見出し画像

ものすごく不便な店であること

プロフィール欄にも書いている「オンライン自助カフェ」を運営して、三年余りが過ぎた。
運営、などと書いたけれど大したことはしていない。週に一、二回、朝の十五分という短い時間、自助っぽいおしゃべりができる場をオンライン上に作っているだけ。
ミーティングではなく、カフェ。コーヒーとか、好きなものを飲みながらなんとなく話ができる場、というイメージでカフェにした。「おはよう」の挨拶だけでもいいし、悩み相談でもいいし、近況報告でもいいし、「きょう仕事行きたくない」の弱音でもいいし、楽しい休日の計画の披露でもいい。なんでもいい。誹謗中傷や他人の噂話を禁止している以外、決まり事は特にない。言いっぱなし・聞きっぱなしのルールも設けていない。

正直なところ、ぜんぜん盛況なカフェではない。
年次報告の必要があるため、開催回数や参加人数などの概数は把握しているので、本当に盛況でないことはわかっている。
完全にわたしの都合でスケジュールを決めているため、時間は固定しているものの、毎週、曜日はばらばら。開催告知は日時を決めてしているけれど、よっぽど関心を持っていないとスケジュールを覚えようとするひとはいないだろう。わたしひとりで十五分を過ごすこともままある。

始めたばかりの頃は、参加してくれるひとがたくさんいたらいいのになと思っていた。わたしのやりたいことに共感してくれるひとがたくさんいて、関わりたいと思うひとがたくさんいて、実際に参加してくれるひとの数が増えていくことを望んでいた。「ウオズミのやっていることはすごいね」と言われたかったかもしれないし、「やってくれてありがとう」と言われたかったかもしれない。興味を持ってくれて、行動に移してくれて(≒参加してくれて)、それが参加人数という数字に表れることが良いことだと思っていた。

いまでもそのような気持ちがゼロというわけではないかもしれない。でも、年月を重ねていくうちに少しずつ気持ちの変化があった。この小さなカフェをやり続けることの意味が変化していった。
実際に来られなくても、このカフェが存在していることをこころの片隅に留めておいてくれたら、それでいい。行ってみたい、そこにいる誰かと話してみたいと思うけど、やっぱりきょうはやめておこう、と思っていてもそれでいい。きょうもあしたも行かないけど、たぶん来月も再来月もやっているだろうから、気が向いたらその時に行くのでいいや、と思ってくれたら、それでいい。
やり続けていたらそんな気持ちになった。理想主義者の綺麗ごとっぽく聞こえるかもしれないけれど、本当にそうなのだ。このカフェの存在を知らせている(決して多くはない)ひとたちのことを、少しずつではあるが信じられるようになったのかもしれない。彼女らのことを信じる気持ちが、わたしの自信のなさや自己肯定感の低さを凌駕していったのかもしれない。

そんなことを思いながら、先日もカフェを開けた。
開けてすぐ、ひとりの子が入ってきてくれた。この場を開設してから、途中のお休み期間がありながらも、たぶん一番来てくれている子。来てくれていることは、うれしい。
前述した通りぜんぜん盛況なカフェではないから、わたしとその子のふたりで時間が過ぎていく日もよくある。わたしは、ふたりで話をすることは特に苦痛ではない。とはいえ、まだ「少々の沈黙は気にならない」というほどでもない。

その日、彼女は言った。
「きょうは誰か来てくれますかね」
ときどき、彼女はそのようなことを言う。「もっとたくさん来てくれたらいいですよね」とか、「○○さんが来てくれないかなあ」とか。
そのような言葉を聞くと、やっぱりというか、まだというか、ちょっと揺らいでしまう。参加者は多いほうが良い。価値がある場になる。多くのひとに良さを知ってもらいたい、だってこんなにいいところなのに。彼女は暗にそう言っている。ひとえに、わたしのこの場を応援しているがゆえに、だと思う。

応援してくれている気持ちはありがたい。でも、わたしはいまそこにいない。そしてそれを彼女にうまく伝えることができない。
伝えなくてもいいことなのかもしれない、と思う。応援してくれてありがとう。そこから次の言葉は、彼女にとって不快だったり、見下されていると感じる言葉になるかもしれない。あるいは、敗者の負け惜しみか。
だから、なんとも言えない気持ちになるし、「やっぱりそうでないと意味がないのかなあ」と足元がぐらつく感覚になる。迷う。

毎週の開催告知を見て、わたしのことを思い出してくれているひとがいる。
そのひとは、実際にはほとんど来ない。でも「ああ、ユウちゃん今週もやってくれてるんだね」と思い出してくれているらしい。そんな言葉をわざわざ掛けてくれたりもしないし、そもそも滅多に話をしたり連絡を取ったりはしないのだけど、この前なにかの流れで漏らすようにその言葉が聞こえたとき、わたしはとても嬉しかった。同時に、これでいいんだよね、と思った。

べつの子で、その子も来ることはないのだけど(一度も来たことはない。そしてきっとこれからも来ることはないだろうと思う)、始めた当初からわたしのカフェを知っている子がいる。始めたときに「こんなのやり始めたんだよ」という程度に話をしたことはあったような気もするけれど、それ以来わたしからはこの場の話はしていない。「知って、来て」と、その子には不思議と思わない。
この前その子とひさしぶりに話をしたとき、「ユウちゃんまだ自助カフェやってるの?」と聞かれた。うん、やってるよ。めっちゃ細々とだけど。もう三年以上になるかなあ。十五分間、ひとりで待ってる日もあるよ。
「え? 十五分しかやってないんだ。知らなかった。すごく小さいお店だね」
彼女が少し驚いたことにわたしは驚いた。そうか、知らなかったんだ、言ってなかったっけ。
「昔ラジオで誰かが『世の中には不便な、行きにくいお店がもっとあってもいいんじゃないか』ってなことを言っていたのを思い出したよ。どういうくだりでそんなことを言っていたのか忘れたけど。なんか、そうだよなあ、って思ったのを憶えてる。で、いま思い出して、ユウちゃんのカフェってそういうお店みたい、って思った」
「誰が言ってたんだろう。どういう意味で話したのか真意はわからないけど、それを聞いてちょっと救われたよ。わたしのお店、不定休、というよりしょっちゅう閉まってて、入ったら狭いカウンターに三席くらいしかなくて、メニューはコーヒーと紅茶だけ、みたいなとこだもんね」
たぶん、彼女とこのやり取りをしたときに、わたしは、この自助カフェを続けていくことの芯みたいなものが強くなった気がする。根拠とかはぜんぜんないのだけど。わからないけど信じてやる、やってみる、という気持ちの芯みたいなもの。

こんな不便な店がいいのかどうかはわからないけれど。でも、来年も続けていきたいし、「店を良くしたい」という前向きな気持ちはあるし、自己満足では終わらせたくない。
ふらっと寄ったひとが安心しておいしいコーヒーをのめるように。ものすごく不便だけど、これからもよろしくお願いします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?