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横並び

先日、友人と出かけた。目的は遠方の美術館。わたしには久しぶりの遠出だった。友人の車を走らせ、山道を抜け、海を眺め、港を通り過ぎて目的地に着いた。
友人は長距離の運転に慣れているので、わたしは助手席係に徹する。飲み物とおやつを用意して、流れゆく車窓からの景色をぽつぽつと読み上げるようにひとりごちた。雨だった。せっかくのお出かけ、「あいにくの」と枕につけてしまいそうな天気だったが、でも、少なくともその日のわたしたちにとって雨は心地よかった。「これくらいの雨っていいね」「ね、晴天より疲れないよね」「日光は強いと疲れるんだよ」「わたしも」新緑にしたたる雨粒はいくらでも眺めていられそうだった。信号で止まるたびに見慣れない町をきょろきょろと見渡す。「あの看板見て」「あれ? ん? 『やってられるか!』って書いてある」「気になるよ、なんの不満をぶつけた看板なんだろう」「でも、えらくきれいな看板だったね、最近できたのかな」

目的の美術館に着くまでにどこかで昼食を、という話だったのだが、なかなかめぼしい店が見つからない。ファミリーレストランやファストフードのチェーン店はいくらもあったけれど、どうもそんな気分ではなかった。
「なに食べたい?」わたしは右を向いて運転している友人に問いかける。「なんでもいい」「それ一番困るやつね」「うん。でもわたし、いつもこう言うんだよ。本当になんでもいいんだもん」「たしかに、好き嫌いないもんね」「うん」運転の隙間にこちらを見て言う。減速しながらペットボトルのキャップを外して、友人は器用にお茶を飲んだ。

街中だし、走らせていれば適当な店はあるでしょう、とのんびり構えていたのだが、いいかもと思った店は反対車線沿いであったり、やたら入りにくかったり、「定休日」の看板が店の前に出ていたりで、結局どこにも寄らないまま美術館に着いてしまった。
「着いちゃったね」「そうだね。でも、美術館の中にきっとカフェとかあるよね」すぐに調べると、充実したランチメニューのあるカフェが併設されていることがわかった。「ここにしよう」「妥協してごはんを食べなくてよかった」「そうかもだね」雨は小降りで、傘はささずに駐車場から歩いた。平日だったからか、駐車場は昼時でもあまり混んでいなかった。

チケットも買わず、まっさきに腹ごしらえをとカフェに向かう。観覧後に作品の感想を語りあったり、ゆったりと思いを巡らせるようにして過ごす客が多いのだろうが、わたしたちはお腹が空いていた。空腹には勝てない。観覧後に、と悠長なことを言っていたらランチタイムを逃してしまう可能性だってある。

無事にカフェに入ると、四人掛けの大きめのテーブル席を案内された。店内は混んでいたが、ひとりの客も多い。混雑する時間帯にふたりでそのテーブルを占領するのは申し訳ない気すらしたが、せっかくなので楽しむことにした。
テーブルの片方にはソファが、片方には椅子が二脚並んでいる。「どっちがいい?」尋ねはしたが、流れでわたしはソファ席に、友人は椅子に座った。

形だけメニューは開いたが、ふたりの注文するものは決まっていた。その展覧会にちなんだ限定メニュー。ケーキとコーヒーもついており、わたしの好きなチーズケーキも選べるのだった。「もちろんケーキはこれね」子どものように確認して、店員を呼ぶ。

オーダーを終え、わたしたちはぐるりと店内を見渡した。広い窓の外は木々の緑とかすみのような淡い雲の白。しっとりした空気は店内にも伝わっている。寒すぎず暑すぎず、視界はちょうどよく靄がかかっていて、外の静けさと店内のしゃべり声の対比に安心した。みんな雨の中ここに来て、濡れないかしらと少しはらはらしたりなんかして、でもこのカフェに入ってほっと一息ついている。きっと、日常の束の間の安息なんだろうな。観覧後の気持ちの高揚を抱えている人もいるかもしれない。あるいは平安を。

「見て。ランプがおしゃれだね。ひとつひとつ模様が違うよ」
「ほんとだ。微妙に全部違う鳥の絵だ」
「レジのところのはひときわ豪華だね」
「ね。ねね、見て、あの老夫婦」
「あのテーブルの? 並んで座ってるふたり?」
「そう」

わたしたちの真横の列に位置しているテーブル席で、老夫婦が食事をしていた。そのふたりはソファ席に並んで座り、食事をしていた。向かい合っているのではなく、横並びで。

「横並びだ」
「ね。いいな」
「いつもああやって座ってるのかな」
「どうなんだろう」
「ね、わたしたちも横並びしようよ」
「え?」

わたしは友人に目配せし、横に置いていたかばんを隅にどけて席を空けた。

「いいけど」

友人が立ち上がってわたしの右横に座る。

「なんか不思議だね。慣れない」
「でもこのほうがメニュー見やすいね」

戻してあったメニューを広げたりしながらわたしは言った。「横並びっていいなあ」
会話が落ち着くと、ふたりとも正面を向いた。わたしたちの正面にあたる壁には小さな絵が掛けられていた。あまりに小さく、さほど視力のよくないわたしたちには、その絵の詳細やタイトルや作者名はその席から読めないのだった。

話しかけるとき、わたしたちは横を向いてお互いの顔を見た。この感じがいいんだ、と思った。「ねえねえ」と相手に話しかけるとき、きちんと相手のほうを向く感じが。相対しているときは、相手の顔がずっと正面に映っている。ずっと。ずっと相手の目を見て話すことは(わたしには)できないから、会話の途中で目をそらしたり、顔を斜めに向けたりする。横並びは逆だ。意識をし、姿勢を変えないと相手の目を見ることはできない。
でも本来、相手の目を見るとはそういうことなのではないだろうか。相手を意識して、こちらの体を相手に向けて、つまり心も体も相手に向けることが、目を見ることなのではないだろうか。
横並びだと、向けられることも心地よい。わたしを意識してくれているんだ、ときちんと感じられる。相対しているときに不意に視線を逸らされるかなしさみたいなものがない。
電車で横並びに座っているときや、車の中での運転席と助手席の位置関係が落ち着く理由も、きっとこれが関係しているような気がする。相手の視界にわたしは常にいるわけではない。「視界に入れたい」と思うときに、主体的に視界に入れるもの、としてわたしが存在している。逆もまた然り。

そうそう、料理家の栗原はるみさん夫婦もこうやって座っているのだというのを、どこかで読んだ気がする。どういう理由でかはわからない。あの場所で見かけた老夫婦もだけれど、長年連れ添った夫婦だとこの位置関係の意味も違うのかもしれない。

そして、これはきっと「ふたり」の醍醐味なのだろうな。三人であれば横並びはコミュニケーションが取りにくい席次になるかもしれない。どうなのだろう。やってみようかな。
日常で気づくことがこんなにたくさんあるとは、と思う。何に引っ掛かったんだろうとか、何に違和感を覚えたのだろうとか、そういうことを蔑ろにしてはいけないな。きっとそういうことに、埋もれている言葉があるんだ。

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