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引退コンサート

プロローグ

 中部地方の某県にある有名オーケストラの団員たちは近々行われるリハーサルを行っていた。このオーケストラは全国でも知られているオーケストラで、毎年の大晦日には有名な指揮者を迎えて市のコンサートホールでベートーヴェンの『第九』を演奏していた。今回の公演は通常のプログラムの小規模な公演だが、団員にとってはこの公演は特別の思いのあるものだった。

 オーケストラの団員の中に松沢さんという人がいる。この松沢さんはチェリストであり、オーケストラ団員の中で最古参である。コンサートマスターは別にいるが、彼こそこのオーケストラの精神的な支柱だ。なぜなら松沢さんはオーケストラの結成当時からの団員だからだ。しかしそれ以上に皆が彼を尊敬し心から頼りにしていたのは松沢さんその人の人間性である。松沢さんは一度もコンサートマスターにはならなかったが、実際はコンサートマスター以上の事をしていた。団員同士の揉め事を収めたり、新人団員の相談に乗ったり、あと最近新しく専属指揮者となった若い指揮者とコンサートマスターが演奏を巡って揉めたときも松沢さんが二人の間に立ってくれてうまく収めてくれたのだ。彼を知る人は皆松沢さんは苦労人だから人の心がわかるんだとよく言っていた。

引退

 その松沢さんが今回の公演を最後に引退することになった。団員たちが彼から引退の意思を聞かされたのは一か月前の事である。その日団員たちはいつものように練習をしていた。その練習の終了後に突然松沢さんがみんなを呼び止めて時間があったら自分の演奏を聞いてくれないかと言ったのだ。皆いつも控えめな松沢さんが自分から演奏するなんて珍しいとは思ったが、しかし当然松沢さんの頼みを断わるものなどなく、それどころか松沢さんに向かって是非聴かせてくださいとお願いする始末だった。松沢さんは皆が見ているなか早速演奏を始めた。

 松沢さんが演奏したのはサン=サーンスのあの有名な『白鳥』だが、団員たちは松沢さんのベテランにしか出せない枯淡の味わいのあるその演奏に聴き入った。そして演奏が終わると皆が一斉に松沢さんに拍手を送ったのだが、松沢さんは指を口に当てて皆を制すと悲しげな表情でこう言った。

「みんな最後まで聴いてくれてありがとう。僕は今回の公演で引退します」

 この突然の引退宣言に団員たちは驚きのあまり言葉を発することが出来なかった。さっきの演奏を聴いても衰えなど微塵も感じない。まだまだ現役でいられるはずだ。団員たちはみなそう思ったが誰も口に出せずにそのまま沈黙していた。やがてコンサートマスターが不安げな顔で松沢さんに言った。

「松沢さん、いきなりどうしたんですか?コンサートだって控えているのに悪い冗談はやめてくださいよ」

 しかし松沢さんは根っからの真面目人間で冗談を言うような人ではないのは団員たちは、口にした本人であるコンサートマスターにも、わかっていた。団員たちは一斉に松沢さんのそばに寄りやめないでくれと訴えるように見た。

 松沢さんはいったん目を閉じてそれからゆっくり目を開くと、自分の周りに集まった団員たちを前にして改めて自分の引退の意思をかたった。

「いきなりびっくりさせて悪かった。だけどね、これはずっと考えていたんだ。二年ぐらい前から指が思うように動かなくなってね。何度も引退を申し出ようとしたんだ。だけどその時にみんなの悲しむ顔が浮かんできてね。もう限界だと思いながら結局今の今まで来てしまった。もう限界だ。さっきの『白鳥』だってあんな短い曲なのに弾き終えると指が震えてきてしまうんだ。だから僕は今回の公演で音楽家を引退することに決めた。本当は年末の第九までいるつもりだったけど、今年は第九やらないしね。まぁ仕方ないさ。だけどそれが僕らしいかもしれない。まぁ、波風立てないようにそっと消えるさ」

 この松沢さんの話をみんな胸に詰まるような思いで聞いた。団員の中には涙を流しているものさえあった。

引退する松沢さんのために出来ること

 その翌日、他の団員は別の仕事に出ていた指揮者や昨日の練習に参加しなかったものも来て団員たちは松沢さんの引退について語り合った。昨日来ていなかった人間は松沢さんの突然の引退宣言に驚き昨日のメンバーのように泣き出すものもいた。指揮者は若さのせいかいつもプログラムや演奏を巡って県やオーケストラの団員と対立しがちな自分を心優しく宥めてくれた松沢さんがいなくなることに不安を抱きこれから自分はどうしたらいいのだろうかと考えた。松沢さんは今日通院のため休んでいるが、もうじき本当にいなくなってしまうのだ。彼らはいつも松沢さんが座っている空席の椅子を見てそんな思いに囚われた。その時若い団員が今度の公演で引退する松沢さんにサプライズを送ろうと言いだした。するとオーケストラマスターが一瞬指揮者をチラリと見てから若い団員に言った。

「だけどそんなことウチの若先生が認めるかねぇ。若先生はいつも言ってるじゃないか。観客は音楽を聴きに来てるんで、あなたたちを見に来てるわけじゃないんだよ。だからステージでは私情なんか捨てて演奏に全集中しろよってね」

 指揮者はこの自分への露骨な嫌味を聞いて撫然とした表情でオーケストラマスターを見た。二人は普段からソリが合わない。いつもならつかみ合い寸前のケンカまでいくところだが、今日は違った。指揮者はいつものように突っかからず団員たちに向かって好きなようにやればいいと言ったのである。

「アンタたちが松沢さんを送りたいなら好きなようにすればいい。どうせ今回はいつものチャイコフスキーとかモーツァルトとかのつまらんプログラムなんだし、松沢さんの引退セレモニーを入れても問題はないよ」

 団員たちは指揮者の相変わらずのつっけんどんな態度に腹が立っだが、しかしそれ以上にこの芸術家肌の堅物が松沢さんの引退セレモニーを許可するとは思わなかったのでびっくりして顔を見合わせた。若手の団員は驚いて指揮者に向かって「ホントにいいんですね?僕らが何やってもいいんですね?」何度も確認をとった。すると指揮者はうざったそうな身振りをしながら答えた。

「さっきも言っただろ?好きにすればいいって!あなたたちもそうだけど松沢さんには僕も感謝してるんだ。僕はあの人がいなかったらこんなとこ辞めてさっさと東京に帰っていたかもしれないんだからな。とにかくセレモニーが決まったら僕に報告してください。そしたら市の職員と相談するから」

 そう言うと指揮者はくるりと皆に背を向けて立ち去っていった。指揮者が去ると団員たちは集まって松沢さんのためにどうしたらいいか相談し合った。皆がああでもないこうでもないと考えてると、さっきの若い団員が手を上げてちょっと提案していいですかと声を上げた。団員たちは一斉に彼を見た。

松沢さんの憧れのひと

 若い団員はみんなが注目する中彼が松沢さんから聞いた話を語り出した。団員の話によると一ヶ月前ぐらい前の事、ロック好きの若い団員は練習の休憩時間に同じ年頃の女性団員に地元で週末にライブをやる人気ロックバンドについて熱く語っていた。女性団員もそのバンドのファンだったので二人で盛り上がっていたが、その時に松沢さんが通りかかったのである。若い団員は松沢さんに挨拶したのだが、その時に松沢さんはニッコリ微笑んで二人に言った。

「君たちはいいねぇ~。夢中になれるものがあるんだから」

 若手の団員は松沢さんに向ってうなずくと笑顔を浮かべて松沢さんに聞いた。

「そういえば松沢さんって若いころはどんな音楽聴いてたんですか?やっぱりクラシック一筋ですか?」

 若い団員によればこう質問された松沢さんは難しい顔をして考え込んだらしい。松沢さんは人のいい人で相手に対してひどく気を使う人だ。だから彼は若手の団員の質問になんとか答えようとしていた。そして答えが見つかったのか松沢さんは顔を上げて答えた。

「う~んとねえ。ずっと昔好きだった歌手がいるんだ。たぶん君たちは知らないだろうけど山川キヨ……」

「山川潔?それってKIYOSHI YAMAKAWAのことですか!?へえ松沢さんがシティポップ聴くなんて意外ですね」

 松沢さんが意外な歌手の名前を出してきたので若い団員は身を乗り出して聞いた。しかし団員の話によるとその時松沢さんは困ったような顔をしたそうだ。それからしばらく黙り込んだ後でこう答えたそうだ。

「そのKIYOSHI YAMAKAWAって誰だい?全く知らないな」

 松沢さんの言葉を聞いた女性の団員が呆れたような顔をして若手の団員に突っ込んだ。

「バカじゃないのあなた。松沢さんがシティポップなんて聴くわけないでしょ!松沢さんは生まれてからずっとクラシック一筋で生きてきたんだから!」

「でもさ。KIYOSHI YAMAKAWAと松沢さんって年だって近いだろ?だから名前ぐらい知ってんじゃないかと思ってさ」

「こういうのに年齢とか関係ないの!私たちと違ってさ松沢さんはすごい真面目なんだから変なこと言っちゃダメよ!」

 松沢さんは目の前の二人をなだめてから話し出した。

「いや、そうじゃないんだ。確かに僕は流行歌には全く疎いけど、それは家が貧乏でレコードを買う金がなかったからだよ。同じチェリストだった父が若くして亡くなってね。それからうちは貧乏になってしまんだ。でも母はやっぱり偉大だよ。女手一つで僕を育てて音大まで出してくれたんだからね。というわけで僕は同年代のみんなが聞いていた音楽はろくに聴いてないんだよ。……ごめんね、辛気臭い話になって。で、さっき僕が話した山川キヨさんなんだけど昔活動していた歌手の人なんだ。彼女は僕と同い年だけど凄い早熟な人でね。僕が小学生の頃から歌手活動をしていたんだ。子供なのに彼女のレパートリーは広くてね。クラシックからポピュラー音楽までなんでも歌えたんだ。普段は東京で活動してたんだけど、県主催の催し物でこっちにくる事もあって彼女はそこで無料のコンサートをやっていたんだ。多分全部で三回来たのかな?小学生から中学生の間だけど僕は全て行ったね。父を亡くして貧窮の真っ只中にいた僕にとって彼女の歌は一筋の光明みたいなものだったよ。多分あのコンサートで彼女の歌を聴いていなかったら今チェロなんかやっていなかっただろうね。今こうして音楽家としてやっていけているのは実は彼女のおかげなんだよ」

 二人は松沢さんの話を感慨深く聞いた。どんな人にもドラマがあると言う事を改めて思い知った。女性の団員は思わず松沢さんにこんな事を聞いた。

「それってなんか恋バナみたいですね……」

「何だね?そのこいばなってのは」

「いやだわ~!そのまんま恋の話ですよぉ〜!松沢さんにもそんな時代があったんですねぇ〜」

 若い団員によるとその時松沢さんは遠い目をして窓を見ながらこんな事を呟いたそうだ。

「そうだな……。あれは恋だったのかもしれない」

 しばらくしすると若い団員は再び松沢さんに聞いた。

「その山川潔……いやキヨさんってどんな曲歌っていたんですか?」

 松沢さんはそう聞かれると目を細めてこう言った。

「彼女は歌が上手かったからとにかくいろんなものを歌ってたね。シューベルトの曲とか『荒城の月』とか。歌謡曲だと美空ひばりとか歌ってたっけ?ああそうだ。彼女は自分のオリジナル曲も歌ってくれたんだっけ。『熱海の夜』っていうチェロの伴奏がいい曲でね。今でも思い出して口ずさみことあるよ。ああ〜悲しや悲しや。あの人を思ひて一人佇む熱海の夜ってね。その歌を思い出すたびにせめて一度ぐらい彼女の横でチェロの伴奏したかったなと思うのさ」

「その人今も現役なんですか?」

 それを聞くと松沢さんはしばらく考え込んで言った。

「さあわからないね。私が楽団に入った頃に彼女が結婚して活動を休止したって話を聞いてそれからどうしているのかわからない。元気にしてるといいんだがね」

松沢さんへのサプライズ

 団員たちは若い団員が話す松沢さんの過去のエピソードをしみじみと聞いた。話を聞いていると山川キヨのコンサートに熱心に通い詰めていた松沢少年の顔が浮かんできて自分たちの知るはずのない過去への郷愁にかられてきた。そして若い団員は一旦話を止めると団員たちに向かってこう言ったのだ。

「俺、松沢さんが引退するって言い出した時、今話した松沢さんの話を思い出したんですよ。俺たちずっと松沢さんにお世話になりっぱなしだったじゃないですか。だから僕なりに松沢さんを最高の引退セレモニーで送り出してあげたいって思ったんですよ。だからなんですけど……あの、みんなで山川キヨさんを探しませんか?」

 若い団員がこう言った時団員たちは一斉にどよめいた。みんなコイツいきなり何を言い出すんだと言った目で彼を見た。しかし若い団員は真剣そのものだった。彼はみんなの怪訝な顔を見ると今度はハッキリと自分の提案を述べた。

「つまりですね。俺はKIYOSHI YAMAKAWA……じゃなくて山川キヨさんを松沢さんの引退セレモニーに呼びたいんですよ。最後の舞台に彼が憧れていた歌手の歌を伴奏させてあげたいんです。だからみんなで山川潔……いや山川キヨさんを探しましょうよ!」

「しかしだよ。こういう発言はいささか不謹慎かもしれないがそもそもその山川清……じゃなくて山川キヨさんはご健在なのかい?探した結果すでに亡くなられていたら感動のセレモニーどころか余計な悲しみを松沢さんに与えるだけじゃないか。その人は松沢さんと同い年なんだろ?たしかに今は人生百年時代だ。だけどね。人間年を取るといろんな病気に見舞われるんだ。その山川キヨだって生きている保証はないよ。それにいざ探すって言ってもどうやって探すんだ?君の話だと彼女は長い間消息不明だっていうじゃないか。そんな人をコンサートまでに見つけるなんて雲をつかむような話だ」

 たしかにオーケストラマスターのいう通りだった。長い間消息不明だった人間を一ヶ月の間に見つけるなんて雲をつかむような話だ。だけどと若い団員は再び話はじめた。

「だけどそんなの探して見なきゃわからないじゃないですか。たしかにマスターの言う通り山川キヨさんは亡くなられているかもしれない。だけどですね。もし彼女が生きていて何かしらの形で音楽活動をなさっいるとしたらきっと俺たちのメッセージは届くはずなんですよ。今はTwitterもあるしその他にも僕らのメッセージを広める場所は沢山あるんです。だから彼女を探してみましょうよ!」

 最初はあまりに現実離れした若い団員の提案に全く乗り気でなかった団員たちも彼の熱い語りに感化されたのか。次第に山川清……いや山川キヨを探そうという気持ちになってきた。しかしやはり最大の懸念については若い団員に聞かねばならなかった。

「君のいう事はよくわかったよ。だけどさっき言ったようにその山川キヨさんが亡くなられていた場合はどうするんだ?隠しておくわけにいかんだろ?」

「もし亡くなっていたらそれを確認したときにまた考えますよ。だけど俺なんか山川キヨさんはご健在だと思うんですよ。なぜかそんな気がするんです。俺の好きなシティポップ歌手のKIYOSHI YAMAKAWAだって未だに行方不明だけどみんな生きてるって信じてるんですよ。だから山川潔……じゃなくて山川キヨさんだって生きているはずだしもしかしたらまだ現役で音楽活動をしているかもしれない。だったらTwitterで呼びかけたり、ネットで検索して連絡先を探せばすぐにコンタクトが取れるはずなんだ!」

 若い団員の熱意に煽られるように他の団員たちも今すぐ探しましょうよ!とか口々に言い出した。コンサートマスターはみんなをなだめてもう一度彼に聞いた。

「もう一つ聞きたいことがある。我々が松沢さんのためにその山川キヨさんを探すとしてその事を松沢さんが知ったらどうするんだ?あの人の性格だったら僕のためにそんなことしなくていいって言うだろ?そうなったらどうするんだよ」

「それに関しては全く問題ないと思う。大体松沢さんが根っからの活字人間だって事はみんなわかってるじゃないですか。あの人との連絡手段って未だに黒電話でしょ?ネットどころか料理店にあるタブレットの操作すら出来ないんですよ。この間もみんなでご飯食べに行った時あの人タブレット触ろうともしなかったじゃないですか。何度注文のやり方教えても僕にはダメだとかずっと言っていて。だからネットに関しちゃ全く大丈夫だし、後はみんなが松沢さんに気取られないように気をつければいいんです。当たり前だけどもし山川キヨさん本人か関係者から電話なりメールが来ても松沢さんのいる前では絶対に連絡取らない。出来ればプライベートの時間に取る。これを守れば松沢さんにバレる事は恐らくないと思う」

 団員たちは若い団員の言葉に深く頷いた。みんなの反応を見てコンサートマスターは団員たちに向かって言った。

「みんな山川キヨさんを探す事に賛成なんだな。わかった。俺が明日指揮者のあいつに許可貰ってくるよ。あの野郎の事だからそんなバカげた事にプログラムを割くなとか言うかもしれんがね」

「でもあの人さっき好きなようにやればいいって言ってだじゃないですか。そう言われたらさっき好きなようにやれって言ったじゃないですかって言ってやりぁいいんですよ」

 この若い団員の発言に団員たちは一斉に笑った。そしてみんなの笑いが収まった時コンサートマスターは言った。

「しゃあねえなぁ。みんなあの若造を説得する俺の身にもなってみろよ。とにかくなんとか説得してやるからみんなは大人しく待ってろよ」

 そして翌日コンサートマスターは指揮者に松沢さんの引退セレモニーに呼ぶために山川キヨを探すことを伝えたが、意外な事に指揮者はあっさりと承諾したのだ。コンサートマスターはあまりに呆気なく承諾されたので驚いていると指揮者はコンサートマスターを呆れたように見て言った。

「だから昨日も言ったじゃないですか。あなたたちの好きなようにやれって。その山川キヨさんて人を探して松沢さんに合わせたいんだろ?併せてあげればいいじゃないか。僕だって松沢さんには助けてもらってるんだ。それぐらいの事に文句は言わないよ。ただ……」

 指揮者はここで言葉を切って急に厳しい表情で黙り込んだので、コンサートマスターは不安になって思わず指揮者の顔を凝視した。

「ただあなたたち自身でその山川清さんを探すのには反対だ。あなたたちにはまずコンサートをやり遂げるという大事な使命がある。まずコンサートに向けて全集中してもらいたいんだよ。だからその山川清さんを探すのはこちらに全て任せてくれないか?実は県の職員に異常に音楽に詳しい男がいてね。その男はクラシックは勿論ジャズとかロックとか世界各地の民族音楽とかそれに歌謡曲まで幅広く知ってるんだ。僕はこの間彼にギョーム・ド・マショーのシャンソンについて聞いたら、マショーから始まってエディット・ピアフから越路吹雪までのシャンソンの歴史について延々と聞かされたよ。彼にかかればすぐに山川清さんの所在は掴めるんじゃないかな。とにかく松沢さんの事は彼にに任せてあなたたちは演奏に全集中してくれ」

「あの、一つ言っとくけど我々が探しているのは山川清じゃなくて山川潔……これも違う。あ……山川キヨさんですからね。間違って赤の他人に連絡しないでくださいよ」

「ああわかったわかった。それはちゃんと県の職員に伝えるよ。名前間違えるなよって。あとそれと松沢さんの引退セレモニーのためにプログラム変更するんで決まり次第団員に報告するから」

 指揮者の部屋を出るとコンサートマスターはすぐ団員たちに県の職員が山川キヨを探すことを報告した。聞かされた団員たちはやったあと喝采を上げたが、その時本日の練習に来る予定のなかった松沢さんが何故か入り口にいたのを誰かが見つけみんなに向ってシーっと合図して黙らせた。

松沢さんの憧れのひと見つかる

 その三日後指揮者とコンサートマスターは県の職員から山川キヨと連絡を取ったという報告を聞かされた。意外とすぐに連絡が取れたそうだ。県の職員によれば彼がTwitterに『熱海の歌を歌っていた山川キヨさんを探しています』と書きこんだらすぐにメールが来た。なんでも今は茨木でスナックをやりながらカラオケ教室をしているそうだ。それで職員はコンサートに出れるかと聞いたのだが『いつでも準備満タンだ。久しぶりのコンサートに喉が震えてきた』とすぐに返信が着たそうだ。その報告を聞いたコンサートマスターは練習終了後に団員たちに向けてメールで送ったが、そのメールの末尾に太文字で『コンサートの日まで絶対誰にも口外するな!』と念を押すことを忘れなかった。


 それから一週間後に演奏プログラムの変更の予定表が指揮者から団員たちに配られたのだが、松沢さんはそのプログラムのいちばん下に自分の名前があるのを見てビックリして団員たちを見た。団員たちは彼に向ってニッコリと笑ったまま黙っている。しばらくしてから指揮者が立ち上がって話を始めた。

「今回松沢さんの引退セレモニーのために急遽プログラムを変更しました。そのために三曲目にやるはずだったあなたたちの大嫌いなバルトークをドヴォルザークに差し替えて松沢さんの引退セレモニーための時間を作りました。ドヴォルザークだったらあなたたちも慣れているだろうしすぐに対応できると思います。まあとにかくコンサートまであともう少し。それまで力を抜かず共に頑張りましょう!それで松沢さん?松沢さんにはとりあえずソロで一曲演奏してほしいのですが、何を演奏しますか?」

 そう聞かれた松沢さんはこの発表自体にビックリしていたので質問の意味さえまともに聞いていなかった。ただ自分のために指揮者が今回のコンサートで絶対にやりたがっていたバルトークをプログラムから外したことに驚き申し訳なくなってしまったのだ。指揮者はバルトークをやるために県やコンサートマスターをはじめとする団員たちとよく激論を交わしていた。県やコンサートマスターをはじめとする団員はバルトークは次にやる二十世紀音楽の宴でやればいいじゃないかと意見し、対して指揮者はそんな現代音楽好きしか集まらないところでやってもしょうがない、一般の家族向けの通常コンサートでやるから意味があるんだ。一般の観客にいつまでもチャイコフスキーだのモーツァルトだのつまらないレパートリーを延々と聴かせてもしょうがないでしょ!彼らにもっと現代的な音楽を聴かせないと!と反論した。結局議論は収集がつかなくなり結局松沢さんが指揮者の言う通り一回挑戦してみようじゃないかといってみんな指揮者の要求を呑んだのである。まさか指揮者が念願の曲を自分のセレモニーのために取り下げるとは。松沢さんはみんなに向って自分の引退セレモニーなんかやめて通常のプログラムに戻してくれと頼もうとしたのだが、その時彼はみんなが自分をまっすぐ見つめていることに気づいた。松沢さんはそのみんなの視線に自分への熱い思いを感じ取った。おそらく彼らは自分への感謝のために引退セレモニーを企画してくれたに違いない。松沢さんはもうみんなの希望を受け入れるしかなかった。彼は団員たちの自分への想いに感動して思わず涙ぐんだ。

「松沢さん、松沢さん!どうしたんですか?演奏曲は何にしますか?みんな待ってますよ!」

 そう声をかけたのはあの若い団員だ。彼はにこやかに松沢さんに語り掛けて促した。すると松沢さんは涙で言葉を詰まらせながら言った。

「サン=サーンスの『白鳥』でいいです」

 松沢さんがこう答えるとみんな一斉に拍手した。引退曲にしてはあまりに出来すぎの選曲だがやはりこれが松沢さんの引退にふさわしい曲なのだ。それから松沢さんは号泣してしまい、涙を拭おうとせず何度も団員と指揮者に向って頭を下げた。


 その後正式に完成したプログラムのポスターが団員に配られたのだが、松沢さんはそれぞれの曲の演奏時間を計算してそれがコンサート予定時間より20分ほど短いことに気づいた。彼はみんなに曲の演奏時間が予定時間より短いことを指摘してコンサートに空き時間が出るじゃないかと心配したが、みんな何故か含み笑いをして大丈夫ですよと答えた。

現役最期のコンサート

 そしてとうとうコンサートの日が来た。日も松沢さんの引退を見守るために姿を現し、演奏ホールは燦燦とした日光に照らされていた。会場は県の有名オーケストラのコンサートとあって早くも席が埋まり、後から来た人は暗がりの中自分の席を必死で探していた。

一方楽屋ではオーケストラ団員は最後のミーティングを行っていた。団員の想いは一つだった。今日は引退する松沢さんのために最高の演奏をしなければならない。そして松沢さんの引退セレモニーを最高の形で終わらせたい。ミーティングが終わると若い団員はコンサートマスターを呼び出して山川清……じゃなくて山川キヨさんはいつ到着するんだと聞いた。コンサートマスターは今県の職員が連絡を取っているが電車の遅延で一時間ほど遅れるらしいと答えた。しかし松沢さんの引退セレモニーには絶対に間に合うだろうと付け加えた。しかし若い団員は不安だった。もし到着しなかったら松沢さんは白鳥を演奏し彼が前に言っていたように自分たちの前からそっと消え去ってしまうだけだろう。それだけはごめんだ。彼はもう一度コンサートマスターに山川キヨさんは本当に間に合うのかと聞いた。だがコンサートマスターは彼の肩をおもいっきりつかんで彼をなだめた。

「バカやろ!お前最初あんだけ山川清……じゃなくて山川キヨさんは生きているって言ったじゃないか!そして確かに山川キヨさんは生きていたんだぞ!全く奇跡だよ!で、山川キヨさんは生きていてそして松沢さんの引退セレモニーに来てくれているんだ!最後の最後でこれねえってことはないんだよ!だから待つんだ!奇跡の到来をただ待つんだよ!」

 若い団員はコンサートマスターの言葉に思わず涙した。そしてすみませんとうなずいて楽屋に戻った。

 松沢さんはいつものように静かに出番を待っていたが、指揮者が自分のところに来たので向き直って頭を下げた。そして感謝の気持ちを述べた。

「ただのチェリストでしかない自分のためにわざわざこんなセレモニー開いてくれてありがとうございます。これで心おきなく引退できます」

「いや、僕じゃなくて団員みんなが提案したことなんです。僕はあなたに対して何もしてません。本当は僕が一番あなたにお世話になっているのに」

 指揮者の言葉を聞いて松沢さんは目を細めた。そしてゆっくりと口を開いた。

「何を言っているんですか。僕はあなたが指揮者としてここに来なかったらもっと早く引退してたはずなんです。あなたの厳しい指導がなかったら今日までやって来れなかった。あなたは僕の音楽人生の恩人の一人なんですよ。だから僕はあなたに最大の感謝を捧げます。そして一つお願いがあるのですが……」

 とそこで松沢さんは一旦話を止めて一呼吸した。そしてこう言った。

「あなたはいずれ大きな舞台に出る人だ。東京からニューヨーク、そして最後にはウィーンかな。とにかくいつまでもこんなところにいる人じゃないのはわかっている。だけどもう少しだけここにいて……団員達を見守ってやってあげてやってください」

 松沢さんの言葉を聞いて指揮者は泣き出した。あのプライドの高い指揮者が涙するなんて想像しなかったので周りの団員たちはびっくりしてしまった。


 いよいよコンサートは始まった。レパートリー自体はいつもと変わらぬものであったが、オーケストラの気迫はいつもと違っていた。なんといっても今日は松沢さんが引退する日なのだ。最高の演奏をしなければならなかった。松沢さんもみんなの気迫に煽られて張り切ってチェロを弾き倒した。今回は現在のオーケストラでは最高のモーツァルトであったし、最高のチャイコフスキーであったし最高のドヴォルザークであった。そしてすべての曲の演奏が終わると客席から一斉の拍手が鳴り響いた。拍手がやむと場内アナウンスが流れ始めて観客が一斉にどよめいた。

「次は当オーケストラのチェリスト松沢さんの引退セレモニーです。どうか皆様ご一緒ご観覧お願いします」

引退セレモニー始まる

 その会場のアナウンスを聞いて松沢さんは照れながらこう言った。

「僕の引退セレモニーなんて誰も見ないよ。みんなもうコンサートは終わったって帰りの準備を始めているんじゃないかな?」

 若い団員はその松沢さんの言葉を聞くと急に厳しい表情をして言った。

「そんなことないですよ。きっとみんな松沢さんの引退セレモニー見たがってると思いますよ。だってこのオーケストラをずっと支えてきた松沢さんの引退セレモニーじゃないですか。絶対にみんな見たいはずです」

 若い団員の厳しい言葉を聞いて松沢さんは「すまん」と申し訳なさそうに頭を下げた。その時である。突然県の職員が楽屋に入って来て山川キヨの到着を知らせてきたのだ。松沢さんはその名前を聞いてひどく驚いた。あの人がまさかこんなところに来ているとは。もしかしたら自分の引退のために団員が呼んだのだろうか。松沢さんは思わずそばの若い団員に聞いた。しかし若い団員は話はあとでお願いします。もうすぐ時間ですよ。と言うとさっさとその場を去ってしまった。その通りもう時間はなかった。会場のスタッフがお客さんが待っていますので早めにお願いしますと言って彼を急かした。


 松沢さんは人生で初めてのスポットライトに包まれながら登場した。松沢さんはその長い音楽人生で一度もソロでコンサートをしたことがない。ずっとオーケストラの一員として舞台に立っていたのだ。ソロで演奏をするのは大体音楽教室で生徒に見本を示す時だけだった。松沢さんはそのまま舞台の中央へと歩いて行く途中で客席から割れんばかりの拍手が聞こえてきたので思わず立ち止まった。彼はステージから観客席を見たのだが、驚くことに観客はまだ満杯だった。みんな自分の引退を見るために残っていてくれたのか。松沢さんは目頭を押さえたが、今は演奏の時と身を引き締めて足早に中央の席へと歩いた。そして席に着くと無言で椅子に座りチェロを構えて『白鳥』の演奏を始めた。

 松沢さんの音楽家人生最後の『白鳥』は全く素晴らしかった。観客やオーケストラの団員たちにとって松沢さんの『白鳥』は白鳥の歌ではなく希望に満ち溢れたもののように聴こえた。松沢さんの音楽家人生は確かに今日で終わりだが、しかし人生は続いていき、もしかしたらまたチェリストとしてオーケストラに戻ってくるのではないか。そんなことさえ思わせる演奏であった。そうして感動のうちに演奏が終わり、観客のブラボーの歓声と拍手が場内に鳴り響く中場内アナウンスが再び始まった。

「では次は本日の松沢さんの引退セレモニーのために駆けつけて方を紹介します!松沢さんがずっと憧れていた歌手の山川キヨさんです!ではお二人とも最後にご一緒に演奏しましょう!曲は山川さんの代表曲『熱海の夜』です!」

感動の再会!

 こうアナウンスが告げた途端観客は一斉に立ち上がって山川キヨ……を迎えた。しかし松沢さんは前を向いたまま動かない。きっと恥ずかしくて憧れの人に顔を向けられないのだ。場内はまだざわめきがおさまらない。いやさきほどよりももっとざわめきが大きくなり始めた。松沢さんは緊張を耐えて山川キヨさんに挨拶しようと思ってゆっくり体を山川キヨさんに向けた。

「おいなんだよ!この辛気臭せえ会場は!全身真っ黒な服着てお前は葬式の帰りかよ!それになんだお前?そんな重くせえチェロなんか抱えて!お前は童話のアリとキリギリスのキリギリスかよ!そんなアホみたいな恰好で俺の曲演奏するつもりかよ!今からでも遅くねえ。もっとましな格好に着替えて来いよ!あとそんなキリギリスみてえな楽器置いてギター持ってこい。じゃなきゃ歌ってやんねえからな!」

 場内はこの突然呼ばれてステージに現れたこのギンギラギンの服を着て首に金メッキのチェーンを下げている人物の登場騒然となっていた。これが松沢さんの憧れの歌手の山川キヨさん?名前からして女性だと思ってたけど男性だったの?それは場内だけでなくステージの袖で見ていたオーケストラの団員も同じように驚いていた。彼らはこれはどういうことだと県の職員を問い詰めた。県の職員は彼らの質問に答え、確かに山川清で間違いない。熱海の夜って曲は検索に出てこなかったが、その熱海の夜ってサビのフレーズがアヴァンチュール・ナイトって曲に入っているからこれで間違いないと断言した。それを聞いてオーケストラの団員は一斉に職員と彼に山川キヨの捜索を依頼した指揮者を取り囲んで、自分たちが探していたのは今いる山川清じゃなくて山川キヨだろうが!さんざん名前間違えんなっていったのに何で間違えるんだよ!と怒鳴りつけた。指揮者はコイツが全部悪いと職員に責任転換し職員は職員で山川キヨなんて歌手は検索しても出てこなかった、だから山川清で間違いない!と言い張った。

 ステージの松沢さんは山川キヨさんの代わりに何故か現れたヤクザみたいな男の登場に驚きのあまり止まっていたが、やがて我を取り戻して男にこう聞いた。

「あの、あなたどちら様でしょうか?恐れ入りますがここは音楽を演奏する場所でして……ええとですね。多分場所を間違えられたのではないかと思うのですよ」

「何が場所を間違えただ!テメエらで人呼んどいて!オーケストラの松沢って爺が俺のファンで引退コンサートすっから会いに頼んできたのはテメエらじゃねえか!なのになんだその言いぐさは!それが茨木からわざわざこんな山ん中まで来てあげた人間に対していう言葉かよ!」

 松沢さんはすっかり気が動転して何が何だか分からなくなってしまった。どうしてこんなヤクザみたいな人を呼んだのだろう。さっき山川キヨさんが来たって県の人が言ってたけどあれは何だったのだろう。松沢さんは恐る恐る男に名前を聞いた。

「歌手の方だったのですね。存じ上げなくて申し訳ありませんでした。私がその松沢です。何かうちの不手際があって申し訳ありません。……あの失礼ですが、お名前はなんとおっしゃるのでしょうか?」

 それを聞いて男は怒りに身を震わせた。この爺ファンだとか言って人呼んどいて名前も知らねえなんて舐めてんのかオメエは!もしかしたらこの爺さんボケてるのかもしれねえ。しょうがねえじゃあいやでも思い出させてやる!と男は考えて手に持っていたレコードを松沢さんの前に突き出した。すっごく古いそのレコードの帯にこんな宣伝文句が印字されていた。『シティポップの帝王登場!スティーリー・ダンの完璧さとボズ・スキャッグスの熱いソウルを持つ男が歌う危険な恋のアヴァンチュール!』そして車に乗って助手席の金髪女を侍らせたジャケットの中央にはKIYOSHI YAMAKAWA/山川清と斜めフォントででっかく載っているではないか。

「これで思い出しただろ?そう俺はお前らが泣いて呼びたがっていたKIYOSHI YAMAKAWAこと山川清よ!わかったか!わかったなら早くそのキリギリスみてえな楽器でもいいからさっさと俺の曲演奏しろ!」

「いや、いきなり演奏しろと言われても知らない曲は演奏できません。譜面があれば演奏できるのですが……」

「しょうがねえなこの爺は!まだボケる年でもねえのにもうボケちまったのか!じゃあ俺が歌って思い出させてやるよ!」

 そう言うと山川清はポケットからスピーカー付きのポータブルプレイヤーを取り出した。それからボタンを押して口を開けるとカセットテープを取り出してくるくると回した。そしてまわし終るとカセットを再びポータブルプレイヤーに入れてスタートボタンを押した。すると静まり返った場内に普段クラシックを聴いている観客どころかまともな耳を持った人間にはとても聴けたものではないほどの酷い歌謡曲まがいの雑音が鳴り響いた。その雑音に乗せて山川清はのどを震わせて歌いだした。

「ああ~!アヴァンチュールナイトゥお~!熱海の夜は~!」


 松沢さんをはじめ観客と袖で見ていたオーケストラ団員はこの酷すぎる歌が流れている間ずっと耳をふさいでいたが、そばにいた松沢さんはあまりの酷い雑音に耐えられずその場に倒れてしまった。それでも山川清は意気揚々と歌い上げそして観客に向って拍手を求めた。倒れた松沢さんを救おうとオーケストラの団員が一斉にステージに集った。そして会場全員で山川清を指さして叫んだ。

「お前誰だよ!」


おまけ

「あの~ですね。コンサート会場はどちらにございますでしょうか。あの私昔歌手をやっておりまして今は東京の世田谷で音楽教室をやっている橋田キヨ、旧姓は山川キヨといいます。先日孫からこちらの県の方がおばあちゃんのこと探しているって聞きましてそれでお電話を差し上げたのですが……」

「はあ、そうですか。わざわざご連絡ありがとうござます。だけどもうコンサート終わってしまいましてね。……あのもしかして先日引退された松沢さんのことでしょうか。あっ、松沢さんなら今臨時スタッフとして次にやるコンサートの運営を手伝ってもらってるんですよ。ちょうどここに来てるんでよかったら本人に代わりましょうか?」

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