受験だけが全てじゃない←うるせえ殴るぞ

 受験だけが全てじゃない

 親も、教師も、果てはミュージシャンまでもがそう言う。

 僕はこの言葉が気に入らない、嫌いである。

 これを書いているのは3月11日の正午少し前。東京大学、京都大学の合格発表からちょうど24時間が過ぎたところである。24時間前のX(旧Twitter)はまさに悲喜交々という奴であった。
 3浪を経て見事東大や京大に合格した奴、某医学部で誰にも言わずに仮面を始め、京大医学部に合格した奴。その他大勢の屈強な受験戦士が合格を勝ち取った。改めてだが本当におめでとう。東大は行ったことがないので断定は避けるが京大周辺は本当に良い場所である。しばしば散歩で鴨川周辺を歩くが、あの辺りの時が止まったような、平穏を地で行くような雰囲気はなかなか他の場所では経験できない。
 それ以外の第一志望に合格された方もおめでとう。

 だがその一方で涙を飲んだ人たちだっている。2浪して京大に落ちた人たち、3浪して京大に落ちた人たち、好成績を取っておきながら東大京大に敗れた者たち、第一志望への夢破れた者たち。

 まるで開成高校が50年近く連続で東大合格者数日本一の座に君臨しているのと同様に、そんな者たちにかける慰めの言葉ランキングで、常に一位に鎮座している言葉がある。

受験だけが全てじゃないよ。前を向きなさい

 私はこの言葉が嫌いである。親も教師も果てはミュージシャンまでもがそう言うこの言葉が僕は大嫌いである。
 それはなぜか。それは正論だからである。
 この言葉は全くもって正しい。人間100年時代と言われるこの時代、受験を終えてからの人生の方が遥かに長い。学生生活、就活、仕事、出会いと別れ、結婚、出産、子育て、子供の巣立ち、退職、孫の誕生、老後、死。受験を終えても様々なことが人間を待っている。そうであるので受験は全てじゃないと言う言葉はその通りであり、否定はできない。

 しかし、それを真に納得できるのは俯瞰的な目線を持ったからこそなのではないだろうか。ある程度成長し、受験以外の学生生活や社会人生活の楽しさを知ったからこそ、「受験落ちたけど今結構楽しめてるし、受験が全てではないな」と真に思えるのではないだろうか。
 受験生というのは、難しい大学を目指していれば目指しているほど、生活における受験のウェイトは上がっていく。脳みそにおいて受験が占める割合が脳の領域的にも、密度的にも、広く、濃くなっていく。そうであるので受験生が視野狭窄に陥るのは当然なのである。一浪二留理科三類でお馴染みの、ベテランち(敬称略)も、中1から高2までかなりサボっていたらしいが高3の1年間はどうすれば理三に受かるのかばっかりを考えていた1年だったと語っている。灘の中でも才能肌だった彼ですらそれくらいの気負いなのだから普通の受験生が受験で頭一杯になるのなんて当然である。
 そんな人たち相手に年の功を振りかざして受験の空虚さを説教するのは人生経験値マウントのように思えてダサいと僕は思う。え?🤔受験?🤔これから楽しいこと待ってるんやからさっさとんなこと忘れて前見ようや😁😁😁なんて無責任にも程がある。W杯でクロアチア相手に泣いていた日本代表にまあ4年後もあるしええやんなんて誰が言えるだろうか。
 ちょっと空を飛べるようになり、俯瞰的に物を見られるようになったからって、地上を走り回って二次元的なモノの探し方をしている人を馬鹿にするのは、ちょうど原始人の暮らし方を冷笑するのと同じではないだろうか。僕らだって200年後の人類に「あいつらまだ肉体捨ててないのかよw」「はやく思念統合体としての生存を選べよw」なんて煽られたらいい気はしないだろう。その時代、その時のメンタルに合った生き方がある。それは後々の時代の人間からしたら非合理的に見えるかもしれない。でもその時代の人たちはそのマインド、その文化の中で精一杯生きてきた。それを尊重するのが大人だと思う。受験生を一蹴し、冷笑的な見方を持つ大人を見るたびに、こんなことになるならライト兄弟が飛行機なんて作らなくても良かっただろうと思う。羽ばたくことに成功した者は空を謳歌し、いつか飛び立ってくるかもしれない子供たちを静かに待つのがカッコいい大人ではないだろうか。そう今年22の子供部屋おじさんは思ってならない。


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