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うどん拾遺集 〜忘れられし逸話から伝わるうどんの歴史

この記事は現代ですっかり忘れ去られた天かす生姜醤油全部入りうどんの逸話を集めたものです。この古から拾い集められた逸話集を読んで古き良き日本を偲びましょう。

 日の本の国々を生み出していたイザナギとイザナミは四国の地に作った讃岐国を気に入り、より立派なものにしようと富士よりも大きな泰山のような山を置こうとした。しかし二人はこの狭き四国にそんな大きい山など置いたら噴火した時に島が溶岩で覆われて人の住めないところになってしまうことに気づき、ならばと讃岐国の人々に富士の山より美しい食べ物を与えたという。それが富士の山より白く美しい天かすが降り積もり、琥珀色の生姜と五回まわしの黒龍の醤油がふりかけられている世界で一番美味しい料理と呼ばれている天かす生姜醤油全部入りうどんである。


 飛鳥の時代。朝廷は物部氏と蘇我氏による争いで混乱していた。物部氏は蕎麦を食し、対する蘇我氏はうどん食していた。この両氏は互いに自分の食するものが世の中で一番美味いと主張し、暴力沙汰にさえなる有様だった。帝は間に立った両氏を諌めたが、しかしそれでも両氏は互いに譲らずとうとう戦になってしまった。戦は最初の内は物部氏の方が優勢であった。しかし蘇我氏はうどんの粘り腰で徐々に盛り返し、そしてとうとう物部氏を討ち果たしたのであった。聖徳太子は蘇我氏の粘り腰の強さに驚き隣の蘇我馬子にどうして蘇我の軍はこんなのも粘りがあるのかと尋ねた。馬子は太子の言葉を聞いて微笑みそれは天かす生姜醤油全部入りうどんのおかげだと答えたという。

 皇極の御代。かつて天かす生姜醤油全部入りうどんの力で物部氏を滅ぼした蘇我氏はすっかり力に溺れうどんの心を忘れてしまった。一族の当主である蘇我入鹿はうどんに天かす生姜醤油を悍ましきものと忌むようになり、うどんなぞ酒のつまみにもならぬと宣いあの忌むべきそばばかり食べるようになった。これを見て後の天智天皇、中大兄皇子は此奴らを討ち果たさねば天下が乱れると嘆いた。そこに現れたのが中臣鎌足、のちの藤原鎌足である。二人は蹴鞠の席で出会った後夜一緒に天かす生姜醤油全部入りうどんを食べながら天下のために入鹿を誅しようと計画を立てた。計画が出来上がると二人は早速入鹿を誅せんと、酒とそばで宴会を行うと嘘をついて彼を宮内におびき寄せ見事誅した。今際の際で入鹿は驚いたという。そばと酒を期待して宮内に駆けつけたのに、目の前にあったのは天かす生姜醤油全部入りうどんだっからである。中大兄皇子と鎌足は入鹿が誅してから間もなく父の蝦夷も謀反の罪で捉えんと兵を差し向けたが、皇子は蝦夷の屋敷の前で兵士たちに天かす生姜醤油全部入りうどんを食べさせたという。蝦夷は兵士たちがうどんを美味しそうに食しているのを見て己の敗北を悟って自害したが、当時の人々はこれを四面楚歌ならぬ、四面うどんと語った。この四面うどんこそのちのきしめんの語源となったものである。

 疫病を治めんとして東大寺の大仏を発願したあの聖武天皇は本物の仏教を学ばんとして唐の国から鑑真和尚を呼び寄せた。鑑真は五度渡日に失敗し六度目にしてようやく日の本の地にたどり着いたが、その鑑真の苦労話を聞いて帝は驚き何故に失敗に重ねてもめげずに日の本くる事を諦めなかったのか問うた。すると鑑真は心の目を見開いてそれは天かす生姜醤油全部入りうどんを食べていたからだと答えた。これを聞いて帝はいたく感動し、朕も其方のようにうどんを食べて諦めぬ心を持ちたいと言った。すると鑑真はでは唐本場の天かす生姜醤油全部入りうどんをご披露しようとそばに仕えていたうどん職人に天かす生姜醤油全部入りうどんを作らせたのだった。帝は鑑真を崇め彼の食べていた唐本場の天かす生姜醤油全部入りうどんを生涯召し上がられていた。今際の際に帝は朕は天かす生姜醤油全部入りうどんなくして大仏開眼など出来なかったと仰せられたという。

 天台宗の開祖である弘法大師こと空海には空山なる兄弟子がいた。しかしこの男は空海のように歳にも運にも恵まれず唐に行くどころか都落ちして讃岐の山のボロ寺に左遷されていた。唐から帰ってきた空海は兄弟子が不遇な状況にあるのを知り、彼を救おうと兄弟子の住まう讃岐のボロ寺へと向かい唐から伝授された天かす生姜醤油全部入りうどんの技法を伝えたという。空山はこの弟弟子の行為に感謝し讃岐の地に天かす生姜醤油全部入りうどんを広めんと布教をしたのだが、そのおかげで讃岐は日本のうどんの発祥の地となったのである。後の世の人はうどんを日本にもたらした人物として空海ばばかり語り、うどんを国風化させた空山について語る人はほとんどいない。しかし空山なくして天かす生姜醤油全部入りうどんはなく、讃岐が火の元一のうどん国と言われる事はなかったのである。

 受験の神様として知られ、また日本三大怨霊の一人として恐れられている菅原道真はうどんが好きで、唐へと向かう遣唐使たちにうどんを持って帰って来るように頼んでいた。道真は日の本に帰ってきた遣唐使たちが約束通り持って帰ってきた大量の天かす生姜醤油全部入りうどんを毎回
食べていたが、ある時期からうどんのコシが著しく落ちていると思うようになった。最初のうちはたまたまコシのないものを献上されたのだと考えていたが、食べるごとにうどんが柔らかくなっていくのを感じて、とうとう唐の未来は危ういかもしれぬと思い至った。道真が帝に遣唐使廃止を進言したのはそれからすぐである。道真の進言は藤原氏をはじめとした大貴族は大反対した。中でも一番反対したのは道長の政敵である藤原時平である。この男は道真と同じうどん好きであったが、唐文化一辺倒の男でうどんは柔らかければ柔らかい方がいいと考えている愚か者であった。道真はもはや滅びゆく唐に学ぶべきうどんなしと讃岐からうどんを取り寄せて大和の天かす生姜醤油全部入りうどんを作り宇多の帝に献上したが、帝はこの天かす生姜醤油全部入りうどんをいたくお気に召し道真を右大臣に任命した。それを知った時平は道長を追い落とそうと悪巧みをした。宇多の帝が退位し、のちに醍醐天皇となる皇太子が帝になると時平はこの新しい帝に、道真が天かす生姜醤油全部入りうどんなどというコシだらけの邪道料理を無理やり食わせている。これは謀反だと讒言した。常々父から虫歯だらけの自分に合わない天かす生姜醤油全部入りうどんを食わされていた帝はこの時平の讒言に乗り共に道真の追放を企てた。間もなくして道真は謀反の罪で咎められ、大宰府に流されてしまった。その後道真は太宰治の地で弁明の機会を与えられぬまま亡くなったが、それから間もなくして彼を謀反の罪に陥れた時平と醍醐の帝が立て続けに亡くなった。人はこれを道真の祟りのせいと噂しあったが、真相は時平と醍醐がコシのないうどんばかり食べていたせいですっかり体が鈍ってしまったせいだと言われている。

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」の歌で有名な摂政藤原道長だが、その権力への道のりも決して順風満帆ではなかった。いくら摂関家の家に生まれたとは兄弟たちがおり、道長は彼らとの出世競争を勝ち抜いていかねばならなかった。道長は兄たちに勝つためには体力を身につけるしかないと考え弓道に打ち込み、的に百発百中当てるほど上達したが、それでも足りぬと考えていた。いくら弓が上達しようが兄たちを殺めるわけにはいかぬ。しかし手をこまねいていたらもしかしたら自分がポックリ逝ってしまうかもしれぬ。道長はそこでふと天かす生姜醤油全部入りうどんの事を思い出した。この食べ物はとある寺に参った時に振る舞われたが、その時寺の住職はこのうどんはコシがあり、しかも天下に五回まわしのご縁のあるめでたい代物と言った。道長は目の前のうどんの形状の奇怪さに箸すら手をつけずにうどんを下げさせたが、今それを思い出してうどんにあやかろうと思ったのであった。そうして道長はうどんのおかげで摂政になれたが、じきに自ら歌に詠んだように権力に溺れ天かす生姜醤油全部入りうどんを食べるのを疎かにするようになった。とある月夜の晩である。道長は月夜を見て「この世をば〜」と謡い始めた時、突然気を失いそのままあの世へと逝ってしまった。道長は死に際に己の愚かしさを悔いたという。天かす生姜醤油全部入りうどんを毎日欠かさず食べておけばよかったと。

 平安の王朝文化の華やかなりし頃。清少納言と紫式部という二人の女御がいた。二人は数多の文を書く女御の中で最も秀でており、共に切磋琢磨して文を書いていたが、清少納言はその機知と派手な言動で宮中の注目を集めてた。彼女はうどんを田舎びたるものと軽蔑し、あのようなものを食べていると豚になる。大体天かす生姜醤油全部入りうどんなど豚の餌そのままではありませんかと言い放った。彼女は主にそばを食べ、うどんも細切りの薄味のものしか食べなかった。この清少納言の言葉を聞いて紫式部は大激怒した。都風を吹かした軽薄女が何を言うか。天かす生姜醤油全部入りうどんこそ天の慈悲が満ち溢れた日の本一の食べ物。紫式部は清少納言がいかにそば好きの天かす生姜醤油全部入りうどんを知らぬ軽佻浮薄な人間であるか書いて批判したが、しかし誰もこの式部の言葉には耳を傾けなかった。式部はなぜみんな自分の話を無視するのかと悔しさに泣き、泣きながら天かす生姜醤油全部入りうどんを啜ったが、その時彼女はふとある物語を思いついたのである。それが日本文学の最高傑作『源氏物語』である。式部は思いつくと早速物語を書き始めた。彼女は天かす生姜醤油全部入りうどんのコシに導かれて渡った天かすと生姜と醤油の桃源郷で思う存分物語と戯れた。この物語はたちまちのうちに宮中で評判となり、紫式部の名はあっという間に清少納言を追い越してしまった。そばしか食べていなかった清少納言には紫式部に対抗する力はなく、それから間もなくして亡くなったという。紫式部は後に人にこう言ったという。天かす生姜醤油全部入りうどんなくして光源氏の物語は書けなかったと。

 律令制度を作り政りごとを整えた天武天皇はさらに己が権威を盤石なものにしようと文化事業に取り組んだ。帝は天かす生姜醤油全部入りを手に下々に向かい、このうどんが生まれる前から天かす生姜醤油全部入りうどんになるまでの歴史を書け、と仰せられた。帝の命を受けて大臣たちは宮中の学者を集めて天かす生姜醤油全部入りうどんについての歴史を記述させたのである。それが『小麦』転じて『古事記』である。その古事記にはイザナギとイザナミが讃岐の地に小麦の苗を植えた事から天かす生姜醤油全部入りうどんが作られるまでの歴史が書かれており、続いて天かす生姜醤油全部入りうどんの作り方が詳細に綴られている。はなまるうどんでかけうどんを注文してかけうどんを乗せたトレーを渡されたら薬味コーナーで天かすと生姜と醤油を入れる。白き雪のような天かすは富士の山より高く振りかけ、それから琥珀色に光る生姜はスプーン大さじ一杯を落とし、最後に五回まわしに醤油を注ぐ。すると画竜点睛の如く天かす生姜醤油全部入りうどんが生き生きとし始めるのである。うどんはキャビアやフォアグラなどよりはるかに美味なものであり、万薬の長とも呼ばれている。天かす生姜醤油全部入りうどんは日の本そのものであり、日の本の歴史は天かす生姜醤油全部入りうどんなくして語れぬと『小麦』転じて『古事記』に記されている。


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