、銀座界隈に行ってみたりの都内の冒険が楽しかった。高校生ぽさが抜けない1年生から見てもすっかり垢抜けた装いでお出かけする上級生に、憧れの眼差しが注がれた。

   それ以上に、入学したての1年生にとって憧れのアナウンスがある。それは、分娩実習の呼び出しだ。分娩実習は、付属病院と隣の提携病院の産婦人科で妊婦さんがいよいよお産という時に呼び出され、分娩のお手伝いをする実習だ。実習生はあらかじめ数名で決まっていて、外出もせず待機している。大浴場で並んだ上級生が、「分娩呼ばれるかなあ。夕方、情報収集行ったけど、予定よりも早いかもよ、って言われちゃった」などという会話をして身体を洗っている姿もカッコいい。いざ、呼び出しの放送があると白衣に水色のエプロンをした上級生が、神妙な面持ちで日直室に駆け入り一言報告して小走りに出かけていく。朝方、戻ってくる時の表情は明るく上気していて、生命の誕生に立ち会えた充実に満ちている。

   分娩拘束、のボードの隣に、もう一枚ボードがある。いわゆるエンゼル拘束だ。病院で亡くなられた方の、死後のお世話をする実習である。職業柄というべきか、生まれる援助、見送る援助、という両極の実習のボードが普通に並んでいる。その前を、ジャージやパジャマ姿で家族や友人に電話するのを待つ列が並び、恋バナや雑談が交わされている。

   初めて、死後のお世話をしたのは、夜中の呼び出しだった。消灯時間を過ぎているので、泊まりの当番が部屋まで迎えに来てくれた。急いで着替えて玄関に向かうと、Nとlも程なく集まり、一言も交わさずに小走りで敷地内の端にある渡り通路を通って、隣の病院に入っていった。初めて入る内科系の混合病棟で、心電図の規則正しい大きな音やナースコールで夜中でもわりに賑やかなナースステーションと反し、静かな廊下の一角で怖い表情の中堅看護師がイライラと手招きをしている。要領を得ない看護学生なんて、だいたい患者さんが亡くなった忙しい夜勤では邪魔でしかない。多分、私達を呼ぶだけで面倒に違いないのだ。

   消毒薬や薬品の匂いと一緒に緊張感も吸い込んで、「お疲れ様です、失礼します」と、もごもごヒソヒソ言いながら病室に入っていく。ふたり部屋の奥のベッドがお世話する亡くなられた患者さんだ。隣のベッドでカーテンがかかった患者さんは大きな声で「あー。あーー。」とずっと呼吸に合わせて言い続けている。大丈夫なんだろうかと気にはなるが、「ひとりこっち。ふたりは、そっち」眉間にシワを寄せてマスクをしたひっつめ髪のナースの指示に添って患者さんを取り囲んだ。Nが手を胸の前に合わせて合掌したのを見て、私も手を合わせた。白髪の男性で、見たこともないくらい青白い顔色で、穏やかな表情をされているのが救いだった。名札を見る、お年は84歳。ナースは、荒っぽくならないギリギリの手際の良さで掛物を取り、「お身体を拭きますね」と患者さんに声を掛けた。「寝巻きは脱がせて、この浴衣を着せることになっているから。付いてるもの、全部外すよ。点滴は私が抜くから、触らないで」心電図モニターはもう外されていたが、前胸部に小さな3枚のパッドが残っていた。痛みを感じないようにゆっくり丁寧にはがしていく途中から、もう痛みは感じていないのかもと気がつくがこれが正しいのだと剥がし終える。私達のペースとは別次元の早さで、ナースがタオルを絞って渡してくれる。顔、胸を恐る恐る拭き、パジャマの腕を脱がせようと患者さんの首の下から背中に自分の腕を差し入れようとした時、改めて患者さんの手と腕の冷たさ、首の後ろと背中に残る温かさに触れて戦慄した。今日、初めてお会いする患者さんの死に触れ、心は震えているのに、淡々と清拭は終えられていく。どんな方だったんだろう、どんな声をしていたんだろう。どんなご病気で、この部屋でどんな最期を迎えられたのだろう。何もわからないまま、でも気持ちよく拭く、その行為に没頭するしかない。絞って、拭く。新しい浴衣に着替える。「お着替えしますね。」消え入りそうなお声がけの声がかすれる。隣のベッドの患者さんは、「あー。ーあーー。」と声をあげ続けている。

    「ありがとうございました。」思っていたより早く終わったような気がしていたが、少し空は白み始めていた。息は白く、痛むように風が冷たい。誰も何も言わず寮に帰って当直室に寄ると、同じ班のY先輩がもう白衣を着て課題をしながら待っていてくれた。「お疲れ。電話くれたの、東2の加藤さんじゃん。あの人顔怖いよね。できるし優しいけど」出発前にその情報が欲しかったけれど、おおむね私の感想と変わらない。Y先輩が小皿に盛った塩を、「こんぐらい?」とちょっと笑いながら並んだ私達の肩にぱっぱっとかけてくれた。「私の初めてのエンゼルの時、A先輩がアジシオかけてさ、いいんかいって思ったのよ。」急にひとごこちついて、Yさんはこのまま、いいナースになっちゃうんだろうなあ、と思った。

   廊下の窓の朝焼けがきれいで、患者さんはいつ家に帰れるんだろうか、ひっつめの加藤さんはまだ忙しくしてるんだろうか、と思って歩いていると少し消毒薬の匂いがした。誰かの死が日常に入り込んでくる職業についた、その感慨と、今日のように知らない方でなく自分が看た患者さんだったらどんな思いになるんだろう。そうぼんやり思って部屋の前、Kちゃん起こさないようにそっと部屋に入りたくて、かじかんだ手をささっとさすって、息をちょっと止めた。

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