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夕飯をあきらめない覚悟について

こんにちは。お疲れ様です。突然ですが、このnoteを読んでくれているあなたの今日の夕飯は「あきらめた」夕飯でしたか?それとも「あきらめなかった」夕飯でしたか?

メシを食うには意識が必要(いまさら)

というのも、最近、今日は夕飯を食べることをあきらめなかったなあ、と感じる日が多くなってきたように思ったんです。

だからどうしたって話だとは思うんですが、つまり、夕飯を食うのには「食うゾッ!!」っていうそれなりに強い気持ちと覚悟が必要なんだな〜というのを25歳になって初めて感じられるようになった、ということです(当たり前のこと)。


飯を食うための意識って何

ご飯を食べるのって、コンビニで買って食べる、ファミレスで食べる、家で何か作って食べる…いろいろな手段があると思います。あとは一人で食べるor人と一緒に食べる、飯を食う時の状態にもいろいろあると思います。

その全ての食事に共通してに重要な要素になるのは、自分は何が食べたいのか、自分の意識と真摯に向き合うことだと日々感じています。

「おなか減ってるからとりあえずコンビニで何か食べよう」「お金節約したいからできるだけ安いものをチョイスしよう」「仕事疲れたから家にあるもの食べよう、何残ってたか思い出せないけど…」、、疲れていて余裕がないとどうしても食事に向ける意識が薄くなってしまいます。自分が何が食べたいのかもよくわからないまま、なんだかよくわからないものを口に入れて食事終了ーーみたいな感じ、よくあると思います。

私はその状況は「飯を食うための意識がない」そして「夕飯をあきらめている」状態だと思っています。そしてその状況はその人の生活の質が地に落ちる予兆、または証だと思っています。


豊かさを自分の手で手に入れることの意味

私は人間各自が幸せになるためには、その人自身の努力(工夫)が必須だと考えています。

その努力の中には「生活のなかに意識を向けて、意識的に行動を変えていく」みたいなものも含まれていると思っています。

夕飯一つに関しても人間が豊かになるためには、何をどう食べたいのか、小さな意識を向ける努力が必要なんじゃないかと思っています。

確かに適当に食べた食事でも、その料理が美味しければ美味しいでしょうし、満足できるでしょう。
でもそこにあなたの意識はありません。全部偶然です。ご飯が偶然おいしかったんです。ラッキーだったんです。実家のご飯がおいしかったのは、ただのラッキーです。
実家で美味しいと思えるご飯が出てこない家もあります。そういう人は自分の手で意思をもって美味しいご飯を手に入れる努力をします。
そういう意識をもって生活している人は、どこに行っても誰と暮らしてもどんな状況に陥っても、自分が満足できる美味しいご飯を手に入れる工夫ができるようになると思います。
逆に食うことに対して意識のない状態で暮らしていた人は、自分の外(環境)に自分の豊かさの素を委ねてしまっているので、その環境がなくなったときに自分の豊かさを確保することができないんじゃないかなと思います。

つまり

てな感じで、

同じ豊かさレベルでも、自分の手で手に入れたものなのか人から与えられたものなのか、またそのことに気付けているかどうか、
つまり意識の有無でその後の豊かさレベルは結構違ってくるんじゃないか
夕飯をあきらめない姿勢が人生においては重要なんじゃないか

みたいなことを思いました〜!という話です。文章力はこれから身につけるので許して…

こんな文章でも最後まで読んでくれたあなたに感謝します。ありがとうございます。美味しいものを食べて幸せになりましょう。

〜Fin〜

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