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感動ストーリー!幸福の天かす生姜醤油全部入りうどん!

 あの人はどうしているのだろうか。と私は今出てきた刑務所を振り返りながらこう考えた。こうして勤めが終わっても私の罪は消えない。あの人に対して犯した罪は一生かかっても償いきれない。あの時自分でも訳のわからぬ力が働いてあの人を思わず窒息死させようとした。ああ!あの時私はあの人の善意がわからず、悪意と捉えてしまった。だからあの人にあんな事を……。もしもう一度会えるのだとしたら今すぐ逢いたい。そして全て私の誤解だったと涙を流して謝りたい。だけどそんな望みなど今の私には贅沢すぎるというもの。こうして再び世に出られた今、私はただあの人に近寄らず遠くから幸せを祈るだけだ。

 私は再び正面に向き直って人を待った。その人は私の身元引き受け人になってくれる人だ。この人は私が刑務所に入ったときから顔も知らないのによく手紙や見舞い品を送ってくれた。だけど一度も私に会いに来なかった。その人が今私に会いに来る。一体何者なのだろうか。こんな親にも縁を切られた犯罪者の身元引き受け人をなってくれる。顔も知らない性別さえわからない人。当然最初私はこの人を怪しんだ。だけどこの人の手紙は心情溢れるものでひょっとして私の知り合いなのかとさえ思わせるところがあった。私はコートの襟を立てて早い秋風が吹いている網走の空の下でその人を待った。

 しばらく待っていると遠くから人影が見えた。私はもしかしたらと影を見つめたが、その姿はだんだん大きくなってきた。明らかにこちらに向かって来ている。私は影が晴れ、そこに男性の姿を見た瞬間思わず胸を押さえた。まさか、あの人が、私が殺しかけたあの人が私の身元引き受け人になって……。

 だけど期待はあっさりと裏切られた。私の前に現れたのは全く知らない中年男だったのである。彼は私の前に立って自己紹介してきた。彼は香川県で讃岐うどん屋を経営しているそうだ。彼は私にそこで働いてみないかと誘いをかけて来た。私は久しぶりに聞くうどんという言葉を聞いて頭痛がした。あの出来事が記憶から一気に溢れて来たのである。あの忌まわしい出来事。忘れたくても忘れてはいけない罪。だけど彼は何故私をうどん屋に雇うと言うのか。私の犯罪歴を知っていれば一番うどんに関わらせたくない人間のはずなのに。私は恐る恐る彼に尋ねた。

「何故私をうどん屋に雇おうと思ったんですか?あなたは私がしでかした事をよく知っているでしょう?」

 私の問いに彼は沈黙した。しばらくの沈黙の後彼は少し歩かないかと言って歩き出した。私は彼についてその背中をまっすぐみた。すると彼が突然振り返って私に言った。

「うちの客にね。うどんが異常に好きな男がいるんだが、その男は東京から来た男でね。今近くの介護施設で働いているんだ。いいやつなんだが一つ問題を抱えていてね。彼は記憶喪失なんだ。昔うどん生地を口の中に詰め込まれて死にそうになったことが原因でね、自分の過去を全く忘れているのさ。ここまで言ったら僕が何故あなたの身元引き受け人になったか大体の想像がつくだろ?」

 わかりすぎるほどわかった。この讃岐うどんの店主の言っている男は私のかつての恋人。私が憎しみのあまりうどんで締め殺しかけたあの人だった。だが、喜ぼうと思っても喜べる話ではない。今の私とあの人は加害者と被害者。それも殺人絡みのものなのだ。喜ぶよりも恐ろしい。私が殺しかけた人はそのせいで記憶喪失になっていた。この男はどうしてそんな関係にある私たちを再会させようというのか。私は彼にこう言った。

「何故、何故あなたは私と彼を会わせようとするんです。私はあの人に会ってはいけない人間なんですよ。あの人だってたとえ記憶を失っていたとしても私なんかに逢いたくはないはずです。私がいなかったらあの人は殺されかける事もなく、記憶も失うことはなかったでしょう。あの人がそんな私に会ったらどうなるかわかりきったことじゃないですか。いえ、理由なんか答えなくて結構です。私は彼に会うわけにはいきません。会う資格なんてないんです。あなたのご行為には感謝していますが、申し訳ないけどここでさよならをしましょう」

 私は彼に何も聞かずに去ろうとした。あの人とどうして知り合ったのか。記憶喪失のあの人らどうやって私の存在を知ったのか。何故私の身元引受人になったのか。そんな事を知っても無駄だと思ったからだ。そんな事を知っても無駄。私はあの時全てを壊してしまった。私自身も、あの人の人生も、私とあの人が積み上げて来た全てのものを。男は息せき切って私を追いかけて来る。私は足を早めて男から逃げる。もういいの。私の事は放っておいて!

「待つんだ!」と男が叫んだ。私はその声に驚いて立ち止まってしまった。

「君、まだ話の途中じゃないか!人の話は最後まで聞くもんだろう!」

 と男は立ち去る私に向かって叫んだ。私はその叫びに金縛りにあったように立ち止まった。

「とにかく話だけは聞いてくれ。それからどうするかはあなた自身で考えればいい。やはり男と会わないというなら大阪の知り合いがやっているうどん屋に紹介してもいい。だけどあなたがもし逢いたくなってきたら、僕はあなたをあの男に会わせたい。それがあの男を自殺から救う唯一の道なんだ」

「自殺⁉︎何故彼がそんなことを考えるのです」

「いつまで経っても自分の記憶が戻らずその事で自分がまるで役立たずだと思い込んでしまうようになってしまったんだよ。最近はもう死ぬ死ぬ言っているんだ」

「そ、そんな……。なんで彼がそんなことを思うようになったんですか?彼にとってあんな忌まわしい過去の記憶なんかなくったっていいはずです」

 私はなぜ彼がそこまで人生に悲観的になっているのかわからなかった。自分はあの人を殺そうとした女。捏ねたうどん生地を口に詰め込もうとした女。そんな女がいなくなれば彼は救われるはずだと思っていたのに。

「これアンタだろ?」と彼は新聞記事のコピーを私に突き出した。それは私が殺人未遂で逮捕された事件の記事だった。記事の見出しには若い私が写っていた。この地味なうどん職人の女があんな大それた事をしでかすとは全く身の毛もよだつ。ああ!あの時彼があれを食べなければ殺人未遂なんて犯さなかったのに!

「こいつあ、アイツがずっと肌身離さず持ってる切れ端と同じ新聞記事だ。俺はアイツからこの新聞記事を見せられた瞬間、あの事件だとわかってすぐに図書館でコピーしできたんだ。アイツ記憶をなくしながらもアンタの写真の紙っきれはずっと持っていたんだな。アイツはこの写真を見るたびに涙ぐむんだよ。『病院でこの新聞を見て俺はこの新聞記事の女がずっと気になっているんだ。何故かこの女の写真見てると懐かしい感情が溢れてくるんだ。もしかしたらこの女昔会っているんじゃないか』てな。だから俺は思ったんだ。もしかしたらアンタに合わせたらアイツの記憶が戻るんじゃないかって」

 ああ!記憶を失くしたのにまだ私を想ってくれているのか。いや、記憶を失くしたからこそ美化された思い出だけが残っているのか。だけど現実は陰惨なものだ。お互いの深刻なうどん観の違いがあの悲劇を生んでしまった。あのうどんが私たちを悲劇に導いてしまった。何故あの人は私の作った通りにうどんを食べずに、あの醜い天かす生姜醤油を残らずぶち込んでうどんを食べたのか。あんな食べ方をしていなかったらうどん生地で彼を殺そうと思わなかったのに。男は戸惑う私の手を取って言った。

「なぁ、アンタは昔東京で最高の女うどん職人だったっていうじゃないか。多分アイツもアンタのうどんを毎日たらふく食べていたんだろう。アンタ、お願いがあるんだ。アイツに天かす生姜醤油全部入りうどん作ってやってくれないか。アイツは言うんだよ。俺は一度でいいからこの写真の女に天かす生姜醤油全部入りうどんを作ってもらいたいんだってな。だからこの通りだ。今から香川の俺の店に行ってアイツの前で天かす生姜醤油全部入りうどんを作ってやってくれ」

「だけどあなただって知っているでしょ?私はまさにその天かす生姜醤油全部入りうどんのために彼を殺めかけたんですよ。そんな人間が同じものを作ったらもし記憶を取り戻してもあの忌まわしい記憶まで思い出したら却って彼を絶望へと追いやってしまうじゃありませんか!出来ません!彼を破滅させることなんて出来ません!」

「だけどこのままじゃアイツは死んじまうだろうが!アイツは今の人生に絶望しているんだよ!俺の作ってやった天かす生姜醤油全部入りうどんを食べてアイツは言うんだ。これは俺の食べたい天かす生姜醤油全部入りうどんじゃない。本物の天かす生姜醤油全部入りうどんは愛情の味がするんだって。それはアンタがアイツのために愛情込めて作ったうどんだからだろ?なぁ、今から俺と一緒に香川に行こう。そしてアイツにアンタのうどんを食べさせてやるんだよ!このままいってもどうせアイツは死んじまうんだ。だったら可能性にかけるんだよ!」

 ああ!昔のようにあの人にうどんを作るなんて出来るわけがない。大体その資格なんて私にはない。だけどあの人のためにうどんを作ってあげたいという思いが天かすのように積もってくる。私は男に言った。

「わかりました。それで彼が救えるのなら香川であの人にうどんを作りましょう。だけどそれきりです。私はやはりあの人とは関わってはいけない人間。あの人にはその写真の女は私に似た人だとでも言っておいてください。お願いします」


 こうして私はうどん屋の主人である男に連れられて香川に来てしまった。香川には何度も来ていたし、うどんの聖地として思い入れもあった。だけど今の罪にまみれた私にとってはただただ辛い場所でしかなかった。ああ!このたくさんあるうどんたちは罪人の私をどう思っているだろうか。私は人殺しを、しかも捏ねたうどん生地で恋人を殺そうとした女。そんな女を快く迎えてくれるはずなどない。私は街中で足がすくんで立ち止まってしまった。うどん屋の男はその私の肩を叩いて言った。

「さあ、勇気を出すんだ。アイツが待っているぜ」

 そして私はとうとう男のうどん屋の前に来てしまった。男は暖簾をくぐって店のものにきてるか?と尋ねた。すると来ていますというやたら澄み切った声で店員らしき女性が返事をした。

 そのやりとり聞いて心臓が激しく鳴り出した。ああ!あの人は中にいる!私を待って中にいるのだ!だけどもはや名を打ち明けまい。たとえ彼の記憶が戻ったとしてもいいえ赤の他人ですよと立ち去るだけだ。

「さぁ、どうぞ」とうどん屋の主人は私を中に呼んだ。私はゆっくりと暖簾をくぐって店内に入った。そこに、ああ!そこにあの人が、あの人がテーブルに座っていた!確かに年月のせいでシワが増え、白髪も生えた。だけどそこにいたのは懐かしいあの人だったのだ。私は驚きを必死に隠した。私だとバレてはいけない。そこのお客さん?ここにいるのはただのうどん職人よ。だがあの人は私を見るなり立ち上がってああ!と声を上げた。私はまさか記憶が蘇ったのかと慌てたが、あの人は真顔に戻り「すまない。誰かと勘違いしていたようだ」と謝って来た。

 うどん屋の主人はあの人に向かって今日はこの人がうどん作るからと伝えた。あの人は表情も変えず主人に新人さんですか?と聞き、主人がそうだと答えると、興味がなさそうに私をチラリと見て顔を背けた。私はただの新人のうどん職人になりきってその彼に向かってよろしくお願いしますと挨拶した。すると彼は振り向きもせずにただ相槌を打った。私はそんな彼を見て悲しくなった。いくら記憶を失ったとはいえ、いくら私が他人のふりをしているとはいえ、このあまりにもそっけない態度はなんなのだ。目の前にいるのはあなたと共に暮らして来た私ではないか。私はこんなんだったら記憶の戻った彼に憎しみの刃で刺された方がマシだとさえ思った。無関心がこんなにも辛いものだとは思わなかった。主人は意気消沈した私にうどんを作らないかと声をかけてきた。

 私は主人に連れられて厨房に入った。ふんわりとしたうどん粉の匂いが私を懐かしい過去へと引き戻してゆく。子供の頃からうどん職人に憧れて高校を卒業して飛び込んだうどんの世界。男たちの中女一人で親方の叱咤を浴びながらうどんを捏ね続けた日々。そしてやっと一人前と認められて女手一つでうどん屋を開業したあの頃。最初のお客さんはあの人、今テーブル席に座っている記憶喪失の彼だった。主人は私にうどんを捏ねるとこからつくらないかと言って来た。私は長い間うどんなんか作ってなかったから不安だと答えたが、主人は「いや、あんなうどん粉見て体が疼いているじゃねえか、作れねえわけがない。一からアンタ仕込みのうどんを作ったらどうだい」と私を励ました。

 実際にその通りだった。いざうどんを捏ね始めると嘘のようにうどんの生地が体に馴染んで来た。ああ!うどんから遠く離れた歳月を飛び越えて私はあの頃に戻ったかのようだ。私はあの頃のように無我夢中でうどんを捏ね続けた。そんな私を見て主人は「さすが東京で最高と言われただけある。いい捏ねっぷりじゃねえか」と私を褒め上げた。そして私がうどん棒で伸ばしている時うどん生地を見た時も「こりゃいいうどんになりそうだ」と呟いた。なんてことだろう。まさかこんなにもうどんが自分の体に染み付いているなんて思わなかった。二度と作るまいと思っていたうどん。全てを忘れようとしていたのに。私は伸ばして折り畳んだうどんを包丁で切って行った。するとまた店主が私に「あんたとても久しぶりにうどんを作っているとは思えないよ」と感嘆して言った。

 うどんを茹でている間私は彼とのことをずっと思い浮かべていた。私のうどん屋の初めての客だった彼。その彼が注文したのはかけうどんだった。天ぷらも頼まずかけうどんだけを美味しそうに食べる彼を見てこの人はうどんがわかる人だと思った。その翌日に再び店に現れた彼。「うどんの味が忘れられなくてまた来てしまった」なんて言って。それから毎日うどん屋に来た。「アンタのうどんは最高だよ。もうアンタのうどんしか食べられない」ああ!それから二人はうどんのように絡まって、並べたうどんのように同棲したのに、何故彼はあんなものを……。

 その時私の鼻がうどんが茹で上がった事を知らせてきたので私はすぐさま我に帰った。うどんが茹で上がると鼻の中でうどんの香りが鼻中に広がるのだ。サッとうどんをざるに落とさなければならない。だがその時主人が怪訝な顔でちと早くねえかと言ってきた。しかし私はこれでいいんですと答えてそのまま麺をざるに落とした。これを見て主人は「そうか東京もんは歯ごたえのあるもんが好きだから麺は硬めで上げるんだな。アイツが何故か俺のうどんをどこか不満そうな顔で食べていた理由がわかったぞ」と言った。水で締めたうどんをどんぶりに移すとそこにうどん屋で仕込んである本場のさぬきのつゆをゆっくりと入れた。うどんの香りとさぬきのつゆが私の鼻の中で混じり合う。わたしはうどんにネギとかまぼこを入れて盆に乗せた。そしてそのまま彼の元に持っていこうとしたのだけど、その時主人は「大事なもん忘れているぜ」と言って山盛りの天かすと同じく山盛りの生姜を乗せた二つの皿を指差した。ああ!決して忘れたわけじゃない!ただそんなものは彼のところに持っていきたくなかったのだ。

 テーブルに乗せたうどんと天かすと生姜の山を見て私はあの悍ましい出来事を思い出した。あの日いつものように彼のためにうどんを作っていたら、彼が今日はこうやって食べたいんだと言って袋詰めの天かすと生姜を取り出していきなりうどんにぶち込んだのだ。これは私のうどん人生を徹底的に侮辱するものだった。今までうどん一筋で彼以外の男と交際していなかった私は彼が自分を捨てるつもりだと思い込んでしまった。彼はそんな私の前で天かすと生姜に醤油を五回回しでぶっかけたうどんを満足げに食べている。私はこの裏切り者を殺すしかないと思った。私のうどん人生を天かす生姜醤油全部入りうどんで全否定した男。許せない!許せない!お前なんかこのうどん生地で殺してやる!私は彼が「まいう〜っ!」と口を開けた瞬間を狙って丸めたうどん生地を投げつけた。投げつけた瞬間私は我に返りうどん生地を詰まらせて苦しみ悶える彼の口から慌ててうどん生地を取ろうとした。だけどうどん生地はなかなか取れず私は病院に電話をした。彼は必死の治療の末どうにか命は取り留めたが、私は殺人未遂の現行犯で逮捕され懲役6年の判決を受けた。私は刑事に向かって彼が天かす生姜醤油を入れて私のうどんを侮辱した事や、彼が私以外の女とできているかもしれない事を洗いざらいぶちまけた。別にそれで罪を軽くしてもらおうと思ったわけじゃない。ただ愛する男にうどんを侮辱された私の気持ちをわかってもらいたかっただけだ。だけど警官は私に身元調査の結果彼には他の女の影すらなく仕事先でも私の事を自慢げに話していた事を打ち明けた。全ては私の勘違いだった。ああ!なんてわたしはバカだったのだろう!

 テーブルのうどんと天かすと生姜をしばらく見ると彼は私に顔も向けずに新人さんの割にはずいぶんうまいねと褒めたけど、その割には興味なさそうにうどんを眺めていた。そんな彼を見て記憶など戻るはずがないと思った。だけどそれでいい。やはり私は彼のそばにいてはいけない人。あなたは一から新しい人生を始めればいいのよ。あなたの周りにはこんなに素敵な人がいるのだから。彼は箸を取り出すと天かすと生姜を続けてうどんに放り込んだ。ああ!なんて汚い食べ方だろう!なんで彼はこんな汚い食べ方をするのか。彼が天かすと生姜の上から醤油を五回回しでかける姿を見て私はまたあの忌まわしい出来事を思い浮かべた。あなたはいつからそんな汚いやり方でうどんを食べるようになったの?私といるときはうどんはやっぱりかけうどんに限るねなんて言っていたじゃない。ああ!天かすから油が滲み出て来て清らかなつゆを汚してゆく。私はその悍ましい悍ましい光景に寒気がした。だが彼は満足そうにそのまま箸をとってこの悍ましいうどんを食べ始めてしまった。彼は二口ほど食べて「このうどんのコシ。これは東京風だな」と呟いた。私それを聞いた瞬間ハッとして彼を見た。けれど彼はそのまま表情も変えずに天かすと生姜の入った汚いうどんを食べ切った。

 うどんを食べ終わった彼は空のどんぶりに箸を乗せると顔も上げずににごちそう様と言った。私は彼に向かってありがとうございますと白々しさにも挨拶をした。やはり記憶など戻りはしなかった。だけどこれでいいのだ。あなたは記憶が取り戻せなかったら自殺すると言っていたらしいけど、だけどあんな事を思い出したらあなたは自殺どころじゃなくなってしまう。さよならあなた。私はうどん屋の主人に目配せをした。やはりここにはいられない。私はうどんを捨てて人里離れたところで余生を送るわと彼に深く一礼してその場を去ろうとした。

 しかしその時であった。彼が、今までろくに反応しなかった彼が突然去ろうとする私を呼び止めたのである。

「ちょっと待ってくれ!アンタの作ったうどん、なんか食べたことある気がして来た。いや食べたことのあるじゃない。ずっと食べ続けけてきた懐かしい味がしたんだ。なんだ、なんだ!ああ!頭が痛え!」

 そう叫ぶと彼は激しくテーブルに頭を叩きつけた。私は驚き思わず彼の肩を抱いて「どうしたの?大丈夫?」と必死に呼びかけた。だけど彼は両手で頭を抱えて叫び続けている。主人は病院に電話するといってすぐさま自分のポケットからスマホを取り出した。私は自分の作ったうどんを食べたせいで彼の頭がおかしくなったのだと考えた。ああ!あんなうどん食べさせなければよかった!うどんを食べたせいで病気が発症してしまうなんて!とその時突然彼が動かなくなった。気を失ったのか。いや、まさか……そんな。

 だけど彼はゆっくりと頭を上げた。そして私を見たのだ。ああ!その目はまさか!彼はそのまま私を見つめ続ける。私は恐怖のあまり後退りした。まさか彼の記憶が戻ったなんて!いや、そんな事あってはならない。

「お前、お前なんだろ?」

 私は動揺して彼に答えられない。このまま逃げてしまおうか。だけどそんな事をしたら私は人でなしだ。ああ!彼は今立ち上がって顔を真っ赤にして私の方に歩いてくる。自分をうどん生地で殺そうとした女が目の前にいる。俺を破滅させた女をこの手で殺してやる!彼は今怒りの中できっとそう考えているはず。だけどダメよ!そんなことしたら今度はあなたは刑務所に入らなくてはいけないのよ。私はあなたが手を汚す価値なんてない女。あなたはただ私に二度と俺の前に現れるな!って怒鳴りつければいいのよ!ああ!それでも許せないというなら私は殺されても……

「すまなかった!全部俺が悪かったんだ!」

 突然の土下座だった。今彼は床に頭を擦り付けて私に赦しを請うていた。私は何がなんだかわからなかった。何故あなたが私に土下座するの?私はあなたを殺そうとした女なのよ。うどん生地を無理矢理あなたの口に詰め込んだ女なのよ。そんな女にどうして赦しを請うの?

「あなたがなんで謝るのよ!悪いのは全部私じゃない!あなたが天かす生姜醤油全部入りうどんを食べるのが嫌だってそれだけの理由であなたを殺そうとした私じゃない!私こそあなたに謝らなければいけないんだわ!」

「違うんだ!やっぱり全部俺のせいなんだ。俺がお前のうどんへの愛の深さを読み取る事が出来ず、よりにもよっていきなり目の前でうどんに天かすと生姜と醤油をぶちまけた俺が悪いんだ!俺はただ自分はいつもうどんはこうやって食べるんだ。確かに見た目は悪いけど食べてみると意外にも美味いんだぜって教えるつもりだった。だけど調子に乗っていた俺はお前のうどん愛と異様に感じやすい性格をすっかり忘れていたんだ。お前がそんな馬鹿野郎を殺してしまえって思ったのは無理もないさ。俺はうどんを愛するお前にしたら殺されて当然の人間なんだ」

「違うわ!違うわ!あなたが悪いんじゃない!うどんに囚われて周りを見失っていた私が悪いのよ!あなたがあの時天かす生姜醤油全部入りうどんを食べてもただ笑ってそういう食べ方もあるのねって受け流すべきだったのよ!それなのに怒りに負けてあんな事を!」

 私は土下座している彼の肩を抱きながら激しく泣いていた。彼もまた頭を床に擦り付けながら泣いている。そんな私たちに主人が言った。

「これじゃ埒が明かない。いっそあなたが自分でその天かす生姜醤油全部入りうどんを食べてみたらいいんじゃないかな。うどんの残りもあるし、つゆもあるからすぐに作れるだろう。どうせコイツも一杯じゃ物足りねえだろうし、二人分作ったらどうだい?」

 私は主人に向かって深く頷いた。やはり私も一度天かす生姜醤油全部入りうどんを食べるべきなのだろう。食べなければあの時彼が何故私の前で天かすと生姜を取り出したのかわからない。だけどあんな気持ち悪いものがまともに食べられるものなのだろうか。

 早速私は私と彼のかけうどんを二人分作り、続いて天かすと生姜を山ほどさらに入れると盆に乗せて再び彼のテーブルに置いた。そして私は昔のように彼の向かい側に座った。

「まるで昔のようだな」と彼は私に言った。私は彼の久しぶりの言葉に少し照れてしまった。

「食べよっか」と彼は私に言った。だが目の前の天かすと生姜の山をみたら尻込みしてしまった。ああ!やっぱり私にはダメだわ!この透き通るつゆの大海に天かすと生姜と醤油なんか入れたら大海を泳ぐうどんがへい死してしまうわ。天かすと生姜と醤油による公害でつゆの大海は二度とうどんの住めない海へと変わってしまう。そんな事私にできる筈がない。

「どうしたんだ。やっぱり食べたくないのか?確かにこのうどんの食べ方は汚いし、うどん職人のお前からすれば許し難き事だろう。でもうまいんだよ。美味くて美味くて箸が進んでしまうんだ」

 彼は山盛りの天かすと生姜を入れたうどんを食べながら満足げにそう言った。彼はツルツルと天かすがまとわりついたうどんを口に運んでいた。私はそれを見て食べる勇気が湧いてきた。震える手で箸をつかむとまず天かすと生姜をうどんに落とし、それから醤油を五回回しでかけた。さていよいようどんを食べなければならない。私の作った透き通るようなつゆの海を見事に汚した天かすと生姜と醤油。その中で魚のように空気を求めて口をあけるうどん。ああ!なんて哀れな!私はもう破れ被れてもしますがったら今度は殺しかねないほどの勢いでうどんを口の中に放り込んだ。

 なんて事だろう。私はとんでもない勘違いをしていた。うどんを汚したと思い込んでいた天かすはつゆの大海の真上に広がる雲だったのだ。その雲の中をうどんが弾けるように飛び跳ねていたのだ。天かすは筋斗雲のようにうどんの味を飛翔させあり得ないほど美味にする。生姜はつゆの大海の元となる塩だった。生姜は幼魚であった頃からうどんをずっと育てて来たのだ。そして醤油はつゆの大海に恵みをもたらす雨だった。ああ!醤油は全てのうどんの源だった。私はすっかり天かす生姜醤油全部入りうどんに打ちのめされていた。まさか、まさかこんなに美味しいうどんの食べ方があったなんて!私はなんでバカだったのだろう。彼がこんな美味しいうどんの食べ方を教えてくれたのに、そのありがたみに気づかず挙げ句の果てに彼を殺そうとするなんて!私はあっという間にうどんを食べ終わると思いっきり泣いた。ああ!ごめんなさい!あなたがこんな素敵なうどん教えてくれたのに!もう申し訳ないという思いと自分への腹立たしさで涙が止まらなかった。彼はその私の肩を抱いて言った。

「もういいんだよ。これからずっと天かす生姜醤油全部入りうどんを作ってもらえれば」

「ずっと……?」

「そうずっとさ。お前と俺はうどん職人として、ヘルパーとしてここでずっと暮らしていくんだ」

「でもいいの?私はあなたをうどん生地で殺そうとした人間なのよ」

「うどん生地で殺そうとした?お前何言ってるんだ。俺はさっきお前の天かす生姜醤油全部入りうどんを食べたショックで記憶喪失になってるんだ。覚えているのはお前とうどんを食べていた幸せな時間だけさ」





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